Ⅲ 小鳥に会いにー①

 総上げと聞かされ、アヤの身支度にも気合が入る。

 コルセットをぎゅうぎゅう締められ、ほっそりしたウエストを作ると、アヤは小さく息を吐いた。女たちはここから更に胸を高く持ち上げるのだから、着ているだけで体力を消耗するというものだ。


「ねえさん痛かったですか?」

「ううん、平気だよ。えらいね、もう着せ方を覚えたんだね」


 アヤの支度を手伝うノラは、まだ十歳。楽園イル・パラディーゾには一週間前に引き取られたばかりで、ようやく臆せずに話せるようになったところだ。


「おかあさんに何度も叱られたから」

「ノラはおかあさんが怖い?」

 少し迷って、ノラは小さく頷いた。


「僕もおかあさんにたくさん叱られてきたんだよ」

「アヤねえさんが? 本当に?」

「うん。おかあさんが叱るのは、ノラを一人前の娼婦に育てるためで、ノラが憎いからじゃないんだよ」


 目の覚めるような紅色の前合わせのドレスは、蔓草模様の豪奢な刺繍が施された帯で締める。胸元で締め、腰から下を長く見せるのが流行だ。金の耳飾りに、翡翠や真珠が輝く髪飾りを差し、そして王妃が纏うような薄絹のショールを羽織ると、ノラが感嘆の声を漏らす。


 アヤには、こういう異国情緒を感じさせるドレスが一番似合うのだ。この着こなしは他のどの娼婦にも真似できない。


 ぽうっとした顔で見上げているノラに、紙に包んだ小さなマルツァパンを一つ取って手渡してやる。アーモンドとはちみつを練り込んだ菓子だ。


「あとでお食べ。いってくるね」

「あっ、アヤねえさん、ありがとうございます!」


 宴はもう始まっている。音楽や舞を披露し、食事を楽しんでいる頃だろう。階下で待っていた女将に連れられて大広間へ向かうと、扉の前で立ち止まる。


「大変お待たせ致しました。当館の一番人気、花魁コルティジャーナ・オネスタのアヤでございます」


 大きなテーブルに座る男たちから、一斉に視線を受ける。

 左右に四人ずついて、それぞれに娼婦たちがついて接待していた。中央の四十代の男が手招きする。


「おおっ、これはまさに宝玉のごとしだ。こっちへ参れ」

 よく通る声に、戦士のようないかつい体躯をしている。話す言葉はイタリア語だが、ドイツ語訛りがあった。


 だが主賓はこの男ではない。隣の若いダークブラウンヘアの優男の方だと、経験からアヤは見抜いた。


「どうですミカエル殿、こちらがローマ随一の美女ですぞ」


 ミカエルと呼ばれた優男は、からっとした笑顔をアヤに向けた。垂れ目がちな瞳が印象的だ。貴族らしい服装に知的な顔立ちだが、何か違和感がある。だが不信感をおくびにも出さず、アヤは微笑んで横に侍った。


「アヤでございます」

「やっと会えました。あなたのことはかねがね聞いていましたが、噂以上ですね」


 ワインを注ぐアヤの指先から顔まで、ミカエルは熱く見つめる。目を合わせると、嬉しそうに顔をほころばせた。


「美しい紫色の瞳ですね。出身はどちらですか?」

「生憎、存じません。寒い日に店の前に捨てられておりましたの」

「そうでしたか、それでこの楽園に。ところで男だというのは本当なのですか?」


「ええ。仰せの通りですわ」

「これほど近くで見ても信じがたいです」


 そんなミカエルとは対照的に、向かいから石を投げつけられるような視線をアヤは感じていた。

 犯罪組織『煉獄』の頭領、ヘロドだ。


 元はベツレヘムの頭目だった男で、最初はバベルが彼の右腕だった。組織内の抗争で三年前に敗れたが、再起を企み、今なおバベルの命を狙っているという。縦に長い顔に奥まった小さな瞳を不気味に光らせているのは、昔から変わらない。


 ミカエルが明るく言う。

「アヤ、芸の嗜みはいかほどでしょうか」

「舞と詩を少々」


「では詩を朗誦してもらえませんか。あなたのお好きなもので結構です」

「かしこまりました。それでは『ピューラモスとティスベー』の一節を」


 アヤが立ち上がり、楽師の男へ頷くと、男はリュートを奏で始めた。客も娼婦も全員が注目する中、低音から始まる旋律は最初は静かに、徐々に激しさを増していく。

 そしてアヤの体から、伸びやかなアルトが放たれる。



 泉のほとりの桑の樹の下に わたしは待ちしに あなたの姿を

 されど残るは 血に染みし 足跡のみと 薄絹か


 ああ 愛しきあなたを滅ぼししは この身にして この身なりき

 闇深き夜の 恐ろしき場所へ 誘いし罪は わたしの心に


 見よ 桑の実の 白きものの 血潮に染みて 紅なすごと

 わたしの魂は 今この時 罪に染まる 深紅に


 獅子よ 獅子よ 願わくば 我が身を 引き裂きて給え

 今こそ 受けよ この血潮を わが身より流るる この血潮を



 バビュローンの街に住むピューモラスとティスベーは互いに恋に落ちたが、両家は折り合いが悪く結婚を許されなかった。結ばれぬならいっそ駆け落ちしようと、二人は泉のほとりの白い実をつける桑の木の下で落ち合う約束をする。


 先に来たのはティスベーで、近くに獣の唸り声が聞こえた。家畜を襲い、口の周りを血だらけにした獅子が水を飲みにやって来たのだ。危険を感じたティスベーはその場を離れたが、被っていた薄絹のショールを落としてしまった。


 その後桑の木の下に現れたピューモラスが見たのは、血だらけの獅子の足で踏みつけられ、引き裂かれた薄絹だった。

 愛するティスベーが獅子に食い殺されたと勘違いしたピューモラスは、彼女を誘い出した己の罪を悔いて、短剣を己に突き刺す。


 アヤが歌ったのはその劇的な場面だ。悲哀の表情と、情感のこもった声。そしてティスベーの薄絹と同じショールを使い、引き裂かれた純愛と絶望を全身で表す。全員が捕らわれ、まばたきを忘れて見とれていた。

 リュートの最後の一音が消えると、惜しみない拍手が沸く。


「お見事です。私の拙い語彙では、あなたへの称賛に値する言葉はとてもひねり出せそうにありませんが、心を打たれました」

「もったいないお言葉ですわ」


「確かこの後、戻ってきたティスベーは死んでいるピューモラスを見つけて悲しみに暮れ、同じように短剣を自身に突き刺し後を追うのですよね。深く愛し合いながらも決して許されぬ、そういう相手があなたにもいるのですか?」


「ふふっ、ミカエル様がひねり出された賞賛と受け取っておきますわ」

「妬けますね。しかもイタリア語ではなく、ラテン語とは。いや、恐れ入りましたよ」


 知的な相手を喜ばせるために、あえてラテン語を選んだのだ。

 ミカエルはドゥカート金貨を取り出す。庶民なら半年近くは暮らせる金額で、アヤの勝ちだった。


 それからミカエルの唇が首筋に触れ、アヤのまろやかなうなじをなぞる。


「この金貨で、二人きりになれますか」

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