二つのステラ〜楽園の小鳥は愛を歌う〜

乃木ちひろ

プロローグ 聖母子像は涙する

 漆黒の背景に溶け込むように描かれた聖母子像。聖母マリアと腕に抱かれた幼いキリストの輪郭は溶け込みながらも、鮮やかな発色と巧みな陰影とが、人肌の温もりや衣服の感触まで見る者の五感に訴えかけてくる。

 男が包みから取り出した絵を、アンジェリカはじっと眺めた。


「このマリア様がわたしに似ているの?」

「ええ、そう思いませんか? 穏やかで慈愛に満ち、見る人の喜びにも悲しみにも寄り添ってくれる表情。あなたにそっくりです。ラファエロ・サンティの作品ですよ」


「ふぅん。ラファエロって、すごい美男だった人よね。サン・ピエトロ大聖堂で見かけたことがあるもの。若くして画家として大成功して、とてもモテたのでしょうね」

「それが何年か前に、あっけなく急死したんですよ。生きていれば、もっともっと傑作が生まれたでしょうに。あれはイタリア、いえ全ヨーロッパにとって大きな損失でした」


「そんなにすごい人だったの。だとするとこれ、すごく貴重な絵じゃないの?」

「そうですよ。あなたのために極秘で入手しましたから」


 男は慈しみを込め、娼婦の髪を撫でた。よく手入れされたまっすぐな金髪はアンジェリカの自慢で、少し物憂げな青い瞳と共に、ローマの高級娼館『楽園イル・パラディーゾ』で二番人気を誇っている。


「でもわたしは絵のことはよく分からないし。もったいないわ」

「いいんですよ。持っていてください。私が贈りたいのです。こうして飾っておけば、価値の分かる客が買いたいと言ってくるかもしれないでしょう。そうしたら私はあなたの役に立てるのですから」


 男はベッドの頭のすぐ上の壁に、額縁を引っかけた。元は十字架に磔にされたキリスト像を架けていたが、それもこの男が「キリスト教徒として不敬ですが、痛々しくて実はあまり好きではなくて」というので外したのだ。


「あなたって不思議な人だわ。普通はみんな、高級な布地や宝飾品を贈りたがるものよ」


 アンジェリカは笑いながら男を寝台に座らせて、太腿の上に跨った。着ていたローブを肩から落とし、燭台の光に裸体をさらけ出す。

 同じく燭台に灯された化粧台には、薔薇をかたどった形や色ガラスの香水瓶が雑然と並び、ひつには最先端のドレスが何枚も納められている。どれもこれも彼女が自らの美貌で手に入れたものだった。


「生憎、そういうセンスは持ち合わせていませんで。でも絵の事なら分かります。宝飾品よりもきっと、あなたを引き立ててくれるはずですよ。この聖母マリアも美しいですが、あなたの肌はもっと魅惑的ですから」


 男はアンジェリカの腰と背に手を這わせながら顔を近づけ、若くみずみずしい肌を吸った。首筋、乳房と下へ向かうにつれ、口づけが熱と湿り気を帯びていく。

 両手で男のダークブラウンの髪を撫でまわし、体重をかけて男を寝台へ押し倒す。


 だが男は何を思ったか、アンジェリカの腹に顔をすりつけただけで、次には寝台から抜け出していた。


「もう終わりなの?」

「すみません。でも今日は用事があるので、これで」


 いつか見かけたラファエロは、遠目にも華のある男だったが、この男の笑顔も充分に甘く、なにより安心感がある。整えた身なりは派手ではないが、物腰や言葉遣いに粗野な感じがなく、余裕を感じさせるのだ。

 芸術家の支援や美術品の流通に携わっているというから、裕福なのは間違いない。もしかするとどこかの貴族の傍流なのかもしれない。


 一人残されたアンジェリカは、夢をみてはいけないと自分に言い聞かせた。

 彼が指名してくれたのはこれで三度目。まだ三度目なのだ。でもあんな素敵な人に身請けされて奥さんにしてもらえたらどんなに幸せだろうと、想像せずにいられない。


 他の客相手でこんな気持ちになったことはない。だからこそ、これ以上舞い上がってはいけないと自分を戒める。

 だけどこの絵は大事に持っていよう。いつか働けなくなって生活に困ったら売ればいいと、そのくらいの気持ちでいた方が彼も気が楽だろう。


 男への思いで胸をいっぱいにしてから、アンジェリカは次の客を迎えるために準備を整えた。


 男の言う通り、ある程度の身分や教養を享受している客は一様に、聖母子像を褒め称える。そんな絵が自分だけのもので、しかも特別に与えられたのだという優越感は、アンジェリカの誇りになりつつあった。


 今度はこの聖母マリアと同じ、翠玉エメラルド色のローブを仕立てようと思う。彼は気付いてくれるだろうか。


 絵を飾ってから一週間後、最後の客を帰して『楽園』が早朝のまどろみについた頃。アンジェリカの体に異変が起きた。

 爪先までよく手入れされた全身に、黒く硬化したぶつぶつの斑点が現れ、少し力を入れただけで指の間に美しい金髪が抜けていく。


 日が高くなってから娼婦たちが目にしたのは、抜け落ちた金髪を寝台中に広げ、もがき苦しんだ表情のまま、うつ伏せに冷たくなっている姿だった。

 そして頭上の聖母子像が、その死を嘆くように黒い涙を流していた。

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