Ⅲ 小鳥に会いにー②

「あら、せっかく総上げになさったのですから、舞や楽をお楽しみになられてはいかがですか」

「構いません。あなたを一人占めできるのなら安いものです。少し商談がありますので、また後程来てくれますか」


 それが合図だったように、いかついドイツ語訛りの男が「皆ご苦労だった。外してよいぞ」と言い渡す。


「ではまた」

 アヤを放し、ミカエルはワインで口を潤した。困惑顔の女たちがぞろぞろと退室し、最後にアヤも続く。


「また後で呼ばれるでしょうから、みんなお化粧を直しておいてね」

 年長の娼婦に言われて「はぁい」と返事をし、皆それぞれの部屋へと散っていく。


 ローマの犯罪組織と、ドイツ訛りの武人らしき男と、身元不明の金持ち男。何の繋がりかはわからないが、危険な臭いだ。わざわざ娼館という場所で会合するからには、接待と密約を兼ねているとみえる。


 普段は客同士の話に立ち入ることはないのだが、この時ばかりはどうしても気になった。そこで隣の部屋でしばらく耳をそば立ててみたが、内容までは聞き取れない。

 だが会話に度々「ローマ」と、「ランツクネヒト」という聞いたことのない言葉が使われていた。


 ローマで何をするつもりなのか。

 煉獄のヘロドは、バベルを倒して裏社会の覇権を握りたがっている。少なくともあの男が関わっていて、事が平穏であるはずがない。

 そう思いしばらく粘ったが、他に何か分かりそうにもなく、引き揚げようと扉を開ける。


 目の前の細長い顔に、思わず足がすくんだ。


「ヘロド……」

「こんなところで何をしていたァ?」

「何でもないわ」


 脇を通り抜けようとするが、腕をつかまれて引き戻される。


「ネズミがコソコソ嗅ぎまわりやがって。収穫はあったのかァ?」

「痛っ!」

 あらぬ方へ腕をねじり上げられる。


「客の話を立ち聞きするような娼婦には、仕置きをしなくちゃなァ。腕でも折ろうかァ?」

「あうッ」


 背中をドンと突かれて壁に押し付けられ、腕を取られている。このままヘロドが力を込めれば、腕が折れるだろう。

 密着してきたヘロドの生暖かい息が、耳元にかかる。


「そそる悲鳴を聞かせてくれよなァ」

「死んだねえさんたちの苦しみはこんなものではなかった。やるならやりなさいよ!」

「おォいおい、娼婦たちが死んだのはお前のせいだろうがァ」


 その言葉はアヤの体を深く刺し貫いた。

 アンジェリカ、シルヴィア、ヴィオラ——。臨終の間際までもがき苦しんだ死に顔が浮かび、それから目の前が真っ暗になる。体に力が入らず、されるがままになった。


「俺は男とヤる趣味はねぇが、バベルの顔を歪ませるためなら何でもやるぜ。糞尿まみれにしてやろうかァ」


 男の体で娼婦になった日から、どんな痛みや恥辱にも耐えると決めている。だからそんなことは構わない。

 抵抗しないアヤが面白くなかったのか、ヘロドは捻り上げていた腕を離すと、いきなり顔を殴りつけてきた。


 床に転げると、次の拳が振り下ろされる。

 覚悟はしていても、やはり暴力は怖い。顔を庇って小さくなることしかアヤにはできなかった。


 ねえさん。ねえさん。ごめんなさい。僕がもっとしっかりしていれば。


 暗い意識の中で、体が自分のものではなくなっていくようだ。その証拠に、体を蹴り上げられても痛みはない。殴る快感に浸るヘロドの声も、遠くのざわめきにしか感じなくなる。


「泣いて叫べよ。バベルを呼んでみろ! オラァ!」


 髪の毛をつかまれ、顔を上げさせられた時だ。


「ヘロドさん、今夜彼女を買ったのは私ですよ。横取りされては困ります」

 柔らかそうなダークブラウンヘアが、開いた扉の木枠に寄り掛かりながら告げる。ミカエルだ。


「個人的なご事情は存じませんが、店の一番大切な商品に傷をつけるのはよろしくないのではありませんか」

 舌打ちしたヘロドは、アヤに唾を吐きかけて出て行った。


「大丈夫ですか?」

 ミカエルはハンカチを出して唾を拭い、アヤの腕を取り立ち上がらせる。

 彼の手の温もりを感じた途端、全身の感覚が急に戻り、痛みがきた。思わずふらつくと、抱いて支えてくれる。


「申し訳ありません」

「いいえ、お気になさらず。怖かったでしょう」

 ミカエルはアヤの背中に手を添え、呼吸を合わせた。そのままアヤの鼓動が落ち着くのを待っている。彼の体からは、新しい革の香りがした。


「痛みは? 歩けそうですか?」

「はい。体は丈夫ですので。お気遣い痛み入りますわ」

「このまま、あなたをどこか景色の綺麗なところへ連れ去りたい気分です」


「まあ、この時間にですか?」

「今宵は満月ですから、月が明るいですよ。たまには夜の散歩でもいかがですか。馬車も用意してあります」

「この辺りは犯罪組織も多いですし、夜は危険ですわ。でもいいことを思いつきました」


 乱れた髪をほどき、アヤは金の耳飾りを揺らして笑顔を見せた。

 ミカエルの手を引き階段へとつれていく。二階を過ぎ、太客しか通さない三階の廊下を静かに通り抜け、端の部屋の窓から外壁に据えられたはしごを上った。薄絹のショールは邪魔なので下に落とす。


 近づいた夜空には、白く明るい月だ。風が少し冷たく、ミカエルは着ていたベルベットのプールポワンを脱ぐと、アヤの肩にかけた。

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