Ⅳ 幻の聖書ー⑤

 ここがどこなのかは分からない。連行されるまでの間はずっと、目隠しをされていたのだ。肌感覚ではあるが、ローマからは馬車で五、六刻といったところだろう。


 周囲には畑しかない。農家の家が小さくぽつんと、たった一軒見えるだけだ。元は麦を保管する小屋だったところに監禁され、テオはずっとラファエロ聖書の偽作製作に取りかかっていた。


 煉獄のアジトでビアンカと再会できたが、それはあまりに残酷なもので、テオには謝ることしかできなかった。「二度と会いたくない」と言って去って行くビアンカの顔には、かつての明るさはどこにも見えなかった。


 それでもテオが製作をやめないのは、家に戻ったビアンカにまた魔の手が伸びるかもしれないからだ。今度は彼女の家族やパン屋にも被害が及ぶかもしれない。そうさせないためだけに、テオは必死で描いている。


「くそっ、間に合わねえよ」

 二日連続徹夜明けの朝、油断すれば目を閉じてしまっている。変な所に筆先を落としてしまったのではと、何度も肝を冷やしたが、ギリギリ回避していた。


「ラファエロ先生、しょうもない絵なのに難しすぎるよ。頼むから俺を苦しめないでくださいよ」

 盗用しておいて我ながら身勝手な八つ当たりだが、呟かずにはいられない。


 ラファエロ聖書は一見ごく普通の聖書だが、ところどころの挿画は風刺に満ちていた。


 例えば『神の国の宴』ではキリストや聖人たちの代わりに太った枢機卿たちが豪華な食卓を囲み、周りを飛ぶのは天使ではなく、骨と皮だけになった貧民だ。

 『最後の晩餐』ではキリストの周囲で、使徒たちが全員金貨を渡し合っている。加えて文字も、横に読むと普通なのだが縦に読むと卑猥な言葉になっていたりする。


 見せられたラファエロ聖書は一巻のみだ。全部で六巻あるらしい。これを元に、ラファエロになったつもりで復活祭までに偽作を作り上げるよう命じられていた。


「しっかし、ラファエロ先生もやらかしてるなぁ」

 ラファエロの真作かどうかという議論もあるが、その人物像を知るテオには本物だと思える。常に明るく、冗談が好きで、ウィットに富んだ師らしい作風だ。


 しばらくして、ヘロドの手下が食事を持って訪れた。

「よォ、進んでるか?」


 犯罪組織と慣れ合いたくはないが、一日に一度、こうして食事や画材を持って来る以外に人と会うことはない。テオという人間は、誰かと話さずにはいられないのだった。しかも今日来たのはボニートという同じ歳の男で、人当たりが良い。


「全力を尽くしてるさ。今日のめしは何だ?」

「期待すんなよ。いつものさ」


 期待はしていない。ただ言葉を交わしたいだけだ。何の肉だか分からないクズ肉とクズ野菜の煮込みが、餌のように毎日与えらている。


「ヘロド様は食べ物に興味ねえからな。それって人生損してると思わねえ?」

「そうだな。金はあるんだろうから、うまいもの食えばいいのにな」


「その点バベルは美食だったなぁ。自分で料理もするし」

「へえ、そうなのか。それで、前のアトリエにあったのは持ってきてくれたか?」

「ああ、これだろ。でも十枚はなかったぜ」


 既に完成したページは都度煉獄が回収し、印刷に回しているのだという。製作途中のページが前のアトリエにあるから持ってきてほしいと頼んでいたのだ。十枚あったはずだが、六枚しかない。


「あとは破れたり汚れたりして、駄目そうだったぜ」

「これだけでも無いよりはマシだ。助かるよ」

「どうせ偽作なんだから、もう一度描き直せばいいだろ」


 その言い方に少しカチンと来る。偽作であろうとなかろうと、全く同じものを再度作るのはかえって至難の業だし、どうせとは何だ。

 受け取った絵を広げる。状態は悪くないし、ゼロから再度描くよりずっといい。


 一枚一枚確認していくうちに、テオはある事に気付いた。


「なぁボニート、もしもさ。もし偽作だってバレたらどうなる?」

「逮捕からの公開処刑じゃねえの?」

「だよなぁ。でも逮捕されるのは俺だけじゃなくて、ヘロドもだろ?」


「ヘロド様はそんなバカしねえよ。他の奴になすりつけるに決まってるだろ」

「うっ、そうかよ。あとは依頼人もしょっぴかれるか? 制作費を出してるのはそいつなんだろ」

「細かいことは知らねえよ。でも失敗できないってのは、ひしひし感じる」


「上の奴らもピリピリしてるのか?」

「ああ。居心地悪いったらありゃしねえ。しばらくここで時間潰させてもらうぜ」


 ボニートはどっかと椅子に腰を下ろすと、ワインを注ぎ始めた。

 しめた。作業に戻り手を動かしながら、テオは次の質問を考える。


 ボニートがアトリエから持ってきた挿画には、メッセージが潜んでいた。植物の装飾模様の中や、人物の衣服、紋章の中に小さく文字が書き足されていたのだ。製作者のテオでなければ気付けないほど、さりげなく。

 最後のBの文字が、青服の神父バベルを示している。


「こんなに大がかりな騙しなんて、依頼人は余程の詐欺師なんだろうな。ヘロドも騙されているなんてことはないのか? ほら、悪い奴らは最後は裏切り合うものだろ?」


「甘いな。でかい獲物を捕まえようとしたら、安全な狩にはならねえんだよ。ビビってんのか?」

「俺は脅迫されこき使われてる身だぞ。ビビるに決まってんだろ。いつ獲物の餌にされるか」


「それを言われちゃ、俺だってこき使われてるけどよ。だが今回は相当でけえみたいだぜ。バベルや、他の勢力もローマから一掃できるほどだとさ」

「どういうことだ? 偽作でバチカンを脅して金を搾り取るだけじゃないのか?」


 求めている答えに近づいている。テオは手を止め、ボニートへと身を乗り出していた。


「詳しくは知らねえが、ローマを支配するとヘロド様は言ってる」

「ローマを?」

「そのためにスペイン兵や、ランツクネヒトって傭兵と手を結んだって聞いたぜ」


「ランツクネヒト? 聞いたことねえな。でもスペイン兵って、それはもうただの喧嘩じゃないだろう。戦争になるのか?」

「さあな。だが、その始まりが明日の復活徹夜祭らしいぞ。お前の偽作の締切も明日だろ」

「あっ、ああ。そうだよな、こんな話をしてる場合じゃない」


 慌てて作業に戻るふりをする。だがその実うわの空だった。

 

 ローマの支配権を奪う。一体誰からだ。

 税金を徴収しローマの政治を取り仕切っているのは政務官だが、支配しているとは言えない。バベルは裏社会の実権を握っているかもしれないが、これもまた支配とは違う。


 ローマ市民が最も拠り所にしている人物。それは信仰の対象であり、贖宥状という万能薬で人々の心身をとらえている、ローマ法王だ。


 恐ろしい予感に震える。

 まさかスペイン兵や傭兵を呼び込み、バチカンを襲撃するというのか。ヘロドの欲とは、神の罰など恐れぬほど底が深いものなのか。


『黄泉と地獄ハデスは飽くことを知らない。人の目も同じように飽くことを知らない』


 作業机に開かれた聖書のページが目に入る。悪魔の大きな目をした底なし沼で、人々が互いを押し退け合いながら溺れかけている。それを肴に楽しむヘロド。

 そんな風刺画の構図が思い浮かんだ。


 この恐ろしい予言を、明日の日没までにどうにかしてバベルに伝えなければならない。テオは絵筆を握った。

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