第六話 幼少期(5歳児クラス) その5
遠坂臙士というプロ野球選手について、今一度おさらいをしておきたい。
右投げ右打ちの投手で、現役時代の最高球速は156km/h。
彼が表舞台に現れたのは今から17年前、知多山高校の一年生の時だった。
甲子園常連校の南洋商業を下し、甲子園に出場すると、一年生ながら先発投手として登板。150km台のストレートと多彩な変化球で華々しいデビューを飾った。
2年生の夏は舞工大附属に地区大会で敗れるものの、後の春大会にはリベンジを果たし、二度目の甲子園出場。先発投手4番として、ベスト8まで進んだ。
3年生の頃には、夏の甲子園を準決勝まで進み、後に同年プロ入りをする巻島高の甘地との投手戦がテレビの話題を攫った。
その後、後楽ギガンツにドラフト1位指名で入団。
現役時代の活躍も目覚ましく、2年目から先発として一軍入りすると、持ち前のストレートで三振の山を築きあげ、チームに貢献した。
4年目以降はオールスターにも選出。
現役7年目にはノーヒットノーランを達成し、沢村賞を受賞。
また、この年は日本シリーズも制した。
打撃も投手にしてはかなり打つ方で、打率が2割に到達する年も少なくない他、本塁打も放っていた。
野球以外でも、その端正なルックスからCMやテレビ番組にも引っ張りだこで、27の時にはタレントの綾瀬可奈との結婚が発表された。
ただ、ここが遠坂投手の絶頂期だった。
プロ生活10年目にして右肘を壊し、一軍を離脱。
トミー・ジョン手術を受けてリハビリの末現役復帰を果たしたものの、成績は思うように伸びず低迷した。
球速も140km/h前半まで落ち込み、以降は変化球に重心を置いて、12年目にして一軍に復帰するが、その試合も4回までに4点を取られて降板。以降一軍と二軍を行き来したが、結局目覚ましい活躍もなく、14年目にして引退となった。
現役時代の人気ぶりから、引退後はコメンテーターやタレントへの転身も噂されたが、結局のところ引退試合を最後に、表舞台には姿を見せていない。
そんな激動の野球人生を歩んだ遠坂投手が今、目の前に立っていた。
遠坂家の屋内練習場は、個人の家屋では考えられないような規模のものだった。
ピッチングのための実寸のマウンドと、その隣にはピッチングマシンのついたバッティングゾーン。加えて、陸上用のサークルが描かれた広い区画もあった。
さらには、同じ施設の中にシャワールームとサウナ室まで完備されている。
おそらくは、長いプロ生活を見据えて、この施設を作ったのだろう。
遠坂投手は俺に子ども用のグローブを手渡した。
「ななみくーん、キャッチボールしよー」
「ああ」
俺はピッチングのスペースに入り、いつもみたいに凪乃とキャッチボールを始める。
凪乃の鋭い球を、本革のグローブで受ける。
やっぱり軟式球は重くていい。
普段保育園ではゴムボールにおもちゃのグローブだからな。
それに、子ども用のグローブもきちんと捕球しやすいように型が作られていて、よく手入れされている。
その間、遠坂臙士は一人で壁を相手に軽く投げていた。
俺は横目で、その投球する姿を追う。
最初はフォームを確かめるように、そして段々と投げる球はスピードが速くなる。
そして肩慣らしが終わったのか、ある時彼は、両腕を大きく振り上げて、一歩下がった。
ワインドアップ。
左脚を上げ、身体は重心ごと流れるように前へスライドされる。鞭のように腕がしなり、白球が投じられる。
壁に球が打ちつけられる音が、鈍い銃声のように屋内で反響した。
すごい。
俺は愕然として、ただただその姿に目を奪われた。
やはり、元プロ選手の球は違う。とても肘を壊したとは思えない。
「ななみくーん!なげたよー!」
「えっ?」
凪乃の方を振り向いた時、軟式球が額に激突する。
突然の衝撃に、俺は尻餅をついた。
「おいおい、キャッチボールもままならないんじゃ、話にならないな」
遠坂臙士が俺の身体をヒョイと持ち上げて立たせる。
「よそ見してただけです」
「キャッチボール中によそ見なんてするな」
もっともな意見だった。
「それで、肩はできたか?」
「はい」
「じゃあ、ピッチングに入るか」
遠坂臙士は俺と凪乃をマウンドとホームベースの間くらいの位置に立たせて、自らはキャッチャーミットをはめてホームベースの後ろで構えた。
「凪乃、いつも通り、まずは軽く投げてこい」
「はーい」
凪乃は軟式球を握ると、両腕を振り上げて、一歩下がる。
少しばかり拙いものの、先ほどの父親を思い出させるような綺麗なフォーム。
そして、いい感じで力の抜けた腕の振りと共に放たれた球は、構えたミットの中にスパンと吸い込まれていった。
ゴムボールで投げていた時とは全然違う、重々しい音。
やはり、軟式球の方が慣れているのだろう。
「じゃあ坊主、投げてこい」
球を投げて渡されると、途端に心臓の音が高くなってきた。
実は、プロに投球を見てもらうのは初めてじゃない。
前世の小学3年生のとき、近所のバッティングセンターのイベントで元プロの選手がやってきて、手ほどきを受けたことがあったのだ。
だが、あれとは緊張はまるで違う。
相手は遠坂投手という元トッププロで、俺は今この一投で、実力を測られるのだ。
俺は短い指でフォーシームに握る。
家では軟式球を使わせてもらっていたが、それでも庭は狭く、近場の公園にもまともに練習できる場所はなかった。
うまくやれるか。
振りかぶると、本革のグローブと白球の重みで身体がぐらつきそうになる。
それに耐えながら、俺は思い切り、全力で投げた。
バシン!
遠くのキャッチャーミットが音を立てる。
「……………」
ギリギリ、ストライクゾーンには入らない位置。
ボールだ。
やはり、この身体ではまだまだピッチングは難しいようだ。
少し落胆しながら、遠坂臙士に近づく。
彼は、ミットの中のボールをマジマジと見つめていた。
「……お前、もしかして人生二回目か?」
言われた途端、ドキンと強く胸を打つ。
「な、なな、何を言って………」
遠くで見ていた夏鈴と目を見合わせる。
彼女もまた、動揺を隠せずにいる。
「だってそうだろう。お前のピッチングは、一朝一夕の練習の跡じゃない」
「……ええと、父親に教えてもらったので」
俺は咄嗟に言い訳をする。
「そ、そうなんです!な、七海君は、1歳の頃からバットを振らされてる、野球一本の英才教育を受けさせられて……」
夏鈴も続けてフォローに入るが、構わず遠坂投手は話を遮る。
「そうだ。たしかに、熟達している。だがそれ以上に、クセだらけだ。よほど我流の練習を積み重ねないと、そうはならない」
「あっ…………」
まさか、そんなところからボロが出るだなんて。
確かに、俺は前世で一人の練習に明け暮れていた。
近くに突出したコーチや監督はいなかったから、自分で本や動画からエッセンスを吸収して、自己流の練習に取り組んでいた。
遠坂臙士は、あの一球で本当にそこから俺が転生者であることに気づいてしまったのか?
プロ野球界でトップの位置にいたこの男には、そんなことまでわかってしまうのか?
俺と夏鈴があたふたしていると、やがて彼は豪快に笑った。
「まぁ、そんなことがあるはずないがな!どうやら、お前に投球を教えた父親は、相当に苦労人のピッチャーだったようだな!」
それを聞いて、俺と夏鈴はホッと胸を撫で下ろした。
まぁ、輪廻転生なんて、そうそうに信じたりはしないよな。
遠坂臙士は球を投げてよこして、もう一度投げるように指示をした。
それから日が落ちる夕方頃まで、俺たちは練習をした。
「……お前の実力はだいたいわかった」
後片付けまで終わったとき、遠坂臙士はそう言った。
俺の総評が聞けるかと次の言葉を待ったが、結果的にそうではなかった。
「お前、どこかのチームには入っているのか?」
「いえ、まだ……」
遠坂投手は思案するようにライトの輝く屋内の天井を眺める。
「もう遅いから、車で送って行こう」
結局、俺は遠坂臙士の赤のポルシェで送り届けてもらった。
家まで着いてうちの両親に挨拶をしたが、まさかの大スターの登場に、両親はおったまげていた。
「おい坊主」
帰り際、遠坂臙士は俺を呼び止めた。
「凪乃と付き合いたければ、俺の最高年棒に到達してから来るんだな」
そう言うと、エンジンをふかせて、ポルシェは走り去ってしまった。
小さくなっていくポルシェを眺めながら、俺は思う。
たしか遠坂投手の最高年俸って、億はゆうに超えていたよな。
ほとんどトッププロにならないと付き合えないじゃん。
そんな凪乃父の大人気なさに、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
ー1ヶ月後ー
柔らかな太陽の光が包む昼下がり。
相変わらず、保育園の園庭で俺と凪乃はキャッチボールをしていた。
その日は珍しく夏鈴もキャッチボールに参加をしていて、俺たちは三角形の形に離れて投げ合っていた。
「かりんちゃんって、すごくおもしろいかたちでとるんだねー」
サタデーナイトフィーバーのようなポーズ(わからない人はググってほしい)でぎこちなく捕球する夏鈴に、凪乃は笑いかける。
最近ではようやく夏鈴もボールをキャッチできるようになってきていたが、いくぶん運動神経がとても残念だから、どうしてもあたふたしてしまって、面白おかしい挙動をとりながらでしか取れないのだ。
「なに、ケンカ売ってるの?低学歴の分際で?」
「園児相手に学力マウントを取ろうとするな」
夏鈴は苦々しげに凪乃を睨みつけるが、当人はそれに気付きもせずに、相変わらずニコニコと笑みを浮かべている。
「凪乃は馬鹿にしてるわけじゃない。無邪気な子どもの純粋な反応だ」
「それがわかってるぶん余計に腹が立つのよ」
どうやら夏鈴の運動神経が改善されるのは、まだまだ先になりそうだった。
そんな楽しいキャッチボールを続けていると、一際けたたましいエンジン音が遠くから近づいてきた。
それは、遠くからでもわかるほどに目立つ、赤いポルシェだった。
「あ、おとーさんだー」
ポルシェから降りて園庭にやってきた父親に、凪乃は手を振る。
遠坂臙士は一瞬のろけたようなにんまり顔を見せたが、すぐに表情を戻して俺の前で屈んだ。
「久しぶりだな坊主」
あの日以来、遠坂臙士とは一度も会っていなかった。
何度か凪乃に一緒に練習させてほしいと頼んだのだが、忙しいとかで凪乃とも最近は練習ができていないと聞いていた。
「お前、野球上手くなりたいか?」
唐突に、そう問いかけられた。
否定する理由もなく、当然俺はコクコクと頷く。
すると、臙士は深く頷いて、革のバッグから、クリアファイルに入れられた一枚の紙を取り出し、俺に差し出した。
「これを、お前のお父さんとお母さんに渡してくれないか?」
俺はその紙を取り出して、文字を読む。
そこには、大きな明朝体で「入団届」と書かれていた。
「ジュニア野球チームを作るんですか?!」
「なんだお前、漢字読めるのか?」
「い、いえ、なんとなく………」
俺は苦し紛れにごまかす。
臙士は気にしていないようで、胸を張り自信気に話を始めた。
「前々からチラッとは考えていたんだ。凪乃を預けるに値するようなジュニアチームは見つからなかったからな。それなら自分で作って、俺が凪乃を育てた方が早い。ちょうど、ギガンツの監督のオファーがかかるまでには時間があることだし」
将来ギガンツの監督になることがさも確約されているような言い草。
なんたる自信。
「そのチームに、俺を……?」
「ああ。プランなら考えてある。先発に凪乃、後半にお前を起用する。肩は消耗品だから、凪乃に多投させるのは避けたい。お前と分散させることで、無理なく勝利につなげていく」
完全に凪乃中心の考えだったが、もはや致し方ない。
「お前もプロを目指すのなら、最高の環境になるだろう。どうだ、やらないか?」
俺にとってもこれ以上ない誘いだった。
考えるまでもない。答えは決まっていた。
「お願いします!」
俺は深々と頭を下げる。
内心、心臓の鼓動が聞こえるほどに興奮し気持ちが高ぶっていた。
これで、強くなるための環境は整った。
この二回目の人生で、甲子園に出場し、プロ野球選手になる。
その夢を、叶えることができるかもしれない。
おまけに、超モテモテで最高にハッピーな人生にするんだ!
俺は明るい未来を思い描きながら、ニタニタ顔を浮かべるのだった。
―5歳児クラス編 完―
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