Ⅲ 小鳥に会いにー③

「これは、まさかローマ随一の娼館で、屋根の上に案内されるとは思いませんでしたよ」

「空に近づいたような気がするでしょう? たまに一人で、こうして空を眺めていますの」


 二人はぴったり寄り添って腰を下ろした。眼下には歓楽街を行き交う人が持つ灯りが連なっているが、少し先を見るとコロッセオの大きな塊が影を落とし、遠くからマンドリンの音色が聞こえてくる。


「先ほどの素晴らしい『ピューモラスとティスベー』は誰に習ったのですか?」

「この店の女将ですわ。捨て子だったわたしを拾い、幼い頃より詩歌や音楽を教えてくれました」

「あなたを仕込んだ女将は、並々ならぬ教養の持ち主ですね」


「実は女将は異教徒との混血で、若い頃はオスマン帝国の宮中にお仕えしたと聞きます。わたしにとっては今でも厳しい母ですわ」

「ああ、なるほど。それでアヤなのですね。アヤソフィアのアヤ」

「よくご存じで。さすがですわ」


 アヤソフィアは、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルにある、最も格式の高いイスラム教モスクだ。最初はキリスト教の聖堂として建設されたが、一四五三年にオスマン帝国のメフメト二世がコンスタンティノープルを制圧して以来、モスクになった。


「女将には多大なご苦労があったのでしょう。男のあなたを最上の花魁コルティジャーナ・オネスタに育て上げた女将の慧眼には感服しますが、あなたはそれでよかったのですか?」

 アヤは静かに微笑む。


「ミカエル様は、わたしが女将から受けた恩を返す為に、仕方なく娼婦をしているとお思いですか」

楽園イル・パラディーゾをローマ随一の娼館へ成長させた女将のことです。女よりも美しいあなたを無理矢理に看板商品にしたと想像していましたが……、どうやら違うようですね」


「ご明察ですわ。きれいなドレスを纏い、化粧をして美しく変化していく姉たちに、幼い頃からずっと憧れていました。男ながらわたしもああなりたいと、ごく自然に思ったのですよ。姉たちはみんな、わたしをとても可愛がってくれましたから」


 マンドリンの音色が途切れる。ミカエルの瞳がアヤに近づく。


「この店がお好きですか」

「家族ですから」


 偽りのない一言。そう感じ取ったのかミカエルは、大きな翼で覆うようにアヤを抱きすくめた。こめかみに、頬に、唇が触れる。


「楽園のアヤ。なるほど、これは籠の中に入れて、誰にも渡したくなくなりますね」

「ミカエル様はどちらからいらしたのですか? イタリアの外でしょうか」

「なぜそう思いますか」

「お連れの方が、ドイツ語をお話しのようでしたので」


「目聡いですね。しかし私はスイス出身です。鞣革なめしがわの取引でイタリアに来て、少しばかり悪いことにも関わりまして。ヘロドさんとはそれで知り合いました。連れは元スイス兵です」


「スイス兵というと、バチカンの法王様の衛兵ですわね」

「その通りです。今や各国の模範になっている常備軍です」


「バチカンには行かれましたか?」

「もちろん。改築が進んでいるのですね。ラファエロの間やミケランジェロの天井画には圧倒されましたが、私は根が商人なので、一体いくらかかったのだろうとつい考えてしまいます。果たして信仰に必要なのかとね」


「改築の費用を贖宥状で回収しているのですわよね。批判も多いと聞きます」

「宮殿のような豪華絢爛な神の家を建てて権威を主張せずとも、信仰は人の心に根付くはずです」


 月を見上げる。


「ローマは初めてですが、さすが世界の首都と呼ばれるだけありますね。人も歴史も建物も、何もかもが私の常識の規格外でした。あなたのことも」


 この男の声も視線も、体温以上に温かみを感じる。薄っぺらさはなく、真摯に言葉を紡いでいると思うのだが、なぜかこれ以上心を許してはならないと、アヤの中では警鐘が鳴り響いていた。


「ミカエル様の言葉で、また明日から頑張ろうと思えますわ。次はいついらっしゃいますの?」

「日曜の復活祭まではいます。その後は一旦スイスに帰りますので、次はまだ未定です。でも必ずまた来ますから、それまで私を覚えていてくれますか」

「もちろんですわ」


 月明りに照らされたミカエルの口元にそっとキスする。手を取り、アヤは立ち上がった。

「戻りましょうか」


 広間には誰もいなかった。ワインを飲みながら、他愛もない話をしているうちに酔って眠ってしまったらしい。長椅子で目が覚めると、紅色のドレスの膝にミカエルの頭が乗っていた。既に夜は明け始めている。


「ミカエル様、朝ですよ」

「んぁ……、あぁ、これは失敬。最高の枕でした」


 その笑顔がどこまでが本物なのか、それとも全部虚構なのか。結局最後まで分からぬまま、ミカエルと元スイス兵の男らは帰って行った。ヘロドは夜中のうちにいなくなったようだ。


 見送りが終わり部屋に戻ろうと階段を上りかけたとき、媒婆ばいばのルチアに呼び止められる。


「アヤ……、あんた何ともないかい?」

「少し飲み過ぎたけれど平気だよ。もしかして僕、ひどい顔してる?」

「そうじゃなくて、あんたがお相手をしていた男だけどね」


 周りに誰もいないことを確かめ、ルチアは怯えているようだった。


「アンジェリカに例の呪われた絵を贈ったのはあの男だよ。髪型や服装を毎回変えて来るけど、間違いない」

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