Ⅳ 幻の聖書ー②

 法王秘書長カメルレンゴと法王は、ボローニャ大学で共に学び合い、切磋琢磨してきた仲というのは周知のことだ。


「幻と名高いラファエロ聖書があれば、バチカンの権威は上がるな。法王猊下げいかも興味は示したはずだ。だが今の教会にそんな金を出せるはずがなく、バチカンの支援は受けられなかった。だからカミロは自力で資金を集めようと、教会の金に手を出したのだな」


 バベルに断言されて、ジョヴァンニは頷きながら消沈した。

 カソリック教会はサン・ピエトロ大聖堂の改修費用すら捻出できず、贖宥しょくゆう状を売りさばいているのだから、当然の結果だろう。


 ルカは続けて質問する。


「ジョヴァンニ司祭はカミロの家を見られたのですよね。何か変わったものはありませんでしたか? 今まではなかった絵が増えたとか、何か」


「さあ……、彼は家には住み込みの召使いは置かず、愛人の類も住まわせていませんでしたので」

「四大バシリカの主任司祭が、身の回りの事をすべてご自分で?」


「いえ、通いの下僕の話だと、夜はほとんど家にはいなくて、ローマで過ごしていたそうです」

「往復で四刻かかるのに、毎日のようにですか」


「そのようです。生まれが良くて若くして出世すると、素行や金遣いがなんというか。あっ、いえ、失礼しました。今のはどうぞお忘れください」


 ジョヴァンニは焦った様子でバベルに謝罪するが、当のバベルは眉一つ動かさなかった。


「カミロはどこの誰と過ごしていたのでしょうか。心当たりはありませんか」

「さあ……。私もそろそろ戻らねばなりませんので」


 切り上げられてしまった。何か思い出したことがあれば共有をさせて欲しいと伝え、二人は大聖堂を後にした。

 馬車上でしばらくの沈黙の後、ルカから切り出す。


楽園イル・パラディーゾの娼婦と、カミロや枢機卿たちの死は繋がっているんだろうか?」

「全身が紫色に染まる特殊な死に方が同じだ。同一の異物を摂取したと考えるべきだろう」


「そうだよな。カミロは毎晩ローマへ通っていたというし。楽園の客だったのかな」

「お前、何を神妙な顔をしている」

「え」


「ラファエロ聖書の話が出た辺りからだったか。何か隠しているだろう。俺を誤魔化せると思うのか」

「すごい、よく気付いたな」


「馬に蹴られて死にたくなければ正直に話せ」

「めちゃくちゃ脅迫されてるけど」

「早くしろ」

「わかったよ。ラファエロ聖書は実在する。シリウスが持っていた」


 バベルの目が見開かれる。

「どういうことだ」


「聞かされたのは俺も晩年になってからだけど、シリウスはウルビーノ公国の貴族の庶子なんだ。だから旅の最後には、散らばったラファエロ聖書を回収するよう大公から命じられていた」


 ウルビーノ公国はラファエロの故郷でもある。


「六冊全部を回収して旅を終わらせた。うち一冊はシリウスの遺品として俺が持っている」

 バベルの喉が上下する。見たいという欲望を飲み下したように見えた。


「回収とはどういう意味だ」


 夭折した天才画家の幻の作品なのだから、計り知れない価値があるとルカでも分かる。手元にあることを、今日まで誰にも言ったことはない。

 だがそれ以上に、ラファエロ聖書はカミロが話し、世間で噂されているような美しいものではないのだ。


「ラファエロ聖書は、教会の腐敗体制を面白おかしく風刺したものなんだ。あんなの聖書とは呼べないよ。まだ十代だったラファエロの若気の至りさ」

「……ではカミロが掴まされたのは」


「偽作だ。アトリエで見たけど、テオはカリグラフィーの習作をしていた。あれは偽作師テオが、ラファエロ聖書を作っているんじゃないか」


 若かりし頃の過ちとはいえ、公の教会批判は、バチカンの寵愛を得て成功したラファエロ個人にとっても、ラファエロを排出したウルビーノ公国にとっても消し去りたい汚点だ。だからウルビーノ大公自らシリウスに命じて、回収させた。


 ましてやそうとは知らず、ラファエロにバチカン宮殿の天上画を描かせ、サン・ピエトロ大聖堂改築の主任設計をさせてしまった法王にとっても、ラファエロ聖書の存在は面汚しである。


「ウルビーノ公国にとってもバチカンにとっても、ラファエロ聖書は存在してはならないものだ。けれどどこかに写本が残っていたんだろう」

「あるいはウルビーノ大公の元から正本が流出した。それをヘロドが手に入れたわけか」


 バベルは舌打ちし、盛大に馬車の壁を蹴りつける。大きく揺れて、御者が「何事ですか⁉」と叫んだ。


 正本が写本か、とにかくヘロドが入手したものをもとに、テオはラファエロになりきって偽作を製作しているのだろう。


「ラファエロの幻の風刺画で、ヘロドと煉獄には何ができるか?」

「えっ。まぁ、みんな見たがるし聞きたがるだろうな」


 文字を読める市民は多くない。情報を伝えるのは絵であり、口なのだ。


「天才ラファエロの名で教会の権威を失墜させるか。法王が失脚すれば、俺も司教ではいられくなる」

「ヘロドはバベルの力を奪いたがっているよな」


「だがやり方が遠回しすぎる。黒幕は奴ではなく、聖母子像の依頼人だろう。ラファエロ聖書の偽作も恐らくそいつの発案だ」


 ハッとした。あの男なのか。聖母子像の絵をアンジェリカに贈り、アヤが相手をした、ミカエルと名乗った謎の男。

 しかしアヤとの約束でバベルには内緒なので、分からないという顔を繕って応える。


「ラファエロが描いた風刺絵ならみんな見たがるし、あっという間にローマ中に広まるよ。そうして民衆感情を煽る。これは改革派のやり方だ」

「だろうな」


「もしかして、カミロやカメルレンゴはその動きに気付いて、偽作を流出させないために取引を持ち掛けていたのかな。横領した金で買い取ろうとしていたとか。その結果殺されてしまった」

「さあな。そこまではまだ分からん」


 聖母子像と聖書。どちらもラファエロの偽作師テオが製作している。それぞれに関わった娼婦と聖職者が不審死を遂げているのも同じだ。そして背後には改革派なのか。


 ルカは首から下げた銀の十字架を握った。病床のシリウスにねだって譲り受けたものだ。

「シリウス……、どうして今になって」


 こんなところで、こんな形でシリウスの幻影に出会うとは思っていなかった。偽作とはいえ、シリウスに関係するものが事件に利用されているのに、はらわたが煮え返る。

 十字架を両手で包みこんで額に当て、しばらく目を閉じた。


 顔を上げるとバベルと真っ直ぐに視線が合う。力強い目だ。


「今のはすべて憶測で、証拠のある話ではない。まずは事実を固めていくべきだ。死んだ枢機卿たちと娼婦の関係から洗うか」

「うん」


「お前、もうアヤに調べさせているだろう」

「いっ⁉」


「三日前に、テベレ川沿いを二人きりで歩いていたな」

「なんでそれをっ……」

「しかも頬にキスされたらしいな」

「ま、まっ、なんというかさ、きっと挨拶みたいなものでさっ」


 ごまかしたいのだが、やわらかな感触を思い出して顔が熱を持つ。男装姿のアヤも最高にかわいかった。


「阿呆が。アヤはローマで一番の花魁コルティジャーナ・オネスタだ。安売りするわけがあるか」

「え、じゃ、キスしてくれたのはもしかして」

「勘違いするな」


 わからない。人間と違って、天使も悪魔も思考回路は単純なのだ。バベルの言いたいことが分からず、ルカは頭を抱えた。

 これだから恋愛というのは難しい。フィナもそうだった。シリウスを好いていたはずなのに、顔を合わせるといつもつっかかっていって。


 うなっているルカの様子にバベルは小さく溜息をつき、話を続ける。

 

「カメルレンゴら全員が楽園の客とは限らん。だが枢機卿のような身分の高い人物が通う高級娼館はローマでも限られるから、探りを入れるのは可能だ」

「じゃあ一緒に」


「店を教えてやるからお前が行け。理由を見つけて娼館に入り込むのは得意だろう」

「だっ、だからアヤとは偶然で!」

「とにかく枢機卿たちと、絵の依頼人だ。うまくいけばそいつの正体に辿り着けるかもしれん」


 そうだ。アヤが煉獄に突撃してしまう前に、ミカエルの正体は突きとめねばならないのだ。


「わかった。行くよ。あと、テオのアトリエから持ち帰った作品の中に、作成途中の聖書があったように思うんだ」

「それは俺が見ておく」


 ルカの留守宅に置いておくのは危険なので、聖母子像の絵も含めて全部バベルに預けてあるのだ。


「今の流れだと、ラファエロ聖書も危ないかもしれない。近いうちに持っていってもいいかな。バベルのところなら安心だし」

「好きにしろ」


 そう言ったバベルの瞳が、ちょっとだけきらめいたのを見逃さなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る