Ⅲ 小鳥に会いにー⑤

 アヤの服装は前ボタンのワインレッドのプールポワンに、ほっそりとしたふくらはぎの形が露わなショース。髪は一つにまとめて、明らかに男の格好だ。にもかかわらず、きらきらした大きな瞳やサクランボの唇はどうしようもなく魅力的だった。


 その場にいた三人のルカにとっても同じだったのだろう。四人目のルカは恨めしそうな視線を一斉に向けられたが、得意げに受け止める。


「待たせてごめん。行こうか」

「それより伝えたいことがあって」 

「ここじゃ人目が多い。外に出よう」


 それじゃあ悪いね、と三人のルカたちに告げ、大聖堂を抜けて外に出る。


「大丈夫だった? 他のルカに何かされなかったか?」

「何もないよ。別のルカを呼んでと伝えたら、次々と違うルカが来ちゃってね。楽しくお喋りしてた」


 さすがはローマ随一を誇る人気娼婦の応対だ。

 二人はテベレ川沿いを歩くことにした。今日はよく晴れて暖かい。仕事に集中していたせいか、もう午後になっていたと初めて気付いた。


「えっ、昨夜来た金持ちの客が、聖母子像の絵をアンジェリカに贈った男!? それで、アヤは何ともないのか⁉」

 思わず立ち止まってアヤの正面に回り、肩や腕に触れて確かめてしまった。


「あ! いやごめん、そんな触るつもりじゃ……」

 目を丸くしているアヤ。服の上からとはいえ、べたべた触って気分を悪くさせてしまっただろう。


「あなたって、本当にやさしいんだね。あのお客が何者かよりも先に、僕の心配をしてくれて」

「はぅぁっ……!」


 息が止まったのは、頬にアヤのやわらかな唇が触れたからだ。全身がわななき沸騰するこの感じは、天界から飛び降りた衝撃に匹敵する。


「男はミカエルと名乗っていたよ。スイス出身だとか、なめし革の取引をしているとか、語った話のどこまでが本当かは分からない。どうしてアンジェリカねえさんが標的になったのかも分からないし」


 そんなルカには構わず、アヤは話しを続けている。テベレ川に飛び込んで全身を冷やしたいところだが、ルカは頭を振って立ち直ろうとした。


「僕はミカエルという男の正体を突き止める。昨晩一緒に店に来たヘロドなら知っているはずだよ。ルカにも協力してほしいんだ」

「ヘロドって、煉獄の頭目だろう。俺たちも一昨日、聖母子像の作者テオのアトリエで襲われたよ。かなり危険な奴らだ。バベルに任せた方がいいんじゃないか」


「駄目だよ! バベルには絶対に言わないで。襲われたなら分かるでしょ? ヘロドはバベルを殺したくてたまらないんだよ。バベルを煉獄に近づけちゃいけない。ミカエルのことを僕が話せば、バベルは間違いなく奴らの本拠地へ向かってしまう」


「そうだけど、アヤが危険を冒す方がバベルは良しとしないんじゃないか」


「それでもいい! たとえバベルに嫌われても、彼が無事な方がずっといいよ。お願いルカ、僕に力を貸して。そのために来たんだよ」


 恋する相手を想い語る瞳というのは、どうしてこんなにも人の心を動かすのだろう。ルカは頷いていた。


「わかった。バベルには言わないと約束する。でも煉獄へ突撃する前に、俺も聞きたいことがあるんだ。亡くなったアンジェリカたちの客の中に、教会の高位聖職者がいたか知らないか? 実はかなりの大物が相次いで変死しているんだ」


「つまりねえさんたちの死と、その人たちの死に関連があるかを調べたいんだね?」

「うん」

 アヤは少し考えた。


「情報を洩らさないために、娼婦同士でお客の身元は話さない決まりになっているんだ。だから僕は知らない。それに相手をした当のねえさんたちに、語る口はない」

「難しいか」


媒婆ばいばのルチアは客の顔や好み、金払いの具合は把握しているけど、高位の聖職者は身元を明かさずに利用するだろうね。でも手がかりがないか探してみるよ。その人たちの名前や、外見の特徴を教えてくれる?」


「うん。アヤは字は読めるよな?」

「おかあさんから厳しく仕込まれたからね」


 腰に付けたポーチから小さなインク瓶とごく短い羽ペンを取り出し、紙切れに書きつける。大事そうにアヤは受け取った。


「それにしても、ミカエルという男は一体何をしに来たんだろうか」

「ヘロドと密談なんじゃない。ローマのことや、ランツクネヒトと聞こえたよ」


「アヤには贈り物はなかったんだろう?」

「うん。僕の噂は聞いていたらしいけどね」

「わざわざ総上げにしてまで?」


「それ逆。総上げにしないと僕には会えないんだよ」

「どういうこと?」

「バベルは店に来ない日の分まで楽園イル・パラディーゾに支払いをしているんだ。だから僕を相手にしたいなら、バベル以上に金貨を積むか、総上げにするしかないんだよ」


「ぎぇっ、一体いくら支払っ……いや、いいや。聞かないでおく」

 他の男をアヤに近づけたくない。その気持ちは十分に伝わった。


「その、気を悪くしないでほしいんだけど、バベルとはどうやって?」

 男装でも女装でも、アヤの美貌は格別だ。だが体を求められたらどうするのだ。

 意図を理解したアヤが「んっふ」と色っぽい吐息で笑う。


「男でもいいって人としかしないよ。それにバベルは、彼から求めてきたんじゃない。僕がどうしても欲しかったんだ」

「いっ⁉」

 そういう経験のないルカには刺激が強すぎる。


「これも言わないでほしいんだけどね、バベルはあなたを知っていたんだよ」

「え?」


「少し前に、よその娼館で暴力沙汰があったでしょう。歩けなくなるまで娼婦が暴力を振るわれた事件。やったのはローマ市政務官の息子だったけど、彼は自分の罪を取り巻きの一人になすりつけようとした。でもあなたは証拠を集めて、取り巻きの無実を証明したよね。その取り巻きが、ベツレヘムの一員だったんだ」


 確かに扱った。ローマ市政務官の親の威光をかざし、普段から素行の悪さで有名な放蕩息子だ。ルカが真実を明らかにしたせいで政務官も更迭される事態になり、法王庁に苦情が入ったらしい。上司からはありがたい仕事をしてくれたものだと、散々嫌味を言われた。


「汚職まみれの法王庁の中にもマシな奴がいると、珍しくバベルが嬉しそうに話していたよ」

「ふぇ……。おっ、俺も、バベルは頼りになるし、意外と思いやりもあるし、そんなに凶悪な奴じゃないと思ってるよ」


「ふふふっ。ありがと。じゃあ、そろそろ帰るね。チャオ」

 アヤは手を振って帰って行った。娼館の用心棒が一緒だというので、心配はない。


「そっか……バベルが」

 アヤに微笑みかけられた時とは違う、ふつふつとした熱を胸に感じる。

 なんだろう、足が軽い。体も軽い。背中に羽根が戻ったみたいだった。

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