Ⅵ 復活徹夜祭ー③

 ラファエロ聖書の完成と共に、テオの元からは画材や道具、筆一本から紙に至るまで、全て撤去された。

 一切の証拠を隠滅するのだという。アトリエにしていた小麦の備蓄小屋は本来の用途に戻り、テオは本当に小麦を挽いている。


 そこに運び込まれてきたのは、同じ人間かと思うほど綺麗な男だった。よほど弱っているのか、全く起きる様子がない。

 顔だけ見た時は女と思っていたが、着替えさせるのに体を見たから男で間違いない。


「ツラが割れているから絶対に外へ出すな」と「死なせないよう世話をしろ」。ボニートからそう伝えられて、三日目になる。

 その男が、ようやく目を開けたのだ。紫色をした、まるく優し気な瞳がテオを見る。


「だっ、大丈夫か? わかるか?」


 なにしろ、身元どころか名前すら知らされていない。

 彼は何か言おうとしたが、声がかすれて出なかった。冷ました白湯を持ってきて、上体を支えて飲ませてやる。


「ありがとう」

 ヴェネツィアの繊細なガラス細工のような顔が動いて喋ったので、思わず見とれてしまった。


「ここはどこなの?」

「ここか? 俺もローマから馬車で半日くらいの場所にあるってことしか知らない。何にもないところだ。目を覚ましてくれてよかったぜ」

「迷惑をかけちゃったみだいだね」


 そう言って寝台から下りたが、足が立たずに床に崩れてしまう。


「あれ。全然力が入らないや」

「まだ無理だって。こんなに痩せた体で三日もずっと寝てたんだぞ。食って体力を戻さないと」


 自力で立ち上がる事もできないので、テオが抱き上げてやった。想像していたよりもずっと軽い。


「俺はテオだ。あんたは?」

「僕はアヤ。テオはここで何を?」

「見ての通り粉挽きだ。麦粥なら食えそうか?」

「うん」


 寝台に腰かけて足を下ろしたアヤに背を向け、テオは調理を始めた。


「あんた、役者か歌手かい?」

「違うよ」

「そうなのか? こんなに綺麗な男を初めて見たから、てっきりさ」


「ありがと。顔を洗ってもいいかな」

「おう、ちょっと待ってな」


 湯を桶に入れ、手ぬぐいと一緒に渡してやった。背後でぱちゃぱちゃと音がする。 

 濡れた黒髪を撫でつけて、ちょこんと待っている姿は何とも愛らしい。出来たての麦粥が入った椀を渡すと、手で支えきれずに器が傾いてしまった。


「おっと!」

 中身がこぼれる前にテオがアヤの手を支えた。この調子では、匙を持って食べるのも危ういのではないか。


「食べさせてやろうか?」

「いいの? 悪いね」

 そんなきらきらした目で見つめないでほしい。


 匙でひとすくい取り、口の前に差し出す。サクランボの唇でちょっと触れて、熱かったのか、ふうふうと三度吹いてから、ぱくりと口に含んだ。

「おいしいよ」


 笑った。

 テオはもう、アヤから目を離せなくなっていた。こんなに、胸が震えるような可愛らしい生き物が世の中に存在したのか。

 いやまて、落ち着け。こいつは男だ。股間にちゃんと金玉があったぞ。


 だが、これほど愛らしいものなのか。三日間寝ていたのに、無精髭がどこにもない。いつまでだって見ていられる。造作の美しさでいったら、ビアンカでは足元にも及ばない。


「ラファエロ先生みたいだな」

「え?」

「なんでもない。あんたみたいにきれいで、華やかな男を思い出しただけ。あんたも女にモテそうだ」


「うーん、どっちかというと男の人の方が多いかな」

「……分かる気がする」


 半分ほど食べたところで、アヤは疲れたと言って眠ってしまった。

 今話していたのは妖精だったのではないか。そんな思いに囚われたが、食べ残した器が現実だと告げている。


 翌日、立てるようになったアヤは外に出てみたいと言い出した。


「それはダメだ。ここは煉獄の奴らに監視されてる」

「煉獄? そうか。なら尚更出なきゃ」

「ダメだ! 本当にヤバい奴らなんだ。言うことを聞かなきゃ何をされるか分からない。アヤだけじゃなくて、家族や身内にまで何をされるかわからねえんだぞ!」


「知ってるよ」

「なら大人しくしてくれ」

「そうか、ごめん。僕が勝手なことをすると、テオの家族や大事な人が酷い目に遭わされるんだね」


 言われて、思わず下を向いてしまった。

 一端の画家だと嘘をついて付き合った。そのためにビアンカは煉獄に捕われ、生涯消えない傷を負わされた。既に別れを告げられてはいるが、ビアンカには二度とそんな思いはさせてならないと思っている。


「俺の都合で悪い。今はもう他人だけど、大事な人なんだ」

「テオは僕の命の恩人だ。迷惑をかけるようなことはしないよ」


 アヤは窓際に立って、日の光を浴びたり、深呼吸をした。外の空気が吸いたかったのだろう。


「ねえ、聞かせてよ。その人のこと」

「はぁ?」

「テオの大事な人なんでしょ。教えてよ。どんな人?」


 ビアンカの温もりを思い出し、少し胸が痛む。


「彼女は、ビアンカっていうんだけど、いつも明るくて、よく笑ってた。パン屋の娘だから朝から晩まで動き回ってて。差し入れてくれた焼きたてのパンを一緒に食べるのが、幸せだった」


 今となっては全部過去形だ。最後に見たのは、真っ暗に絶望した顔だった。あんなに明るかったビアンカに、二度と笑うことができないほどの苦痛を与えてしまった。そばで支えることも、慰めの言葉をかける資格すらないテオにできるのは、せめて幸せを祈ることだけだ。


「付き合って長かったの?」

「一年だ。金が貯まったら結婚しようと思ってたんだ」

「求婚したの?」


「まさか! 金もないし、まともな職についてもないのにできるわけないだろ」

「そう? それ関係あるかなぁ?」

「男にはあるさ。けど、そうだな……。求婚しておけばよかったな」


 なりふり構わずに愛を告げればよかった。いつか剥がれる未来でも誓い合えばよかった。

 今更何を言っているのだ。バカだ。


「出会いは?」

「店で俺が一目惚れ。結構ファンが多くてさ。頑張ったよ」


「へぇ! どうやって口説いたの?」

「普通に手紙とかさ。あとは直接何度も伝えた」


「わぁ。なんて言ったの?」

「それは恥ずかしすぎるだろ。秘密だ」

「えぇ? いいじゃない」


 本当は、君のようにきれいな人を描きたいからぜひ絵のモデルになってほしいと頼んだのだ。ビアンカは本当に、キラキラして見えたから。


 アヤが醸す華やぎには不思議な力があり、テオは少し心が軽くなったのを感じた。


「そういうアヤはどうなんだ? 恋人はいるのか?」

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