第二十話 少年期(小学5年生) その13
「次、ライトいくぞー」
遠坂監督の声に続いて、金属バットの快音が鳴る。
曇り空にアーチを描く白球を、俺はぼんやりと眺める。
ノック練習は、日曜日の数ある練習の中で、休める部類の一つだった。
元々カルムズの練習量は他チームと比べても多い方ではなかったが、ここ最近は練習量がかなり増えている。
監督が本格的に全国大会を目指すようになったからだろう。
それもあって、指導もかなり厳しいものになっていた。
そしてようやくやってきた休憩の時間。
俺はスポーツドリンクを喉を鳴らしながら飲む。
いくら二回目の人生で経験値があるとはいえ、これだけの練習量では身体も悲鳴を上げる。
ましてや、俺と凪乃はこの練習の後も個別トレーニングが待っているのだ。
「なぁ、健人」
そんな疲労困憊の俺に、監督が声をかけた。
「なんですか?」
「ちょっと相談があるんだが………」
監督が俺に相談とは珍しいものだった。
俺の隣に腰を下ろし、遠くにいる凪乃を指さした。
「あいつ、最近様子がおかしいんだ」
「あの練習試合の時にホームランを浴びてからですよね」
先々週行われた、強豪チーム八王子オリオンズとの試合。
そこに先発として出場した凪乃は、立ち上がりは良かったものの、同じ5年生の藍染にホームランを打たれたことを皮切りにして、一気に大量失点を浴びた。
それは凪乃の野球人生の中でも初めてのことだった。
ショックは相当なものだったのは想像に容易い。
「そうだ。だが、それならわかるんだ。野球をする以上、大敗することも打ち取られることもよくある。それを初めて経験して落ち込むのは凪乃にとっても大事だと思う。だけどだな……………」
監督は腕を組み、難しげな表情を浮かべた。
「ここ数日、凪乃が妙に明るいんだ」
今も凪乃はグラウンドの隅の方で、葵と談笑をしていた。
それは練習試合の前と比べても遜色ないほどに明るく、屈託がない。
いつもの凪乃だった。
「試合が終わってから数日は暗かったのに、ある日から急に元に戻ったんだよ」
「いいことじゃないですか。いい具合に吹っ切れたんじゃ?」
監督は重々しげに首を振る。
「俺も最初はそう思ったんだ。だがなぁ、それを境に、練習態度が変わってしまったんだよ。これまでは文句の一つも言わなかった個別練習を、友達と遊ぶ約束をしたからってキャンセルしたんだ」
「なるほど………」
どうして凪乃がそんなことをしたのか、その理由は俺にはわかった。
というより、俺が作ったと言っても過言ではない。
先週の駅前デートだ。
あの一日を通して、凪乃は友達と遊ぶ楽しみを知ってしまったのだ。
だが、俺が原因だとはとてもじゃないが言えない。
なんとか、うまく取り繕う言葉を探す。
「まぁ、5年生というと、それなりに多感になる時期じゃないですか。凪乃にもそれなりに心境の変化があったんじゃないですか?」
「いくらなんでも変化しすぎているだろう。10年近く、ずっと野球漬けで来たんだぞ?」
それは俺にしても同じだった。
俺と凪乃にとって、野球はこの人生の大半の時間、生活の中心としてあったものなのだ。
「あれだけの練習をこなしてきたから、今の凪乃があるんだ。これからも続けていかなければ、これまでの努力が報われない。ただでさえ、もう地区予選を控えてるというのに………」
「……………」
監督の言うとおりだ。
今は同年代でトップクラスの実力を持っていても、怠けているとすぐに追い抜かされることになる。
だがなぁ……………。
俺は遠くの凪乃の笑顔を眺めながら考える。
凪乃はあの日、きっとそのことも承知で、プライベートと野球を両立するという選択をしたのだろう。
「なぁ健人。お前からなにか言ってやってくれないか?」
「俺がですか?」
「悔しいが、凪乃にとってお前は特別だろう。お前が言えば、凪乃も考え直すかもしれん」
「遊んでないできちんと練習しろ、って伝えるんですか?」
「んん、そこまで言うことは、できんが………」
そう言って、監督は頭を抱え込む。
監督自身、心底悩んでいるようだ。
なにせ、プロを引退してから、凪乃の育成と、プロ球団の監督になることを夢に駆け抜けてきた人だ。
その片側が危ぶまれるとなれば、冷静にはいられないのも頷ける。
「お前だって、凪乃が下手になってくのは嫌だろう」
「そりゃそうですよ。俺たちは保育園の時からの練習仲間なんですから」
だけど、あの凪乃の様子だと、俺が言ったところでどうにかなるものでもなさそうだ。
なんとか、言ってみるしかないか。
その時、ベンチのタイマーが電子音を鳴らした。
監督は立ち上がり、全体に練習再開の声をかけた。
***
そうして、あれこれと上の空になっているうちにその日の練習が終わった。
練習終了の礼が終わるなり、葵が俺の方へ駆けてきた。
「七海さん!これからどうします?」
「ちょっと監督のとこで練習させてもらおうかなって思ってる」
「じゃあ、私もついていきます!一緒に練習しましょう!」
過酷な日曜日の練習を終えても、葵は変わらず元気いっぱいだった。
まだ4年生ながら、体力だけなら俺以上にあるだろう。
才能とは、さも恐ろしいものなのだ。
「じゃあ、私も行くー」
隣で、凪乃が手を挙げた。
凪乃も来てくれるなら、都合が良い。
響くかはわからないが、野球に目を向けさせるために、なにかしらの声かけはできるだろう。
「お前ら、うちに来るのか?」
話がまとまったところで、監督が俺たちのところにやってきた。
「俺も今日はこの後空いてるんだ。練習を見てやろう」
「えっ、おとーさんが?」
珍しいことだった。
監督はテレビの仕事が増えてきたことで、最近は特に忙しくしていた。
凪乃は帰宅後やオフの日にプライベートで練習を見てもらっていたらしいが、基本的に放課後や休日練習後の個別練習は濱北さんに見てもらっていた。
もしかすると、この凪乃の状況をみかねて、無理やり時間を開けたのかもしれない。
「どうせだから、うちでおやつも食べていくといい」
「ええっ、あの豪邸に入っていいんですか!?」
葵は驚きの声をあげて、目をキラキラとさせる。
そうか、葵は遠坂家の家屋には入ったことがなかったんだったな。
「わーい、久しぶりだねー」
俺は、遠坂家で振る舞われたおやつのことを思い返し、お腹をさする。
凪乃のお母さんは、加減というものを覚えたのだろうか。
「葵、覚悟はしておいた方がいいぞ」
「え、なんのですか?」
なにも知らない葵は、不思議そうに首を傾げるのだった。
***
遠坂家の屋内練習場についた時、もう明かりがついていた。
濱北さんがひと足先に来ていたのだろう。
「練習の後だから、もうアップはしなくてもいいだろう」
俺と凪乃、葵はグローブをはめると、三角になって軽くキャッチボールをする。
「今日はなんの練習するー?」
ボールを投じながら、凪乃がこちらに問いかける。
「そうだなぁ」
俺は監督の方をチラリと見る。
「そのことだがな」
監督は切り出した。
「凪乃、ちょっと健人をバッターにして勝負してみろ」
「えっ、七海くんと?」
凪乃は驚いて首を傾げる。
なにせ、あまり監督はこういったこと勝負事を好まない。
実力を引き上げるためには派手な勝負よりも地道な努力だと考えているところがあって、地味な練習をさせるし、それを重要視していたからこそ、ケガを恐れたという理由だけで俺と凪乃の試合の登板数を減らすこともしてきた。
それが、結果的に今回の凪乃の不調を招いたと言えなくもないが。
「勝ったら、ご褒美をやるぞ」
「おやつのお菓子二倍、とかならいらないよ?おかーさん、いつもお友達が来た時食べきれない量出してくるから」
あの癖、まだ直っていなかったのか。
「いや、お菓子で釣ろうってわけじゃない」
「じゃあなに?」
「次の土日に、地区大会があるだろう」
「うん」
「その後、健人と凪乃を遊園地に連れて行ってやろう」
「「「……………えぇえぇえええ〜〜〜ッ!!」」」
俺たちは素っ頓狂な声をあげることになった。
実質、親公認のデートじゃん。
葵がビシッと手をあげる。
「監督っ、私はダメなんですか?」
「凪乃が一緒に行きたいなら、別に連れて行ってやってもいい」
葵の熱い視線が、凪乃に注がれる。
「……………えへへ」
凪乃は、さりげなく横に目を背ける。
こいつ、絶対誘わないな。
「どうだ、乗るか?」
「のる!」
なるほど。
俺は監督の意図が見えた。
俺をダシにして、凪乃を本気を出させようって魂胆か。
凪乃の俺に対する好意を何よりも忌み嫌っていた監督がここまですると言ったのだから、相当な覚悟があってのことだろう。
だが、俺だってあっさりとやられる気は毛頭ない。
いくら凪乃の調子を取り戻すためとはいえ、俺がご機嫌取りのようにわざと負けてやるのは違う気がする。
仮にこれで凪乃が負けてさらに落ち込むことになるとしても、真剣勝負でいくのが誠意というものだ。
凪乃は意気揚々とマウンドに向かう中、監督は捕手用のマスクを被る。
数回、遠坂親子のバッテリーによる投球練習が行われる。
練習の直後だから、凪乃の球は一球目から走っている。
仕上がりはバッチリだ。
俺は荷物から自分のバットを抜いて、バッターボックスに入る。
「七海くん、手加減しないからね」
「ああ」
手加減もなにも、凪乃が俺に手を抜いたことなんてなかったじゃないか。
俺と凪乃はそれこそ数年で数えきれないほどバッティング練習をしてきたが、その場の勝ち負けはあれど俺の実力が圧倒していた。
いくら才能があるとはいえ、相手は小学5年生なのだから。
凪乃は腕をゆっくりと振り上げ、ワインドアップの構えを見せる。
そこからしなやかに身体が動き、凪乃は一球目を投じた。
速球だが、少し内角寄りの甘めのコース。
狙って、俺は大きく振りに行く。
「………ッ!?」
俺の渾身のフルスイングは、ボール2つほど外れて空を切った。
ストライク。
「嘘だろ………」
俺は目を疑う。
さっきの初球。
間違いなく、変化した。
斜め下方向、それもかなりの変化量で。
球種は、すぐにわかった。
「縦スライダー………」
そう。
後楽ギガンツのエースだった、遠坂臙士の現役時代の決め球の一つだ。
その名の通り縦方向のスライダーで、回転により右打者にとってやや外角側に落ちていく変化球だ。
速球寄りの変化球で、ストレートとの判断が難しい。
意表を突かれたのが大きいものの、さっきの凪乃の球も、初速がストレートとほとんど変わらなかった。
相当に投げ慣れてる。
俺は、監督の方を見やる。
「……………」
俺と視線を合わせようともせず、監督は凪乃に向けて返球をした。
なるほど。
黙認というわけか。
そもそも、学童野球では変化球が禁止されている。
加えて、故障を恐れている監督が、肘に負担のかかる変化球を許すはずがない。
だが、今は凪乃のやる気を戻すことを優先して、あえて触れないのだろう。
「次、いくよー」
内心穏やかでない俺をよそに、凪乃は続いて投げ込む。
速球。
それを、俺は見逃す。
ストライク。
「………ツーシームか」
様子見のためにハナから見逃すつもりでいたが、案の定、球はストレートながら、手元で震えた。
まだまだ荒削りで、さっきのは打ちごろの球とも言える代物だったが、普通のストレートとタカを括っていれば、わずかに外されてゴロに終わっていたことだろう。
これはマズいことになった。
どの球を投げてくるかわからない以上、目の前に立つ凪乃は、初見の投手と変わりがない。
それも、予備知識が全くないのだ。
練習中、いくら公式試合で禁止されているとはいえ、よく凪乃と遊び程度に変化球の練習をしたことはあった。
だが、俺の見ていないところでここまでの状態に仕上げてくるとは。
やはり凪乃は、親の願いだからという理由でないところで、野球に対して、少なからずの情熱を持っていたのだ。
今は、一体どうなのだろうか。
続く三球目は一球外すチェンジアップ、四球目はいつものストレートだったが、厳しいコースのためチップしてファールに持っていく。
1ボール2ストライク。
次の球はなにでくるのか。
まさか、これまで縦スライダーなんて特殊な変化球だけを一生懸命練習した、なんてこともあるまい。
絶対に他の変化球も持っている。
マウンドの凪乃は、監督と投球サインのやり取りをしているが、何度も首を振っている。
おそらくは、監督はいつも通りの投球をさせたいが、凪乃は変化球を投げたいのだろう。
だがある時、凪乃は頷いて、自信気な笑みを浮かべた。
あの笑顔はどういう意味なんだ?
凪乃は投球フォームに入る。
だがその間も、凪乃の笑みが離れない。
ボールが彼女の指から離れるその瞬間、俺はハッとした。
放たれた球の軌道を、俺は目で追う。
予想通りだ………!!
ボールの曲がった先へ合わせ、渾身の力で、俺はバットをフルスイングする。
球はバットの真芯を喰う。
「……………ッ!!」
慌てて、凪乃は振り返り、球の軌道を見つめる。
弾き返されたボールは、勢いよくセンター方向へと飛んでいった。
「……………ホームランだな」
練習場の天井ネットにボールがぶつかるのを見届けて、呟くように監督はそう言った。
勝ったのだ。
俺は胸を撫で下ろした。
別に、凪乃とデートがしたくないわけじゃない。
小学生相手に打ち取られなかったことに、安堵したわけだ。
負けを期した凪乃は、トコトコと俺の方へ歩み寄ってくる。
「七海くん」
「なんだ?」
「どうして、私がスライダーを投げるってわかったの?」
そう。
五球目、投げたのは、外角のスライダーだった。
サインに頷き、笑みを浮かべた時、俺はその笑みの理由を探っていた。
その時浮かんだのは、あのギガンツのユニフォームを着ていた頃の遠坂臙士の投球だった。
前世の時何度もテレビやネットで見かけた、遠坂投手の活躍。
俺も試合の投球を何度も見てきた。
その中で、本気で相手を揺さぶり、三振を奪いにきた時の決め球。
それがスライダーだったのだ。
だが、それは今は言うまい。
「まぁ、長い付き合いだからかな」
「そっかー」
その言葉だけで凪乃は納得したようで、それ以上は聞いてこなかった。
「あーあ、負けちゃったー」
凪乃はグローブを外して、困ったような笑みを浮かべた。
だが、その時、俺は凪乃の変化に気づいていた。
表情が、いつもよりも緩いのだ。
練習とはいえ、俺相手でもホームランを打たれるとむくれたような表情を見せた凪乃が。
俺は監督の方を見る。
険しい表情を見るなり、監督もまた、同様のことを考えているようだった。
それからは一通り軽く練習をして、お開きとなった。
「健人」
帰り際、俺は呼び止められた。
「やっと決心がついた」
「なんのです?」
監督は腕を組み、少し押し黙っていたが、やがて渋い表情で口を開いた。
「健人。次の地区大会、お前がエースだ」
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