第十五話 少年期(小学5年生) その8

とうとう、八王子オリオンズとの練習試合の日がやってきた。


この日は、幸いにも朝から快晴だった。


少年野球チーム「カルムズ」のメンバーは、貸切バスに揺られて八王子を目指していた。


「七海くーん、グミ食べるー?」


「ああ、ありがとう」


隣の座席に座る凪乃から派手な発色のグミを受け取る。


「はい、葵ちゃんもー」


俺の脚にもたれるようにして身体を伸ばし、通路を挟んだ向こうの葵にも、グミを渡そうとする。


目の前を凪乃の頭が通る時、長い髪の甘い香りが鼻をくすぐった。


「あ、ありがとうございます」


葵はもらったグミを口に放り込む。


だが、表情はどこか冴えず、いつもの元気はつらつな様子からは遠かった。


「緊張しているのか?」


「はい………」


何せ、初めての試合だからな。


それに、まだ野球を始めて一週間やそこらなのだ。


「まぁ、心配することはないさ」


おそらく、今日の試合に葵が出ることはない。


カルムズは俺と凪乃の二枚岩のチームだが、だからといってそこまで選手層が薄いというわけではない。


九回の代走要員ならともかく、流石に初心者に出番が回ってくるほど甘くはない。


「もうすぐ着くぞー」


濱北さんの一言で、子どもたちはガサゴソと降りる準備を始める。


窓の外を見ると、八王子の標識が見えていた。


着いたのは、河川敷近くの開けた土地にある野球場だった。


錆びた屋根のベンチに、白いポールの時計塔。


フェンスの向こうには青々とした木々が緩やかな風になびいている。


おじさんたちの草野球にうってつけの、ごくごく平凡な野球場だった。


俺たちが球場に入った時にはもう向こうのチームはベンチについていて、俺たちに気づいた監督らしき中年の男がこちらに近づいてきた。


「はるばる来ていただいてすみませんな」


「いえいえ。今日はお時間いただきありがとうございます」


遠坂監督はその男と握手をする。


監督同士が談笑し合う中、濱北さんは俺たちをベンチの方へ誘導する。


野球道具を下ろし、しばらく待っていると、監督がこちらにやって来た。


「試合は30分後だぞ。準備をしておけ」


オーダーはもう既に発表されている。


凪乃は先発投手で、打順は2番。


1番は6年生の子で、3番も6年のキャプテンの子。


4番は、俺だ。


守備位置はセンター。


凪乃が先発を担い、試合の中頃まで行ったタイミングで俺と交代して、凪乃がセンターに行くという算段だ。


葵は走力が認められて、経験者たちを差し置いてベンチ入りをしている。


「そういえば、向こうのチーム、今すっごく上手い子がいるんだって」


凪乃が唐突に言った。


「上手い子?」


そんな話、俺は聞いたことがなかった。


正直、まだこの年齢だから、周囲の有望な選手なんてまるでノーマークなのだ。


「名前は覚えてないんだけど、とにかくすっごく上手いんだって」


上手いって言ったってなぁ。


これじゃあ情報量が少なすぎる。


「まぁ、それだけ上手いなら、試合中にわかるだろ」


そうこうしていると、整列の号令がかかり、俺たちはグラウンドに駆ける。


そして挨拶をして、試合開始となった。


先攻はオリオンズ。


打者が小走りでバッターボックスへ向かっていく。


一番バッターは、細身で長身の男の子だった。


凪乃は最初、一球を外して様子を見る。


そこからストライクゾーン、内角低めにストレートを放ると、バッターはまんまと手を出して、ボテボテの打球はサード方向に転がり、まずはワンアウトを取った。


順当な立ち上がりだ。


続く二番。


ウルフカット気味の髪の長い少年だった。


彼は初球をあっさりと見逃した。


続く二、三球目は際どいボール球だったが、これらも見極めて2ボール1ストライク。


そして三球目、少し内角に甘めに入ったボールを、少年は振った。


打球は真後ろ高くに飛び、ファール。


「………この子だ」


ここまでの立ち回りで、俺は気づいた。


凪乃が言っていた、「とっても上手い子」。


コントロール重視の凪乃の球を見極める選球眼と、それにタイミングを合わせる打力。


決してどこも悪くなかった凪乃の球を真後ろに飛ばしファールにするのは、完全にタイミングを掴んでいた証拠だ。


凪乃も、この数球でそれを感じ取ったようだった。


事実、次の投球までに、6年のキャッチャーのサインを何度も首を振った。


大抵はキャッチャーの指示通りに動く凪乃にしては、かなり珍しい。


ようやく頷き投げたのは、外角高めの緩やかなボール球。


手を出しそうなものだが、それも少年は見逃す。


そして次に、全力のストレートを放る。


内角の厳しいコースに入った球に、少年のバットは空を切った。


「バッターアウト!」


凪乃はマウンドで、ホッと胸を撫で下ろす。


少年は冷静沈着な面持ちで、バッターボックスを後にした。


「…………」


夏鈴と一緒なら能力を計測してもらえただろうが、残念ながら今日は同伴していない。


とはいえ、小学生でここまでやるなら、計測するまでもないだろう。


続く3人目を、凪乃はセカンドゴロに抑えて、一回を無失点に抑えた。


駆け足で俺たちはベンチに戻る。


帽子を脱いで額の汗を拭った凪乃と目が合った。


「二人目だったね」


「ああ」


俺はベンチに置かれていたオーダー表を手に取る。


「藍染雄人(あいぞめゆうと)か………」


どうやら俺たちと同じ5年だった。


今後野球を続けていく限り、そこかしこで名前を見ることになるのだろう。



そして、後攻の俺たちの攻撃。


一番が初球を打ったが、ピッチャーゴロに終わった。


「凡退するにしても、せめてもう何球か投げさせて様子見させて欲しかったな」


「まぁ、仕方ないよ」


いつもの笑みを見せながら、凪乃はベンチから立ち上がり、バッターボックスに向かう。


親譲りか、凪乃はバッティングのセンスも抜群にいい。


なにせ、父親は甲子園に投手で4番として出場し、ホームランまで打っている名選手なのだ。


凪乃にしても、相手のレベルによるが、下手なピッチャーならまず打ち損じなくヒットを量産する。


そんな凪乃の初球。


投手は外角のボール球を放ったが、凪乃は見送る。


二球目はそれに反して少し甘めに入った球だったが、それも見送った。


1ボール1ストライク。


俺が見る限り、相手ピッチャーの球速はなかなかなものだった。


球によっては100kmに近いぐらいは出ている。


これは、俺の少年時代によらず、今の基準と比べても極めて高い能力だと言える。


だが、コントロールがイマイチで、キャッチャーの指示通りの場所には収まらない。


実際、三球目のストレートは甘く入った。


打ちごろの球だったが、それも凪乃は見逃した。


1ボール2ストライク。


「打ちにいけ、凪乃っ!」


遠坂監督が大声で指示を飛ばす。


ベンチの監督に、凪乃は振り向いて頷く。


それから後、凪乃はチラリと俺に目を合わせた。


「…………」


それで俺はようやく気づく。


なるほど。


さっきの発言があったから、俺のために見送ったのだろう。


続く四球目も内寄りにストレートが甘く入る。


今度はそれをうまく捉えて、凪乃はレフト方向へ飛ばした。


ヒットだ……!!


一塁で止まり、凪乃は俺へ手を振った。


俺も、手を振って返す。


凪乃は主力の選手として、しっかり仕事をしてくれたというわけだ。


続く3番の6年生も、速球をセンターへ打ち返して、その結果ノーアウト1、2塁。


そこで、俺の打順が回ってきた。


「……………」


バッターボックスに立ち、俺はピッチャーの顔色を伺う。


初回からのピンチだったが、眉ひとつ動かさず、平静を装っている。


よく鍛えられている。


同じ年の頃の俺だったら、きっと緊張のあまり周囲に泣きついていたことだろう。


そんな相手投手だが、この数球だけでも、手放しに賞賛するわけにもいかなかった。


これまでの投球で、おおよその癖は俺なりに掴めている。


まず第一に、速球がかなり中心に集まってしまうのだ。


この打席、投手が第一に投じた球は、外角のストライクゾーン。


俺は、それを平然と見逃す。


ストライク。


続いて、相手ピッチャーは振りかぶり、全力の一球を投じる。


コースは、内角。


そのとき、俺の目が光る。


そう。


甘い。


こんなの、打ちごろの球じゃないか……………!!


俺は思い切り体重を乗せて、バットを振り切る。


「……………ッ!!」


甲高い快音と共に、打球は驚き顔のピッチャーの頭上遥か高くを飛び越え、勢いが衰えないままフェンスの向こうへ吸い込まれていった。


ホームランだ。


「嘘だろ………」


ダイアモンドを走りながら、澄ました顔をしていた相手ピッチャーの表情が崩れている様を見て、俺は心でほくそ笑む。


あれだけの特大ホームランは、少年野球じゃなかなか見られないだろう。


まぁ、小学生相手に本気を出すなんて、大人気なさもあるけれど。


走者一掃し、3対0。


そこからは2者続けて凡退に倒れ、一回を終えることになった。


「なんだか勝てそうですね!」


「ああ」


素人の葵でも、この勝ちの流れは感じ取っている。


ベンチを見ると、監督はピッチャーの子に怒号を散らしていた。


選手たちはその怒号に耐えながら、厳しい表情で打順を待っていた。


「……………」


向こうチームからすると、辛い状況の中。


ただ一人、藍染だけは違っていた。


藍染は、至って冷静沈着な面持ちで、怒り狂う監督の隣でオーダー表を眺めているのだった。

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