第十四話 少年期(小学5年生) その7


「七海さんっ!今日も練習行きましょう!」


ホームルームが終わり下校時間。


5年生の教室の入り口で、一回り小柄なポニーテールの女の子が俺を呼んでいた。


「おい七海、またあの子来てるぞ」


同級生の男子がニヤニヤ顔で葵を指差す。


「お前、相変わらずモテるな」


「そんなことないよ」


「まったまたー」


俺の背を二度叩き、そいつはランドセルを背負い帰っていった。


まったく、人の気も知らないで。


葵がカルムズに入団すると決まってから、彼女は毎日授業が終わると俺の教室まで迎えに来た。


元気はつらつな葵に会うと、練習が面倒な日も気持ちが切り替わってこちらとしては良かったが、問題は周囲だった。


当然、モテのオーラを最小限にしていたところで、俺がクラス内でダントツに女子人気があることに変わりはない。


そんな俺を、野球の練習とはいえ放課後に白昼堂々誘ってくるとなると、周囲の女子が捨ておいては置かない。


今はまだ黙って様子見をしているようだが、それでも禍々しいばかりの嫉妬のオーラを葵にぶつけている。


だが、葵はそんな澱み切った周囲の空気をまるで介せず、明るく上級生たちに挨拶までしていた。


気にしないというよりも、そういったマイナスのエネルギーを察知できない、という方が正しいかもしれない。


凪乃もそうだが、空気が読めないというのはある意味強い。


「七海さーん、早く行きましょー!!」


両手を振り、笑顔で呼びかける葵。


「あの子、早いうちになんとかしないと、うちの女子たちにえらい目に遭わされるわ」


夏鈴は半ば緊迫した面持ちで忠告する。


「わかってるよ」


「緊迫感がないんじゃない?小2の頃の美奈子ちゃんを忘れたの?あまりにも貴方に付きまとうもんだから、クラスの女子が毎日靴隠しした挙句、警察沙汰になったでしょ」


「土の中から36足見つかったあれか…………」


用務員のおじさんが秋口にパンジーを植えようと校庭の土を掘り返していたところ、突然女児の靴が見つかったのだ。


おじさんが驚愕の声をあげたのは言うまでもない。


真剣に、何かしらの対策を考えなくちゃならないな。


俺だって、保育園や小学校低学年の時の二の舞にはなりたくはないしな。




そんなこんなで、俺たちは放課後その足で、いつも通り遠坂邸の屋内練習場に向かった。


最近、俺と葵が行く時は、夏鈴も同伴するようになっていた。


彼女は特に練習に参加するでもなく、ネットの向こうで俺たちの練習を眺めていたり、それに飽きるとベンチで本を読んでいたりするのだった。


あんまりクラスの女子とも深い付き合いはないみたいだし、クールに見せかけて、なんだかんだ人恋しいのだろう。


試合が終わったら、またカフェかどこかに連れて行ってやらないといけない。


練習場に着くと、待ちきれんとばかりに葵がカバンからグローブを取り出した。


「七海さん、キャッチボールしましょう!」


「ああ」


周囲を見た感じ、どうやらまだ濱北さんは来ていなかった。


監督はテレビの仕事を抱えている分、カルムズのことは全て濱北さんに任されている。


ここ最近は、あれこれと準備も多いようだった。


「夏鈴、お前も入るか?」


「私はパス。昨日の体育で軽く筋肉痛なの」


昨日は確か、クラス対抗でサッカーをした。


大人数だったしそれほど動くこともなかったと思うけどな。


あの程度の運動で筋肉痛になるなんて、本当に小学生かよ。


とはいえもう夏鈴はベンチに座って、単行本を開いていた。


俺たちは軽くアップをしてから、キャッチボールに入る。


数回球が往復すると、段々とお互い球威を上げていく。


葵の球は、初心者とは思えないほどに鋭い。


肩の力がそれほど強いようには思えないが、フォームが抜群に整っているのだ。


それは野球の世界で言う「綺麗なフォーム」とはまた異なるが、彼女のその体格と筋肉量で投げれる中での最適解を、彼女自身が見つけている気がする。


これが才能か、と俺は考えさせられる。


俺が5歳児の時、初めて監督にボールを投げた時、「クセだらけ」と言われたものだったが、そのクセこそ、その最適解を見つけられないが故の試行錯誤の証なのだ。


「あの」


「なんだ?」


「私、ちょっとは上手くなってますか?」


キャッチボールを続けながら、葵は少し心配そうにする。


これだけ投げられていても、不安なのか。


まぁ、比較対象がないもんな。


「ああ。上達したし、葵は最初から上手いよ。才能があるから」


パァッと顔を明るくする。


「七海さんにそう言ってもらえて、嬉しいです!」


眩しいばかりの笑顔でそう言われると、なんだか俺も照れてしまう。


天真爛漫とはこのことなんだろうな、きっと。


「あー、七海くーん」


キャッチボールを終えてバッティングに入ろうとしていた矢先、入り口の方から聞き慣れた声がした。


「凪乃か」


凪乃は私立小学校の制服姿だった。


帰ってきたばかりなのだろう。


「あ、夏鈴ちゃんもいるねー。なんだか久しぶりだね」


「最近見なかったけれど。忙しかったの?」


「うん。友達とのお約束があってー」


凪乃は向こうの小学校でなんとか上手くやれているようだな。


「あれー、その向こうの女の子は、新しい部員の人?」


「そうだよ。葵って言うんだ」


葵は慌ててペコリと挨拶をする。


よろしくねー、と凪乃は相変わらずゆるく返す。


更衣室の方へ行ってしまう凪乃の後ろ姿を眺めながら、葵は背を指差した。


「あの可愛い人も、部員さんなんですか?」


「そうだよ。監督の娘さんだ」


「と、遠坂監督の娘さんですか!?」


両手を口に当てて、葵は驚愕の声を上げる。


「と、とんでもないライバル出現です………」


「それ聞こえてるぞ」


まぁまぁ大きな声で独り言を言う葵。


それも天真爛漫なところなのだろう。


俺たちがバッティング練習をしている間、凪乃は隣で壁を相手にボールを投げていた。


相変わらずの完璧なフォームに加えて、成長期が来て腕が伸びたこともあり、球速もここ最近一気に上がってきた気がする。


これだけの球が投げられれば、監督の言うように、選抜に選ばれる可能性があることも頷ける。


「む、むずかしいですね………」


葵の方はというと、バッティングフォームを教えてから実際に俺が投げて打たせていたが、ボールをバットに当てるのがやっと、といった感じだった。


反射神経がいいからボールに上手く反応しているが、フォームが定まっていないのと、何より慣れていないせいでタイミングが合わず力も乗らない。


軽く投げればヒット性の球も出るが、80km/hくらいまで出していくと、まるで反応できなかった。


「ちょっとバットを替えてみようか」


俺は低学年用の細い金属バットに持ち替えさせる。


「おおっ、振りやすいです!」


葵ははしゃいでブンブンと振り回す。


それでもう一度俺はマウンドに立ち、ちょうど80km/hくらいに調節してストレートを投げた。


すると、今度はピタリとタイミングが合い、葵のバットは真芯を捉える。


鋭さこそなかったが、ポンと上がった打球はそのままセンター前ヒットとなった。


「打てました!」


「すごいな!」


俺は手を振り褒めてやったが、決してお世辞ではない。


コースは甘かったが、これくらいの球が打てれば、地区大会レベルの投手なら十分に戦えるだろう。


「……………」


さっき、チラッと凪乃と視線が合った気がしたが、凪乃は反応することなくまた投球に戻っていく。


「……………」


葵はバットを下ろし、凪乃のいるブルペンに入っていった。


「あの、凪乃さん」


「んー?どうしたのー?」


凪乃は練習を止めて、微笑みかける。


「私と、バッティングで勝負してください!」


腰からの大振りで、葵は頭を下げた。


「おい、葵………」


意表を突くような行動に、俺は少し戸惑いを覚える。


葵、お前どういうつもりなんだ………?


「うん、いいよー」


突然のことにも動じず、凪乃は相変わらずのゆるい返事でOKを出した。


そんなわけで、急遽、凪乃VS葵のバッティング対決が行われることとなった。


俺はキャッチャーを務めることになり、防具をはめてキャッチャーミットを持つ。


この展開に、夏鈴も本を読むのを止めて、ベンチから様子を見ていた。


凪乃と俺は数回軽く投球練習をした後、いよいよ葵がバッターボックスに上がった。


「お前、なんでまたいきなり勝負なんて言い出したんだよ」


「えへへ………」


答えるのを避けて、葵は困ったように笑う。


「葵ちゃーん、いくよー」


凪乃はゆっくりと腕を振り上げて、一歩下がる。


そして身体を捻ると同時に脚を振り上げる。


そのまま流れるような動きで、白球を投じた。


「…………ッ!!」


ズバンッ!、とミットが音を立てる。


「す、ストライク!」


それは内角低め、ストライクゾーンギリギリの位置だった。


そして球速は、俺の見立てでは100km近く出ていた。


葵はわずかに身体を震わせた他何も反応することができなかったが、それも無理はないだろう。


こんなところに投げられたら、経験者でも手を出すことは難しい。


俺は戸惑いと疑問を抱きながら、凪乃に球を返す。


どうして凪乃は初心者の葵相手に、こんな球を投げたんだ?


俺は凪乃に、ど真ん中のストレートのサインを出していたというのに。


「いくよー」


先ほどと幾分もブレのないフォームで、また一投する。


「………えいッ!!」


今度は果敢にも振りにいくが、ボール2個分も開いた場所でバットは空を切る。


ストライク。


今度の外角低め、緩めのボール球。


一球外してきてる。


俺のサインは、さっきと同じでど真ん中ストレート。


これで確信した。


凪乃は、本気で打ち取りにきている。


コントロール力の高い凪乃が、ここまで続けて球を外すなんてあり得ない。


凪乃はいつもと変わらず笑顔を見せているが、よく見ると様子が違う。


普段の試合中よりも一段と、眼光が鋭いのだ。


「まさか……………」


こいつ、もしかして。


葵に嫉妬しているのか……………?


俺は試しに、内角高めストレートのサインを出す。凪乃が一番好みの配球だ。


すると凪乃は、得意な笑みで頷く。


それは長年付き合ってきた中で、初めて見る表情だった。


投球フォームに入る。


ワインドアップ。


凪乃はそこから勢いよく脚を踏み出し、腕を振り切る。


葵は最後まで目で球を捉えてバットを振るが、それでも振り遅れて球はミットに吸い込まれた。


「バッターアウト!」


葵はそのまま、床へへたりと座り込んだ。


俺は防具を外して立ち上がり、伸びをする。


やっぱりキャッチャーの防具は窮屈で嫌だな。


マウンドの方から、凪乃が駆け寄ってくる。


葵は感服したというように、首を振った。


「すごいですね。全然かないませんでした………」


「えへへー、そんなことないよー」


凪乃は優しく手を差し伸べ、葵を立たせる。


「私、いっぱい練習します!それで、いつか凪乃さんからヒットが打てるようになります!」


「うん、がんばってね」


凪乃は優しく微笑んで、葵の頭を撫でた。


それは側(はた)から見れば、美しい友情的な光景に見えたことだろう。


だが、長年凪乃と一緒に過ごした俺には、その柔らかな表情と言葉の語気から、裏の感情を感じ取った。


そう。


俺には凪乃の言葉はこう聞こえた。


「できるものならやってみて?」、と。


それは長年の練習からくる自信と、相手への嫉妬が混じった複雑な意味合いを思わせた。


俺は夏鈴の方に目をやる。


するとそれが伝わったように、夏鈴も俺をみていた。


おそらくは考えていることは同じだろう。


それからは、濱北さんがやってきて、指示の元軽く守備練習をしてお開きになった。


帰り道、凪乃に見送られながら俺たちはいつも通り談笑しながら歩いていたが、おそらくはみんな、いつもと心境は違っていただろう。


そうして3日後、俺たちは八王子オリオンズとの練習試合を迎えるのだった。

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