Ⅲ 小鳥に会いにー④
布団をかけると暑く、はねのけると今度は寒い。かと思えば、かつて地上へ突き落とされた落下感と、初めて知った重力に押しつぶされる息苦しさに、何度も目を覚ます。起床すると汗で体がベタベタになっていた。
悪魔だった頃の名残なのか、ルカが睡眠中に夢を見ることはない。だから悪夢にうなされた経験はなかったが、映像として夢は見ずとも、今のは間違いなくそれだろう。
「だからやっぱりあの絵は呪われてるよ。怖ーっ」
早朝、ルカと共にテーブルについている相手はしかめ面のバベルで、ここはバベルの家だ。聖母子像の絵と一晩過ごして様子を見ろと言われたまではいいが、一人ではどうしても怖かったので、バベルの家に押しかけたのだった。
メディチ家出身で若くして司教にまで出世。しかも犯罪組織の頭目が、一体どんな家に住んでいるのかとついて行ってみれば、住宅難のローマでよくぞというほど広い邸宅だった。門番から使用人まで全員が厚い筋肉に覆われているのとは対照的に、廊下には繊細な彫像や絵画がいくつも飾られている。
やはりバベル自身も芸術に関心があり、収集しているのだろうか。
バベルの真意は測りかねたが、なんだかんだ追い出すことなく一晩泊めてくれ、朝食まで出してくれている。
「悪霊は出なかったんだろう」
「姿は現さなかった。けど絶対何かあるよ。こんなに眠れなかったのは初めてだし」
「お前の睡眠の質は知らんが、悪霊が出れば俺にも分かる。だが昨夜は感じなかった」
「もしかして俺のこと、気にかけてくれてたの?」
ドガッ!
バベルの持つフォークが、ゆで卵を突き刺す。皿を突き抜け、使い込まれたオーク材のテーブルにまで達しそうだ。
「ちょっと嬉しかっただけなのに。そんな顔しなくてもいいじゃんか」
小さく言ったのが良くなかったのか、バベルはフォークを放り投げて席を立ち、こっちへ近づいて来た。パンを口に運ぶルカの右手首を、もの凄い握力で奪う。
「イッタタタッ!」
殴られるのかと覚悟して目を閉じたが、降ってきたのは拳ではなく声だけだ。
「この手は何だ?」
「え?」
血が遮断され変色しつつある手の平、指の付け根の辺りに、水ぶくれができているのだ。
「あ、ああ、朝起きたらそうなってた。なんだろうな?」
「昨日までは無かったんだな?」
「そうだよ。よく見えたな」
バベルは腕を突き放すと、そのまま食堂から出て行ってしまった。
ルカものんびりはしていられない。カーン、カーン、と午前六時の鐘がローマの街に響き渡る。食べた食器を下げ、ものものしい使用人たちに礼を告げて、向かうはバチカンだ。
サン・ピエトロ大聖堂を通り抜け、奥の法王庁の建物に入ると何やらせわしない。
「ルカ、ルカ! 今日に限って遅いじゃないか」
「おはようマルコ。何かあったのか?」
同僚はすっと声を潜めた。
「
「変死? また?」
またというのは、つい五日前にはオッタヴィアーノ枢機卿が、二週間前にはウベルト枢機卿にトビア大司教と、連続として亡くなったばかりなのだ。どれも急死かつ、葬儀は急ぎ執り行われたというから、変死なのではと囁かれていた。
「大物四人だけじゃない。あまり公にされていないが、主任司祭にも死者が出ているんだ。揃いも揃って同じ時期って、おかしいだろう?」
「ああ……。変死って、死に様はどうだったのかな」
「ルカはローマ大学だったよな。カミロ主任司祭は知り合いか?」
「先輩だったよ。まさかカミロも?」
マルコは神妙に頷く。カミロはサン・ピエトロ大聖堂と共にローマの四大バシリカに数えられる、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂の主任司祭だ。
「大物や出世してる奴ばっかりで、ざまあだけど」
ちょっとだけ肩をすくめて、マルコは自分の席に戻った。ルカと同じく、
ルカの頭にあるのは、楽園で目にしたヴィオラの紫色に染まった遺体だ。もしカミロも同じようだったら——。
調べてみる価値はありそうだ。その為には仕事を早く切り上げようと、猛然と裁判書類に向かう。
周囲のざわめきも気にならぬほど集中してこなしていると、急に肩を揺さぶられた。
「ルカッ! さっきから何度も呼んでるのに。返事くらいしろよな」
「マルコ? ごめん、全然聞こえてなかった」
「まったく、何時間座りっぱなしなんだよ。一応聞くが、使徒座署名院のルカを探して、黒髪のすごい美人が訪ねて来ているそうだ。ここにいるルカじゃないよな?」
ルカを呼ぶ黒髪のすごい美人。そんなの一人しかいない。
勢いよく立ち上がったので、椅子が後ろに倒れた。
「それ俺だよ! もしかして違うルカが呼ばれて行ったのか?」
「え? ああ、使徒座署名院にルカは何人かいるからって、おい!」
もう駆けだしていたので、最後の方は聞き取れなかった。廊下を走り抜けて中庭に出ると、案の定、すごい美人が三人の神父服に囲まれている。
「アヤッ! ごめん遅くなって!」
こっちを向いたアヤの顔が輝く。ルカの鼓動が鐘のように全身に鳴り響いた。
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