Ⅵ 復活徹夜祭ー①
昼が死に、ローマに夜の闇が降り立つ。
この日ばかりはどの家も、繁華街すらも灯りをつけようとしない。本当の暗闇だ。
暗闇は死と罪を示す。真っ暗な死の中で、人々はキリストが死の枷を打ち砕き、勝利の王として立ち上がるのを待つのだ。
キリストがもたらす光が闇を晴らし、神の恵みを授けてくれる。サン・ピエトロ大聖堂の外にぎっしりと集まった人々もまた、その時を待っていた。
やがて法王が持つ大きな蝋燭に、新しい火が灯された。暗闇の中に唯一輝く炎。復活の光だ。
法王の蝋燭から、次の蝋燭へと火が移される。隣へ、次へと一つずつ光が移って増えていく。一人一人が手にした蝋燭へ、復活と希望が広がっていく様は、何度見ても心を揺さぶられる。
死の国から生の世界へと変貌した大聖堂の扉が開かれると、人々は行列を作り、法王に続いて中へと入っていく。
暗かった聖堂内がたくさんの蝋燭に照らされて明るくなっていく様も、美しいものだった。
大聖堂の燭台が灯されると、純白の法王の姿が一層輝きを増す。
第二一九代ローマ法王、クレメンス七世。
その声には全ての信徒を祝福し、悲しみを癒し、喜びを分かち合う力がある。その手には罪を抱擁し、許しを与える力がある。父なる法王を目の前にし、同じ空間を共にする感動に、大聖堂内は包まれていた。
「初めに
なぜだろうか。
通常、復活記念祭の福音朗読では復活の日の朝の出来事を記した、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書のいずれかが読まれるものだ。だが法王が選んだのは、ヨハネ福音書だった。
「法王猊下……?」
後陣からルカは疑問の目で法王の姿を捉えていた。
講壇のすぐ足下には衛兵隊長のアンドレが控えている。法王の声は決して大きくないが、聖堂の高い天井に朗々と響き、人々の心へと降り注ぐ。
「主キリストは仰いました。『あなたがたには、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです』と。受難が避けられぬからといって、恐れてはなりません。主は我が盾。我が光。その力は信仰ある限り永遠なるものです」
受難は常にあるものとして、恐れずに立ち向かう。それは、改革派に対する法王の毅然とした意思表示に他ならなかった。
由緒ある伝統から逸れてまで、法王がこの重要な儀式で宣言したのだから、軽いものではない。ルカは鳥肌が立った。
終わると聖歌に続き、いよいよ聖体拝領である。
法王が信徒たちへ直接聖体(聖餐の種なしパン)を授ける儀式で、法王へ接近できる機会となる。復活祭の中では最も神聖かつ脆弱な瞬間であり、狙うのならここだろうと、衛兵隊長アンドレも目星をつけていた。
聖体拝領の順番に並ぶ信徒たちへ、衛兵たちは服の下に武器などを隠し持っていないか、身体検査を始めた。行ってよしとされると、法王の前で跪いて口を開け、舌の上に「キリストの体」のパンを乗せてもらうのだ。
列は最後尾が見えないくらい続いている。全員には難しく、パンが潰えた時点で終了なのだが、それまで何百回と授与を繰り返すであろう法王の労力を想像すると、ありがたいものだと思えてくる。
ルカは信徒たちをじっと見つめた。
貧しそうな痩せた女は、涙を流して喜びに震えている。後ろに続く裕福な商人の夫妻も、赤子を撫でてもらった母親も。皆一様に純粋な祈りと喜びに感謝している。幸せしかないこの空間に、悪いことなど起こりそうにない。
だがその時、男の声が静寂を引き裂いた。
「こんなものは偽善だ! 法王は貧しい民を顧みず、贖宥状で吸い上げた金で贅沢な生活を送っているぞ! イタリアの民は飢えと貧困に苦しめられているのに、このバチカンは黄金と富に溢れている!」
聖堂内の全員が注意を引きつけられた。ルカはもちろん、衛兵隊長のアンドレすらも、声がした聖堂の後方を向いてしまった。
「もはや法王はキリストの代理人ではない! 貧しき者への慈悲を説きながら、一方では権力者たちに媚び、司祭たちは金と肉欲に溺れ、神の意志に背く行為を繰り返している! 賄賂と聖職の売買、姦通に同性愛、幼児への性的虐待。天才画家ラファエロによって明かされたおぞましい所業の数々を見ただろう! バチカンこそ最も罪深い存在だ!」
衛兵たちが男を取り押さえる。視線を戻した時にはもう、一人の人物が二列目から飛び出し、聖餐のパンを持つ法王へ向かっていた。
しまった! こんな単純な手に引っかかるなんて!
ルカが床を蹴る。アンドレの方が近いが、一歩出遅れてしまっている。
暗殺者は手にした十字架を法王の首めがけて突き刺した。
「猊下!」
アンドレの手が暗殺者を捕えようとしたが、獣のような俊敏さで身を翻され、空振りに終わる。
「待てこのっ!」
ルカもめいいっぱい腕を伸ばすが、相手は余裕気にふわりと後ろへ跳んで避ける。その時、顔を覆ったショールが揺れた。
紫色の大きな瞳、見まがえようのない美貌。
「アヤ……⁉」
だがニイと笑った顔の禍々しさは、ルカの知るアヤではない。
「魔女だ!」
「法王様を刺したのは魔女だぞ!」
アヤの顔をした人物は、衛兵たちの追撃をすり抜け、あっという間に聖堂を抜けて見えなくなった。あまりに鮮やかな一瞬の出来事に、誰もが虚を突かれた。
「猊下をすぐにお連れしろ! 大至急医師を呼べ!」
背後でアンドレが叫ぶ。目前では信徒たちの動揺が後方へと伝わり、前へ前へと人が押し寄せてくる。
「法王猊下! 猊下はご無事なのですか⁉」
「一目お姿を!」
「逃げるな法王! さっきの疑惑の答えを聞いていないぞ!」
厳粛な祈りの場は一転して、悲鳴と怒号が飛び交う渦となった。
「下がれ! 危険だぞ下がれ!」
既に法王は搬出されているが、信徒には伝わらない。衛兵たちが懸命に抑えようとするが、もはやそんな統制は無意味だった。
ルカも人の波にのまれる。ぶつかられ、もみくちゃにされながら、呆然とするしかなかった。
「どうしてアヤが法王を……」
体調を崩していた。土気色の顔をしていた。倒れて、バベルのところで休んでいるのではなかったか。
にもかかわらず尋常ではない身のこなしに、邪悪な表情。法王を襲うという常軌を逸した行動。
一つの予感にルカの体が芯から震える。
その時、人ごみの中にたたずむ一人の男と目が合った。
ダークブラウンの柔らかそうな髪に、上級職を思わせる身なり。少し垂れた瞳が印象的な優男。我先にと押し寄せる人々の中で、その男だけ別の空間にいるような佇まいだ。まるで天使を思わせるような——。
ミカエルだ。
ルカの体を直感が貫く。ガブリエルでもあり、首謀者の男。
人の波に阻まれて近づくことはできない。だがその顔を絶対に忘れないと、ルカは男が聖堂を後にするまで目を離さなかった。
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