Ⅳ 幻の聖書―③

 ローマ市街に入ると、馬車はテベレ川沿いを進み、シスト橋の付近で下ろされた。バチカンより南方で、楽園があるサン・クレメンテ地区よりずっと西だ。

 シスト橋を渡り、二人で歩いて右岸へと向かう。


「結構新しい店が多いんだな。初めて来たよ」

「サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂からローマに来るなら、ここの歓楽街の方が通いやすい」

「そうか、カミロは楽園イル・パラディーゾじゃなくてこっちかもしれないな」


 橋の上は見晴らしがよく、午後の太陽に照らされた川面がきらきらしていた。肩を寄せ合う男女や、荷を運ぶ商人で賑わっている。

 橋の中腹にかかると、ふいにバベルに「金を出せ」と言われた。


「えっ? あぁ、気付かずにすまなかった」

 日なたで日光を吸収するように、物乞いがじっとしていたのだ。ルカはパンが五つ買えるバイオッコ銅貨を、欠けた器の中に入れる。


「お恵みをありがとうごぜえます神父様。復活祭の荷が入ってきますなぁ」

「うん? そうだな、人の往来も多いかもな」

「腐った荷を運ぶのはドイツ兵か、スペイン兵か。はたまた両方か」


 どう返して良いか分からず、ルカは曖昧な顔でその場を後にした。


「何の話だったのかな」

「さあな」


 イタリアには統一された国家がなく、高い経済力で独立した都市と法王領で形成されている。その領土を巡り、これまで幾度となく介入してきたのがフランスだ。ナポリを継承した、ミラノの継承権があるなどと主張しては侵攻し、占領したり奪い返されたりを繰り返してきた。


 そんな折、一五一九年に神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝選挙が行われる。「金印勅書」により、皇帝は選帝侯七名の投票で選出すると定められているのだ。玉座を争うのはヴァロワ家出身のフランス王フランソワ一世と、ハプスブルク家出身のスペイン王カルロス一世だった。


 双方とも莫大な費用を持ち出し買収工作に励んだが、勝利したのはスペイン王だった。スペイン王兼神聖ローマ帝国皇帝カール五世が誕生したのである。溜飲が下がらぬ両者はそのまま、イタリアを巡り争うことになる。

 注目すべきは、フランスの位置は両側をスペインとドイツに挟まれていることだ。


 そして皇帝選挙だけでなく、戦争でもフランスは大敗してしまう。パヴィアの戦いで国王を捕虜に取られたのだ。二つの大国に挟まれ、国王を人質にされた絶体絶命のフランスが助けを求める先はもう、イタリアしかない。


 イタリアにとっても神聖ローマ帝国の強大化は脅威であり、フランスは地理的防波堤でもある。

 こうしてローマ周辺の法王領と、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェが加わり、更にイングランドまで含めた対スペイン・神聖ローマ帝国同盟(コニャック同盟)が結ばれた。


 不侵の盟約とはいえ、フランスなどいつ裏切るか分かったものではない。そして絶大な力を手にした神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール五世が、これしきで手を引くとも思えない。イタリアは極めて不安定な情勢にあるのだった。

 

 橋を渡り終えた先が歓楽街だ。楽園がある一帯より規模は小さいが、新しく小綺麗な店が多い。


「ここでめしでも食って、一刻待て」

「えっ、なんで」

「あそこに『林檎リンゴの誘惑』の看板が見えるだろう。高位聖職者が行きつけの娼館だ」

「行きつけって……。そういうものなのか」


「お前、法王庁なのに接待もしないのか」

「他は知らないけど俺はしない。だから下っ端のままなんだけど。あそこを調べるんだな?」

「だからめしでも食って一刻待て」

「待ってどうなるんだ? 開店時間まで時間潰しか?」


 バベルは答えずに一瞥をくれると、ルカを置いて行ってしまう。

「あ、おい⁈ なんだよ。人に丸投げしやがって」


 しかし腹は減ったので言われた通り店に入り、流行りのパスタではなく一番安いポレンタを注文する。トウモロコシの粉で作られた粥に豆が入ったもので、腹には溜まるがさして美味いものではない。


 『林檎の誘惑』を探れと言われても、今回はアヤのような協力者はいない。さてどうしたものかと考えていると一刻後、「お待たせしました、ルカ殿」と向かいに男が腰かけた。

 少しウェーブががった金髪に、整えられた細い口髭。身なりの良い中年男だ。


「……失礼、人違いではありませんか」

「いいえ。主の命により、ルカ殿にご一緒するようにと。私の事はニコラと呼んでください。さあ、参りますぞ」


 ニコラは立ち上がるとルカの会計を済ませる。取り出された五枚のバイオッコ銅貨にハッとした。

「あなたはもしかしてさっきの? えっ⁉」


 店を飛び出しシスト橋の中央を見る。日なたにうずくまっていた乞食がいなくなっている。


「釣銭はいただいておきますね」

 つい一刻前まで、死んだ目をした乞食だった男がにんまりと笑う。どこからどう見ても仕事ができる法律家にしか見えない。


「えぇと、主っていうのはつまり、ベツレヘムの頭目?」

「ご名答。私は普段、橋の上で人や物の流れを監視しています」

「すごいな。顔どころか声色まで違うし。あっ! バベルの奴、俺に金をださせやがった」


「ホホホホ、あなたは銅貨を一枚ではなく五枚くださいました。裕福に暮らしているわけでもないのに」

「余計なお世話だ!」

「ですから、その分はきちんとお役に立たせてもらいますよ」


 紳士ニコラの優雅な笑みに誘われるまま、後をついて行く。

 開店したばかりの『林檎の誘惑』は入り口が狭く、『楽園』に比べて派手さはない。知る人ぞ知るという感じだ。


「ごきげんよう」

 深くよく通るニコラの挨拶に、それだけで媒婆ばいばの態度が丁寧になった気がする。ニコラは慣れた様子で何かを交渉しながら要望を伝え、「ではまた、明朝に」とルカにウインクして店の中へ入って行った。


「さあ、神父さまもどうぞお入りください」

 通されたのは、天蓋付きの大きな寝台がある広い部屋だった。ぶりんぶりんの胸の谷間をあらわに、シュミーズ一枚の美女が三人も待ち構えている。


 一体いくら払ったのだ、ニコラ紳士。背筋が寒くなる。


「ようこそ神父さまっ」

「まるで天使のようなお顔の神父さまですわね」

「さあこっちに来て」


 きゃっきゃと囲まれて、神父服の襟元に手をかけられ、盛大に後ずさる。


「ちょっ、ちょっ、ちょっ! 俺は神父だしっ!」

「あらぁ?」

「もしかして初めてかしら」

「可愛らしい方だわぁ。ウブな神父さまって久しぶりぃ」


 はたと止まる。

 聖母子像とラファエロ聖書の依頼人と思われるミカエルは、復活祭の日曜までローマに滞在するとアヤに告げた。もしローマで何か行動を起こすつもりなら、多くの人が集まる復活祭はまたとない機会だ。


 例えば、ラファエロ聖書を大々的に公開する。活版印刷で大量に刷って撒けば、大きな騒ぎになるのは間違いない。そういった行動を起こすために、ミカエルと煉獄は楽園で密談をしていたのではないか。


 だとするともう時間がない。復活祭は前夜祭から始まり、明日はその聖土曜日なのだ。何としてもミカエルと、死んだ枢機卿やカミロたちの情報を得なければならない。


 この女たちはニコラが選んだ、店の裏事情を知っていそうな上級の娼婦だ。バベルが金を渡し指示した。こうしている間にも、バベルは行動しているはずだ。

 あいつの期待を裏切るわけにはいかない。


 元悪魔は天使の顔を作り、女たちに微笑みかけた。

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