Ⅴ 天使が吹く破滅へのラッパー①
『林檎の誘惑』を出た早朝、紳士ニコラと別れて、ルカは
営業を終えたばかりの店では、掃除をする下僕たちが動いている。
「ごめんください。アヤを呼んでもらえないだろうか。法王庁のルカといえばわかるはずだから」
金を用意して営業時間内に来いと言われるだろうか。だが下僕は「アヤねえさんから聞いています」と応じてくれた。
しばらくすると、大階段の上から「ルカ」と声がする。その顔にぎょっとした。
「どうしたの⁈ 体調が悪いんじゃないのか」
真珠の肌がくすみ、目の下にクマができている。唇も荒れ、色を失っているのだ。いくら化粧を落とした後だとしても、心配になる。
「平気だよ。少し疲れてるだけ」
「疲れてるだけなんて状態じゃないだろう。仕事は休めないのか?」
「大丈夫だから。それでどう? 何かわかった?」
「うん。『林檎の誘惑』という娼館で、死んだ娼婦の客にカメルレンゴがいたんだ。そっちは?」
「ヴィオラねえさんの客に、オッタヴィアーノ枢機卿と外見の特徴が一致する人がいたよ」
「よし! 繋がったとみてよさそうだ。後は娼婦と枢機卿たちが、時間差で同じ死に方をしている謎だな」
「あの絵が関係しているのかな。林檎の誘惑でも絵が?」
「いいや。娼婦はこれを貰ったそうだよ」
ルカが取り出した二枚貝の口紅と香油の瓶を手に取り、アヤはまじまじと観察した。
「相手はミカエルかな?」
「それがガブリエルだって」
「どっちも天使の名前だよね」
「うん。娼婦が夢中になるくらいだから、金持ちで見た目のいい男なんだろう」
「ミカエルもそうだったよ。僕、この匂いを嗅いだことがある」
「なんだって⁈」
アヤは香油の瓶をほんの少し開けて鼻を近づけている。
「誰だっけ……ミカエルじゃない。でも店の中だ。ちょっと待って」
小瓶を持ったまま、普段は客が溜まっている辺りをぐるぐると歩きまわる。
「うん、そうだよ。アンジェリカねえさんとシルヴィアねえさんの部屋だったと思う」
「ということは、聖母子像の絵か! でも俺も一晩あの絵と過ごしたけど、感じなかったな」
「そう、最後のヴィオラねえさんの部屋ではしなかったんだ。だからなかなか思い出せなかった。香りが薄くなったんだろうね。あの絵の額縁は木彫りだったでしょう。きっと染みこませていたんじゃないかな」
「じゃあ危ないじゃないか!」
慌ててアヤの手から小瓶をひったくった。
「俺にも心当たりがあるんだ。これを見て」
手のひらの指の付け根にできた、原因不明の水ぶくれを見せる。
「うわ、結構大きいし、じゅくじゅくして膿みそうだよ」
「俺は平気。でもこれと同じものが、林檎の誘惑のイメルダという娼婦にもあったんだ」
不安がるイメルダの手を取った時に気付いたのだ。
「俺のこれは、額縁を持った時に香油に反応したんだろう。同じように香油を手にまぶして塗ったイメルダにも現れた。体はよく見なかったけど、もしかしたら他にもできていたかもしれない」
「じゃあ聖母子像の額縁に毒が仕込まれていて、ねえさんたちはそれで死んだの?」
「詳しく調べないと確定はできないけれど、そう思える。でも三人とも死に方は違っていたから、額縁の毒だけではないんだ」
「ミカエルらしき男が娼館に毒を撒き散らしているのは、娼婦ではなく客の高位聖職者を殺害するためなんだね。ねえさんたちを道具みたいに媒介にして」
アヤが唇を噛む。
「許せないよ。あいつが何者なのか、一体何のためにこんなことをするのか、僕は突きとめる」
「早まっては駄目だ、アヤ。奴らはたぶん改革派だ。ラファエロの偽作を使って、教会への反感を煽ろうとしている。もし暴動にでも発展したら大変だ。今下手に動いては助長してしまう」
「偽作で? どういうこと?」
ラファエロ聖書について説明を受け、アヤは目を見開いた。
「そういえば、ミカエルは贖宥状を乱発している今のカソリック教会を、あまり良く思っていないような発言をしていたよ。ラファエロの作品ならみんな飛びついて信じるんじゃない。そうなったら教会の権威は失墜するし、改革派の思うつぼだ」
「人を何人も死なせるし、とんでもない反逆者だな、改革派は。本当にキリスト教徒なのか」
「ミカエルは復活祭まではローマにいると言っていたよ」
「やっぱり何か行動を起こすつもりなんだ」
「ルカ、どうしたらいい? このまま何もできないなんていやだよ」
「闇雲に動くんじゃなく、まずは事実を固めることだとバベルが言っていたよ。俺は法王庁に戻って、小瓶の中身を調べて特定する」
「わかった。バベルには僕から伝えるね。今日は復活徹夜祭だから忙しいと思うけど、なんとか話をしにいってみるよ」
「でもあまり無理はするなよ。体を休めないと」
ほっそりとした体がいつも以上に儚げで心配になる。
「ありがとう。でも僕はみんなが思っているより頑丈なんだよ」
手を振って別れた。キスされたのを思い出して、また頬が熱くなっている。
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