Ⅳ 幻の聖書ー①
亡くなったカミロが主任司祭を務めていたサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、キリスト十二使徒の一人、聖パオロが殉教したと伝えられる、由緒ある聖堂だ。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、バチカン以前に法王が暮らしていたサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂と合わせ、ローマの四大バシリカと呼ばれている。
バチカンからは徒歩で二刻ほどだが、バベルは馬車を出してくれた。さすがは高位の司教で、確かに彼が徒歩で訪問しては違和感丸出しだろう。それに周囲には乗馬したいかつい護衛もついているから、煉獄を警戒しているのだろうか。
隣りのバベルは肘をついて外を眺めている。曇り空だが、今日も暖かい。もうすぐ三月も終わるのだ。
「早いな。復活徹夜祭は明日か」
復活祭とは、
前夜の日没後から行われる復活徹夜祭では、法王が記念ミサを執り行うため、その姿を一目でも見ようと、ヨーロッパ中の信徒がバチカンへ押し寄せるのだ。
「法王庁は準備が忙しいんじゃないのか」
「忙しいけど、俺は司法担当だからそこまでじゃないかな。バベルはメディチ家だよな。俺はもちろん会ったことはないけれど、法王猊下と知り合いだったりするのか?」
「養父だ」
「よぅ?」
「血縁じゃない。たまたま拾われた」
「げ、
「別に隠してはない」
カソリックの聖職者は妻帯を禁じられている。が、ほとんどの高位聖職者は庶子をもうけたり、養子を得ているものだ。過去には、法王の庶子で最も有名な一人として、マキァヴェリに『君主論』で君主の理想と絶賛されたチェーザレ・ボルジアがいた。
大聖堂は百五十本もの列柱に囲まれ緑が生い茂るアトリウム(前庭)を持つ、堂々たる面構えだ。ローマ最大級の大聖堂には、初代法王の聖ペテロから現在のクレメンス7世まで、歴代法王の肖像画が掲げられている。主祭壇上には大理石の大天蓋がそびえ、四大バシリカの重みを感じた。
主祭壇で二人が祈りを捧げていると、後陣の扉から中年の司祭が出てきた。
「これはサン・クレメンテの司教殿。私は司祭のジョヴァンニです。どういったご用向きでしょうか」
「二週間前に亡くなったカミロ主任司祭について、この者が聞きたい事があるそうだ」
単刀直入に始めたバベルに、ジョヴァンニは一瞬背中をビクッとさせる。
「法王庁使徒座署名院の司祭ルカと申します。カミロは大学の先輩で交流がありましたので、非常に残念です。突然死と聞きましたが、どのような状況だったのでしょうか」
「どのようなと言われましても、連絡もなく一日姿を見せなかったので、心配になり家を訪ねてみたら既に冷たくなっていたそうです」
「訪ねられたのはどなたですか」
「助祭ですが。それを知ってどうなさるのです?」
「枢機卿や大司教が相次いで亡くなっているのをご存知ですか。他にもローマでは変死が起きています」
「まさか。カミロ主任司祭の死も関係があると?」
「はい。ですのでどのような死に様だったのか、詳しく教えていただきたいのです」
ジョヴァンニは表情を曇らせ、後陣から更に奥の小部屋へと二人を招いた。ドアをきっちり閉め、顔を上げる。
「助祭に呼ばれて私も自宅を訪れました。カミロは全身が紫色になって、うつ伏せに床に転げていました。助けを求めて戸口へ這って行く途中で力尽きたのでしょう。外傷はありませんでしたから、悪魔の所業ではないかと……」
言いながらジョヴァンニは十字を切る。
楽園でルカが見た、ヴィオラという娼婦と同じだ。
「本当に悪魔の仕業だと思うのか?」
バベルに詰められ、ジョヴァンニは言葉を詰まらせた。話すべきかという迷いが沈黙を通して伝わる。バベルは何も言わず、ルカは小さく頷いてみせた。
「俺も司教も秘密は守ります」
「わかりました。実はカミロは、大聖堂の金を何年も横領していました。ですので天罰が下ったのだと」
「なるほど。それを知るのはあなたと、財務担当者だけですか」
「はい。カミロにはどうしても手に入れたいものがあったようです」
「もの? 金を使い込んだのではなくですか?」
「問い詰めたところ、どうやら『ラファエロ聖書』を買い取ろうとしていたようなのです」
その言葉にルカの体温が一気に上がる。だが平静を装い、ゆっくりとルカはたずねた。
「ラファエロ聖書とは?」
「まだ若かりし頃のラファエロが、故郷のウルビーノ公国の大公に献呈した作品です。色鮮やかで精緻な挿絵に彩られた、大変に美しいものだと。しかし幻の聖書といわれ、本当に存在するのかどうかも怪しい代物です」
ウルビーノ公国はイタリア中部に位置する小国だ。
「ラファエロ聖書の噂は俺も聞いたことはある。カミロは一体誰と取引をしていた?」
やはりバベルは美術品に詳しい。
「そこまでは答えませんでしたが、あまりの美しさに心を奪われたと。あれはまさしく天才画家ラファエロの作品に違いなく、もう何をしていても頭から離れないのだと、大げさでなく熱に浮かされたようでした」
「聖書に恋でもしてしまったようだな」
「まさにそうです」
「それでどうしても欲しいと言い出したわけか」
「最初は、横領金を遊びに使い込んだのを隠すための嘘だと思いました。しかし彼は、ウベルト枢機卿を通じて法王猊下に直談判までしていたのです。これは本気だと見方が変わりました」
ルカが飛び上がる。
「ちょ、ちょっと待ってください、ウベルト枢機卿はッ!」
「はい。カミロ主任司祭と近い時期にお亡くなりになりました。同じく亡くなったオッタヴィアーノ枢機卿もです。ラファエロ聖書に関わった人は皆死んでいます。不敬ではありますが、あれは呪われた聖書なのです」
ジョヴァンニ司祭は十字を切る。
すぐには言葉が出なかった。ルカの頭の中では、いくつかの断片が繋がらないまま散乱している。
呪われた聖母子像、呪われた聖書、カミロと枢機卿、カミロと娼婦の同じ死に様、美術品を扱う犯罪組織——。
繋がりそうだが、一本にはならない。これらを繋げるには、まだ何かが欠けている。
「カミロが猊下に直談判していたといいますが、
「あり得なくはないでしょう。猊下を説得したいなら、真っ先に味方にするべきはカメルレンゴです。違いますか?」
ルカは大きく頷く。
「おっしゃる通りです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます