Ⅲ 小鳥に会いにー⑥

 日没前。支度を終えたアヤは、太客しか通さない三階の奥まった部屋でそわそわと待っていた。


 化粧は最低限にする。眉を整え、軽く白粉おしろいをはたいただけだ。唇に紅は乗せない。口づけた時の味が不快なのだという。だから潤いを保つには、薄く蜂蜜を塗ることにしている。

 コルセットは付けないし、宝飾品もいらない。肌触りの良いシュミーズと、丈の長いガウンだけ。


 彼の前では着飾る必要も、必要以上に美を強調する必要もないのだ。

「バベル……」


 会いたかった。待っていたよ。

 言うより早く、アヤは男の胸に飛びこんでいた。濃青の神父服ではなく、黒い絹のプールポワン姿だ。人には無造作で構わないといいながら、自分はいつもお洒落してくるのが彼だ。


 植物をたくさん置いたこの部屋は、二人で安らぐために、南イタリアの別荘をイメージして作ったのだった。


「この襟、外してよ。似合ってるけど邪魔だよ」


 アヤが呟くと、バベルは表情をゆるませ、ひだ襟を外してくれた。アヤにだけ見せる顔。それが嬉しくて、バベルの顔に手を添えて唇を食んだ。バベルも目を閉じて口づけを返す。


 彼のちょっと冷たい唇が好きだ。うなじの匂いが好きだ。形の良い喉仏が好きだ。顎の骨の形が好きだ。

 なにもかも全部、僕にちょうだい。


 早く服を脱がせて肌を合わせたいが、強引なのを彼は好まない。

 一瞬顔が離れた隙に、大きな両手で顔ごと挟まれ、正面を向かされた。


「誰にやられた。昨日の客か?」

「いっ……ッ!」

 バベルの指に押された頬が、思いのほか痛む。


「なんでもない。平気だよ」

「少し腫れている。殴られたんだろう? あの客は何者だ」

「そんな怖い目をしないで。昨日の相手じゃない。ヘロドだよ」

「なんだと?」


 今、彼の中で殺意が燃え上がっている。アヤはバベルの手に上から自分の手を重ねた。


「平気だよ、あんなの。バベルが撫でてくれたら治るから」

「他は。体も殴られたんじゃないのか」

「もう大丈夫だから。僕の体は、みんなが思ってるより頑丈なの」


 昨日のヘロドの行為はすべて、バベルへの一方的な当てつけなのだ。彼の盾になれるのなら願ってもない。

 バベルは全く納得していない様子だが、後で確かめることにしたのだろう。もう一人の客についてたずねてきた。


「昨日の客は何者だ。なぜヘロドとつるんでいる?」

なめし革の取引で来たって。悪い事も多少しているから煉獄と繋がりがあると言うけど、どこまで本当かはわからないよ」


「ローマの男ではないな」

「スイス人だって。ねえ、他の男の話なんてしないで。今は僕のことだけ考えてよ」


 バベルの胸に己の胸を重ね、全体重をかける。壁にもたれて、バベルは受け止めてくれた。


「アヤ、何を隠している」

「……何も隠してないよ」

「俺では頼りにならないか?」

「何を。そんなわけないでしょう」


「なら、どうしてそんな追い詰められた顔をしている」

「そう見える? さすが人を拷問して追い込むのには慣れてるだけあるね」

「アヤ」

「何もないよ。それでも口を割らせたいのなら、激しく抱いてみせてよ」


 バベルは唇を奪いにくる。さっきよりも深く、熱を込めて。けれどそれはとても丁寧で、やさしくて、愛情と思いやり以外ない行為だった。

 脳天から溶けそうな甘い愛おしさが、アヤの自由を奪っていく。


 欲しい。あなたの全部が欲しい。

 互いに息が上がる。唇が離れると、追いかけるようにもう一度覆う。

 好きで、好きで、どうしようもない。硬質な髪の手触りも、顎に残る剃った髭の感触も、深い悲しみを知る灰の瞳も、何もかも。はやく欲しい。


 そんなアヤの体を、バベルは固く抱きしめた。初めて出会った時からその腕で、理不尽な暴力からアヤを守ってくれているのだ。


「鞣革の商人が僕を所望したから、ヘロドは店を総上げにした。それだけだよ。バベルは何を警戒しているの?」

「アヤが関わる事じゃない」


「そんなはずない。じゃあ言わせてもらうけど、バベルだって聖母子像の絵の作者を訪ねたと、僕に隠していたじゃないか。あの絵に煉獄が関わっていて、しかもアトリエで襲われて危なかったと聞いたよ」


「隠してはいないし危なくもない。……あいつ、余計なことを言いやがる」

「バベルは頼りになるってさ。ルカ、嬉しそうだったよ」

「他の男の話はしないんじゃなかったか」


「ふふっ。ルカを男って言っていいのかな。だって天使には性別がないでしょう? 僕に似たようなものを感じるのだけど」

「全然違うだろう。やめてくれ」


 目を丸くしたバベルの反応が面白くて、アヤは声を立てて笑った。

「そういう顔、久しぶりに見た」


 バベルの頬に両手を添え、ぎゅっと挟み込む。

「ずっと根を詰めた顔をしてるのはバベルの方だよ。最近、いつ笑った?」


 手の下でバベルの頬がぷうと膨らむ。押し返すと口から空気が漏れる。またぷうっと膨らむ。押し返す。何度か繰り返して、二人同時に噴き出した。バカバカしくて最高だ。


 どんなに深く強く愛しても、金銭でしか繋がれない。限られた時間を一緒に過ごせるのは、バベルが金を払ってくれるからだ。

 飽きられればそれまで。客と娼婦以上の関係には決してなれず、追うことは許されない。

 だからこそ今は、こんな瞬間を重ねたい。


「今度の日曜日は復活祭だね。準備で忙しくなる?」

「そうだな」

「教会のえらい人が亡くなったんでしょう? ルカは調べに行くみたいだよ。一緒に行ってあげてほしい」


「俺は忙しい」

「そう。じゃあルカだって忙しいのに僕のために動いてくれるんだから、店に招待してお礼をしなきゃな」


「……アヤ」

「なあに?」

「腹が減った」

 渋々承諾してくれたようだ。


 給仕を呼ぶと、温かい料理が運ばれてくる。タラやムール貝と共に、旬のアーティチョークやそら豆を弱火で蒸した、バベルの好物料理だ。他にもアスパラガスや、新鮮なチーズ、羊の肉もある。水で割ったワインと共に、無言でよく食べるバベルの姿は見ていて気持ちがいい。


 バベルは以前、一度だけメディチ家の養子になる前の暮らしを話してくれたことがある。幼い頃はずっと、食べる物にも、着る物にも、寝る場所にも、人にも飢えていたのだという。その名残で、今でも食事はつい黙って集中してしまう。だからアヤも食事中は話しかけない。


 けれども今は、どうしても伝えたかった。


「バベル。あなたは僕のすべて。こうしてそばに居てくれるだけで、一番幸せだよ」


 ——だからもし僕がいなくなっても、どうか忘れないでいてね。

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