Ⅱ 偽作師の悩みー③

「んァ? 何だい神父さん」

「待てと言っているんだ」


 ルカの声に、にわかに腕の毛が逆立つのをテオは感じた。どうやらテオだけではないらしく、ガラの悪い男たちも立ち止まる。


「お前ら、娼婦殺しに関わってるんだろう。テオの絵を利用しやがって。次は何するつもりだ」

「神父さんねェ、俺はあんたとはやり合うつもりはない。首突っ込まない方が身のためだよァ?」

「俺たちにはテオが必要なんだよ」


 ピシリ、天井近くの壁にヒビが入る。机上に置かれた燭台がカタカタと音を立てた。どこからかぬるく湿った、生臭い空気が湧いてくる。腐った肉を求めて、虫がぞわぞわと集まり出す直前のような。

 ルカが一歩踏み出すとバンッ! と勢いよく窓の木戸が閉まる。


「うわあっ⁉」

「な、なんだ⁉ 何が起こってる⁉」


 悲鳴を上げて男どもが下がる。それもそのはずで、部屋全体がガタガタと揺れ出したのだ。


「テオを放せ」

 肉食獣の動きでルカは詰め寄ると、テオを捕えている男の腕に爪を立てて引き剥がす。ルカの外見からは想像できぬ強烈な力に、男の防衛本能が最大限に反応した。だが腕を取られて肩を外される方が早い。


「ぐわああぁっ!」

「クソッ!」


 次の男は刃物を手にしている。あっ! とテオが思った時にはもう、刃物がルカの腹に突き刺さっていた。

 だがルカの手が男の顔を両側面から覆い、そのまま顔面をもろに膝に叩きつける。哀れな男は鼻が潰れ、前歯がなくなった。


「さ、刺さってんだろこの神父」

「化け物だ……!」

 刃物を腹に刺したまま、なぜ平気な顔をしていられるのかテオにも理解できない。そんなルカの目線が、次の標的をヘロドに定めた時だ。


「よせ。それ以上やると女が死ぬぞ」

 バベルが制止する。


「クッハハハ、さすがバベルはよく分かってるなァ。そういうことだ、神父さん」

「構わないよ。今からお前に彼女の監禁場所を吐かせて、助けに行くから」

「ほゥ、この俺にァ?」


 ヘロドの細長い瞳がギラリと牙を剥く。


「ふざけんなテメェ!」

「神父の分際でほざけ!」

 いきり立った男たちが、ルカとバベルへ一斉に飛びかかる。狭い室内は画材と紙が舞い飛び、画架や椅子が投げられ、板が粉砕される滅茶苦茶な景色になった。


「このまま永遠にサヨナラかもねェ、変わった神父さん」

「このっ、待てヘロド! テオを放せッ!」

 だが「黙れコイツ、殺しちまえ!」と物騒な声に、ルカの叫びはかき消されてしまった。


 ヘロドの手で馬車に連行されたテオは、足下へとかじりつく。

「俺があんたらの言う通りに偽作を描き続ければ、ビアンカの無事は保証してくれるんだろうな?」

「あァ、もちろんだ。俺は公明正大な男だからなァ。約束を守る奴にはちゃんと俺も応える」


「約束は守る。は必ず期日までに完成させる。だからもうビアンカに危害は加えないと約束してくれ。頼む」

「いいよォ。テオちゃんは俺たちの仲間だもんなァ」


 これほど信用できない仲間があろうか。

 知らず知らずのうちに、テオは手を組んで祈っていた。


 ——神様、どうかビアンカだけは助けてください。これ以上つらい思いや痛い思いをしなくて済むように、お守りください。



■□


 部屋の中は、アトリエとしてもう復旧には至らないほど酷い有様だ。

 自ら暴力に訴えたのはルカも自覚しているが、バベルは相手の首を折り、平然としていた。それを見て怖くなり、血が上った頭が急速に冷えたのだ。


 後始末をするのはバベルの手下たちだ。外を囲んでいた煉獄たちを一掃したらしい。呻いている男を連れていく。見ると、ルカが顔面を割った男だった。


「拷問して情報を吐かせるって⁉ 怖っ!」

「お前の今の状態の方が怖いと思うが」

「悪いけどこれ抜いてくれないか? 痛いから自分でやるの嫌なんだよ」


 腹に加えて肩、太腿にも刃物が刺さったままのルカ。床に座り込んだ格好で見上げられ、バベルは溜息だった。


「どういうことだその体は。悪魔の力はもう無いんじゃなかったのか」

「無いよ。体は頑丈なだけ。あんな奴ら、昔だったらテベレ川を氾濫させて流してやったのに」

「聖職者の発言じゃないな」


「バベルだって殺しまくったじゃないか。怖かったぞ」

「二人だけだ」

「でも女が殺されるぞって、最初はずいぶん弱気だっ……ふぐぅっ!」

 抜こうとしていた肩の刃物を、逆に押しこまれた。


「痛ったいな! 図星だからってひどすぎないか⁉」

「黙れ」

「でもテオのこと考えてくれたんだよな。見直したよ。先に手を出したのは俺の方だし」

「悪魔を止めるのはエクソシストの務めだ」


 バベルは最後に、腹に刺さったのを素早く引き抜いた。痛みに呻いて体を折り、傷口を手で押さえる。一つ、二つ、数えながら呼吸を整え、五つ数えると傷は塞がっていた。


「便利な体だな」

 感心したようなバベル。でも悪魔だった頃は、痛みすら知らなかったのだ。


「そうだ、聖母子像の絵はどうなったかな」

 乱闘の最中、部屋にあった絵は武器防具として破壊されている。


「ここだ」

 バベルはベッドの下に手を入れ、包みを取り出した。損傷することなくきれいなままだ。


「最初に投げ込んでたのか。さすが!」

「それで、他にあいつは何を製作していたんだ」


 二人は残された絵や習作を一つ一つ見て回った。多くは破損してしまったが、いくつかを持ち出し、バベルの配下が用意した馬車に乗り込む。


「……何をニヤニヤしている」

「襲われてもいいように部下を配置して、ちゃんと準備してくれてたんだなと思って」


「この辺りは『煉獄』の縄張りだ。だがヘロド本人が出てくるのは想定外だった」

「そうか。仲間が二人死んだんだよな。へらへらしてすまない」


 十字を切り、ルカは祈りの言葉を口にした。それが終わるのを待ち、バベルは話し始める。


「煉獄の頭目ヘロドは、元々うちの頭目だった男だ。配下の娘を陵辱したり、みかじめ料を払わなかった一般市民に、公開処刑で目を抉り出させるような奴だ」

「ひどいな。そうか、ベツレヘムの凶悪な印象はヘロドが頭目だった時のか。もしかして、組織内で抗争になったのか」


 血による粛清が行われたのだろう。勝ったのはバベルだった。


「奴を排除する時に俺もたくさん仲間を殺した。それに組織のしている事は今も変わっていない。慈善事業と称して人身売買もする」

「好き好んで一般市民を陵辱したり痛めつけたりはしないだろう。バベルとヘロドは違うよ」


 そしてローマの中心から追いやられたのを、ヘロドは当然根に持っているはずだ。


 馬車は石畳のローマ市街へと入っていく。みっちり詰まった建物の間を抜け、茶色の壁をした正面玄関前で下ろされた。


 一見すると邸宅のようだが、ポータルをくぐるとアトリウム(前庭)が現れる。水盤を中心に、キリストの略字であるX状に白い石が敷かれていた。大きくはないが回廊に囲まれ、ここだけローマの喧騒から切り離された別世界のようだ。


 五連アーチのファサードの礼拝堂を構える、サン・クレメンテ・アル・ラテラーノ聖堂だ。


 バベルに続いて入ると、中はさほど大きな聖堂ではない。奥の祭壇まで二十歩といったところだ。

 だが祭壇の奥に浮かび上がる金色のモザイク画に、目を奪われた。後陣へと吸い寄せられるように進んだルカは、口を開けて半円ドームの天井を見上げる。


楽園エデンを描いたんだな。十字架に、聖母マリア。渦巻き模様みたいにびっしり描かれているのはブドウの枝か。エルサレムの門から出てきた十二匹の羊は十二使徒で、羊たちの真ん中にいるのが主キリスト。なんてきれいなんだ」


 入り口から差し込む光がちょうど当たり、モザイクと聖堂内が金色に満たされている。神の愛に包まれている心地だ。


「気が済んだらついて来い」

 バベルは右手奥の階段から地下へと消える。時間を忘れ、いつまでも見ていたいのはやまやまだが、祈りを捧げるとルカも後に続いた。

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