Ⅰ 魔女狩りと呪われた絵ー①

 カーン、カーンと、午前六時を告げる鐘の音がローマの街に響きわたる。日の出は間もなくだ。


 サン・ピエトロ大聖堂から不揃いの石畳を東に進み、ローマの守護神、サンタンジェロ城を仰ぎ見る。頂上に大天使ミカエル像を頂く巨大な円形の城塞だ。

 元々は古代ローマの皇帝、ハドリアヌスの霊廟として建てられた。しかし歴代のローマ法王によって、霊廟の外郭に星型の稜堡りょうほが増築され、今では要塞や牢獄として使われているのだ。己の墓が後世そんな用途になろうとは、ハドリアヌス帝は想像しただろうか。


 一五二七年、三月のローマはまだ朝の冷え込みが強い。背中を丸めたルカは、テベレ川にかかるサンタンジェロ橋を渡っていた。


 肩まで垂らした金髪に、詰め襟の黒い神父服の裾を揺らして、意気揚々と出勤途中なのではない。バチカンのローマ法王庁から、ある場所へ向かっているのだ。


「改革派の根城って言うけど、またガセじゃないよなぁ」


 ぼやくのは、つい先週も別の通報を受けて踏み込んだが、確たる証拠は得られなかったからだ。事前調査の手を抜いたのか、知らされていた情報とあまりにかけ離れていた。あらぬ疑いをかけられ憤慨した家主へ、一日中頭を下げ続けるはめになったのだ。


 司祭ルカの所属は、法王庁裁判所の使徒座署名院という。本来は教会法の解釈に関する問題や紛争を解決する司法部門だが、今は改革派の取締りに駆り出されていた。


「はぁ、こんなのばっかりだ」


 ローマ法王を頂点とする、巨大なローマ・カソリック教会で出世する条件は二つ。イタリアの大学で法学や神学の優秀な成績を修めることと、バチカンへ潜り込むために有力者とのコネクションを得ること。

 そこまではルカにもある。だが最近は更に、賄賂ワイロ贖宥状しょくゆうじょうが必須になっているようだ。


 バチカンはイエス・キリストから「天国の鍵」を預けられた、聖ペテロの代理人たる法王が住まう場所だ。ペテロはキリストの最初の弟子であり、十二使徒の中心人物であった。そして迫害され殉死した後、バチカン丘に埋葬されたという。その墓の上に建つのが、カソリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂だ。


 全キリスト教徒の祈りを支えるバチカンで働くという夢を、ルカは叶えた。貧乏人らしからぬ上品な顔立ちをしているとか、聖職者では妻帯できないのだからもったいないとか言われるが、そんなのはどうでもいい。

 ルカにとって、もっと大事なことがある。


「でも賄賂で出世したら、次もまた賄賂だ。賄賂漬けの人生になって、そのうち親兄弟にも、主キリストにも顔向けできなくなる」


 だが同僚たちは皆、ルカよりも上の叙階を手に入れていた。己に力量と才覚が足らないとはルカも思わない。ただどうしても、ルカには踏み越えられないのだ。だからこうして、押しつけられた雑用を拒否できない立場にいる。


 くさくさとしながら一刻(約五十分)歩くと、広がるのはローマ最大の歓楽街だ。活気をみせるのは夕日が照り返す刻からであり、まだ朝の食時であれば往来の人通りは少なく、どの店も門戸を閉めているというものだ。


 目当ての店が見えてきたところで、「キャ——ッ!」と女の悲鳴が響く。


「うるせぇ、この腐れ魔女が!」

「おっぱいぐらい見せろよ。どうせ淫売魔女なんだからよ」

「痛い! やめて、やめて! 誰か助けてーッ!」


 通りから一本奥まった狭い路地で、三人の男が女を囲んで蹴飛ばしている。すると二人が女を仰向けに押しつけ、一人が女に馬乗りになり、服を破き始めた。


「イヤーっ! 離せ、呪われろ! このクソが!」

 女はありったけの汚い言葉を投げつけ、必死に抵抗している。

「ヘっヘヘヘヘっ、魔女の呪いってか——ウォッ!?」


 背後からルカに蹴り飛ばされた男が、情けない声と共に正面の壁へ衝突する。顔面をまともに打ちつけた男と、片足を上げた黒い神父服のルカを交互に見て、残った二人の男は一目散に逃げだした。


「君たちに魔女が何か、異端が何か分かるのかな」

「クソっ……金儲け主義の神父どもが」

「へえ、主義なんて言葉をよく知ってるじゃないか。では君たちの主義を聞かせてほしいな。今、ここで」


 ルカが一歩前に出る。男は一歩下がり、血が止まらない鼻を押さえて、よろよろしながら去っていった。なんのことはない、三人ともまともな喧嘩の経験も無さそうな若者だ。


 だが女には怖くてたまらなかっただろう。髪はぼうぼうで、粗末な身なりだ。破れた服を胸元にかき集め、震えている。その表情は、ルカの姿にも安堵する様子はなかった。女の前にかがみ、ルカは硬貨を取り出す。


「少ないけれど、これで着るものを用だ——」


 言い終える前に女は金を引ったくり、路地の奥へと走って消えた。一人残されたルカは、ゆっくりと立ち上がる。


 聖職者でもない者たちが白昼堂々、娼婦や売春婦を魔女と称して、私刑を加える事件が横行しているのだ。あの若者たちはこの辺りの不良だが、中には自警団が正当化している地区もある。

 それも腐敗したカソリック教会を浄化しようとする、改革派の煽りを受けているからだろう。


 金儲け主義の神父ども。若者が放った言葉は決して的外れではない。

 今や、ローマ全体が不穏な空気に揺れている。吹いてくる三月の冷たい風は、カソリック教会への逆風そのものだ。


 振り返ると、ひときわ美しい女がいた。黒檀色の髪に小さな顔、紫水晶のきらきらとした大きな瞳。そして遠目にも触れたくなる滑らかな肌をしている。だが着ているのは男物だ。

 花びらにも似た顎と口から、少し低めの声が鳴る。


「彼女は下層の貧しい娼婦だよ。襲われたのも今日が初めてじゃない。みんなが魔女だと言うよ」

「職業や貧富の差で魔女かどうか決まるわけじゃない。娼婦だからって暴力を振るわれていいわけないだろう。それに何の根拠もなく魔女狩りだなんて、ただの虐殺だ」


「そう。珍しい神父様だね。どうしてお金を渡したの?」

「どうしてって、困っている人を助けるのは当たり前で……」


 ルカの言葉が止まったのは、その人の微笑みがあまりに綺麗だったからだ。己の胸の中に花が咲いたのを感じた。


「来て」

「えぅっ」

 手を取られていた。やわらかくてふわふわしている。


 いけない。俺は司祭で、俺の心は主と共にあって。だからこんな風に手をつなぐなんて。胸が高鳴ってしまうなんて。


 連れられたのはすぐ目の前の『楽園イル・パラディーゾ』という看板だった。洒落たレンガ造りに神殿のような太い柱を備えた立派な店構えは、聖職者のルカでも知る高級娼館だ。


 しんとした店の中へ入り、大きな階段を二階に上がっていく。更に奥の通路から三階へと引っ張られて上がると、その人はある部屋の扉を開けた。

 こもった錆鉄の臭いとわずかな生臭さに、夢見心地の花畑から一気に引き戻される。


 寝台に横たわっていたのは、皮膚が紫色に変色した女の死体だった。

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二つのステラ〜楽園の小鳥は愛を歌う〜 乃木ちひろ @chihircenciel

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