Ⅱ 偽作師の悩みー④
地下は石造りのしっかりとしたアーチが連なる空間で、なんと祭壇がある。
「聖堂の地下にまた聖堂? しかもここは古いよな?」
燭台はいくつか灯されているが、上の聖堂に比べるとかなり薄暗い。よく見ると、祭壇近くの壁には古いフレスコ画が描かれていた。ここも教会で間違いないだろう。
「上の建物は十二世紀建造だ。ここは四世紀。もう一層下には一世紀の貴族の館がある」
「へえ! 司教でマフィアの根城にはぴったりだな」
「別に隠してはない」
「もしかして下が拷問部屋?」
バベルは答えない。礼拝用の椅子に腰かけ、聖母子像の絵を取り出すようルカに指示した。
「テオはこの絵の依頼人を直接知らないと言ったな。注文は全て煉獄の仲介を通して行われると」
「仲介屋が犯罪組織と分かっていて、それでも絵で食いたかったのかな」
「バカバカしい」
「よせよ。娼婦が死んだ黒幕はヘロドじゃなくて、依頼人てことだよな。この黒い涙を書き加えたのもそいつかな」
蝋燭が灯された燭台を持って、顔を近づける。背景の黒色や、聖母の衣の緑色に異常は見られない。黒い涙だけが二筋ずつ、母子の顔に描き足されているようだ。
「油彩でよく使われる炭から作る黒色に見えるな。奴のアトリエにもあった。だが溶け出したなら奴が描いた元々の目も崩れるはずだが、綺麗に残っている。依頼人か誰かが上から塗ったんだろう」
「うん、そうだな。ところでこの絵、どうして背景が真っ黒なんだろう。最初に見た時から違和感があってさ」
「黒単色で塗りつぶしたからこそ、単純な構図の聖母子の聖性を際立たせているとも言えるがな」
「なるほど。さすが見る目が違うな」
「テオは背景のことは何も言っていなかった。依頼人の指定だと言っていたから、最初から奴が黒く塗ったんだろう」
「となると、やっぱり呪いじゃないのかな?」
「それは分からん。悪魔が呪いを信じるのか?」
「当然だ。人の怨念が呪いや悪霊を生み出すんだぞ。神の産物の天使や悪魔とは全然別物なんだよ。それに悪魔は人の生き死には運に任せるけど、悪霊は標的が死ぬまで離れなかったりするからな。あぁ怖い怖い」
「悪魔のくせに、絵に憑いてる悪霊の姿くらい見えないのか?」
「悪魔は憑かない。いつもそこにいるわけじゃなくて、干渉する時に人間界での媒介を必要とするんだ。バベルは
「ある。戻った時も、悪魔に体を乗っ取られている間のことは何も覚えていないが」
「そう。人体を媒介にして、干渉する時だけ意識ごと奪うんだ。だからその悪魔は媒介を殺そうとはしないだろう?」
「確かにそうだ」
「一方で悪霊は元がただの怨念だから、人や物に憑かないと形を留められない。もはや媒介じゃなく本体なんだ。タチが悪いだろう?」
「悪魔にタチが悪いと言われる悪霊も複雑だろうな」
「いいだろ! 俺の媒介は水だったし、天使はよく夢や光を使うよな。偽作の絵を本体に選ぶ悪霊って、ちょっとマヌケじゃないか?」
「人の怨念が宿りやすいのは、貴重な宝石や、呪いの主が使っていた家具、家なんかで、共通するのは主の執着だ。やっとの思いで手に入れたのを騙し取られたとか、どうしても手に入れたい。そういう気持ちが入りやすい物体が呪いの媒体となる。ラファエロの真作なら分かるが、本物に比べたら安い偽作に、主が強い執着を示すとは思えんな」
「となると、娼婦が死んだのと呪いは関係ないかもな」
「それはまだ分からん。お前、この絵と一晩過ごして観察してみろ」
「えーっ⁉ やだよ、呪われたらどうするんだよ」
「阿保が。もし悪霊が出てきたら自分で退治すればいいだろうが」
「だから俺はもう人間と同じで、そんな力はないって」
「普通の人間は、刃物が刺さって平然としていられない」
「痛かったよ!」
「腹を刺された傷が、五秒で回復はしない」
「昔はあんなの瞬時に治ってた!」
穴の空いた神父服の腹をポンとする。
「でもさ、偽作の絵に隠れてバレないようにコソコソ人にちょっかい出してる悪霊って、キモイよな」
「……まあ、小者だろうな」
「もしかしてツボった?」
バベルは眉をしかめて誤魔化している。初めて見る顔に、ルカは両の口角が上がるのを抑えられず、袖口で隠した。
石窟教会から連れ出され、少しずつ言葉や表情を取り戻すルカに、シリウスはいつも笑顔だった。もしかしたらこんな気持ちだったのかもしれない。
顔を隠してぐふぐふしていると、バベルから反撃される。
「お前、アヤに近づいた本当の理由は何だ」
「え?」
「とぼけるな。たまたま通りがかっただけの司祭が、娼婦の死を追うはずがないだろう。本当の理由を言え」
「俺はただ、アヤに頼まれて。呪われた絵だっていうから興味もあったし」
「悪魔が下手くそな嘘でこの俺を誤魔化せるとでも思うのか。正直に言え」
怒鳴るわけでも凄むわけでもないバベルの声。だが確かな殺意に、ルカは腹の底が冷えた。
「……極秘なんだ。アヤと
「これ以上俺を待たせるな」
ルカは覚悟を決めた。バベルは激怒するかもしれないが、どうとでもなれだ。
「楽園が改革派の根城だという通報があったんだ。証拠を得ようと周辺を調査していた」
「それで娼婦の死に鉢合わせたことを利用し、店の中を探ろうとしたわけか。娼婦たちの死の真相を探ると、アヤに言ったのも嘘か」
「それは嘘じゃない! 彼女と約束した」
あの瞬間は改革派のことも仕事のことも忘れ、ただアヤの涙を晴らしたいと思った。だからこうして絵の作者を調べ、自らテオの家へと出向いたのだ。それを理解したのか、バベルの表情が少しだけ和らぐ。
「最近、楽園に新しい客が増えたのは確かだ。だがそいつらが改革派なのかまでは分から……なんだその目は」
激怒されなかった。ありがとう。あんた、やっぱり意外ともの分かりのいい人なんだな。そんな目で見つめられ、バベルはうろたえた。
「この悪魔がっ! 言っておくが、真相を探るのはアヤのためだ」
「わかってる。俺だってアヤのためだ」
娼婦の死がもっと大きな何かへと繋がっている。その予感に外れはないと、二人とも感じていた。
「煉獄に連行されたテオは無事でいるかな」
「絵を描ける程度には無事だろう。偽作は儲かる。売れている画家を模倣できる偽作師なら、引く手あまただ。あいつの腕はいい」
「ふぅん。褒めるなら、ベツレヘムでテオの作品を買ってやったらどうなんだ?」
バベルは片眉を上げる。
「俺が偽物を扱ったら、家名に後ろ足で砂をかけることになる」
「あ、そうか。メディチ家だったな。悪い」
メディチ家はルネサンス芸術最大の庇護者だ。ボッティチェリの『春』はメディチ家の婚礼を祝って描かれたし、ミケランジェロはフィレンツェのメディチ家礼拝堂の設計と彫刻を全面的に行った。バチカン宮殿で『アテナイの学堂』を描いたラファエロは、メディチ家出身の法王の元でサン・ピエトロ大聖堂の改築責任者にも選出されている。
そういうところ、気にするんだな。
平気で人を殺すし、男の娼婦の恋人がいるし、聖職者として真っ当なわけではない。しかしそれだけではない一面を感じる。
「犯罪組織の行動原理は常に金だ。儲かると判断されている限り、あいつは殺されない」
「わかった。無理に救出しようとするより、大元の目的を明らかにして根っこから断つべきだな」
「そうだ」
すると、上からバベルの配下が階段を下りてくる。
「お頭、楽園が今夜の総揚げ(貸切り)になりました」
「誰だ」
「煉獄の連中です」
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