第六話 幼少期(5歳児クラス) その5
「す、すげぇ…………」
思わず声が漏れてしまう。
目の前に建っていたのは、テレビで見るような豪邸だった。
高い塀に囲われた門をくぐると、青々とした芝生の庭を進んだ先にそれがある。
建物は白塗りの三階建てで、デザイナーの趣向かニ階は一面ガラス張りになっている。テラスの先には大きなプールもあった。
凪乃の家に遊びにいく約束をしてから、次の日の土曜日にはそれが実現する流れになった。
「でも、まさか凪ちゃんが友達を連れてくる時が来るとはねぇ」
凪乃のお母さんは上品に微笑む。
俺は凪乃たちと横並びで歩きながら、そのお母さんの方にドギマギしていた。
夏鈴が俺に耳打ちをしてくる。
「ねぇ、やっぱり実物を見るとオーラがすごいわね」
「そうだな………」
俺は深々と頷く。
そう。
彼女の母親は、かの有名タレント、綾瀬可奈だった。
整った目鼻立ちと白い肌は年齢をまるで感じさせず、後ろに束ねられた髪はコンディショナーのCMにも出れそうなほど艶やかだった。
彼女はグラビアアイドルでデビューをして、そこからバラエティ番組に出演をしていたタレントで、おっとり系のキャラクターが世間に受け、いっときはテレビで見ない日はないほどの人気ぶりだった。
彼女がよくバラエティ番組に出演していたのは10年程前だったが、今でもその容姿は衰えずに輝いている。
お母さんが俺の顔を見て微笑む。
「あなたが七海くんなのね。凪ちゃんからよく話は聞いていたわ」
凪乃とはかれこれ3歳児からの付き合いだったが、お母さんに出会うのは初めてのことだった。
凪乃の方がお迎えの時間がいつも遅いため、会わずじまいだったのだ。
「でも、こんなに可愛らしい男の子だったなんて」
お母さんが俺の頭を撫でる。
「よかったら、うちの息子にならない?」
「えっ!?」
横にいた鈴音が声を上げる。
「ダメだよぉ。きょーだいになったら、ななみくんとけっこんできなくなっちゃう」
「ふふふ、凪ちゃんは七海くんが大好きなのよねぇ?まぁ、結婚してもうちの息子になっちゃうから、それでもいいわねぇ」
エントランスから廊下を抜けて、広間についた。
「さぁさぁ、まずはおやつにしましょうか」
広間の中央にある、大きなテーブルの席へ俺たちを誘導する。
「嘘だろ……」
そこに広がっていたものに、俺と夏鈴は言葉を失う。
テーブルの上に広がっていたのは、チョコレート、マカロン、クッキーにマドレーヌ。ポテトチップスやら煎餅やら袋菓子はお盆に山盛り。
ケーキは数えただけで8種のビュッフェ方式、おまけにプリンや杏仁豆腐まであった。
俺たちを席に座らせると、凪乃母は両手を合わせて頬に添えた。
「たっくさん食べてねぇ」
たっくさんて。
俺たちの図体では、おおよそ1週間かかっても食い切れない量だった。
「今日、凪乃の誕生日なんですか………?」
「いいえ、平日よ?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
まるで何一つ不自然なものなどないかのように。
「じゃあまさかここ、スイーツパラダイスの支店だったり?」
「立地悪すぎでしょう」
「もしかして俺たちをぶくぶく太らせて食ってしまうつもりじゃ………」
「ヘンゼルとグレーテルの魔女じゃないんだから」
凪乃母は訝しげに俺の方を見ている。俺が何かおかしなことを言っているとでも言いたげな様子で。
だが少しして、彼女はハッとして、パチンと手を叩いた。
「もしかして七海くん、初対面だから、私と打ち解けようと小粋なギャグをかましてくれたの!?」
「おやつのりょうがおおすぎて、ふつーにこまってるんだとおもうよ〜」
「そうなの!?」
凪乃の冷静な言葉に、母は驚天動地の面持ちで数歩のけぞる。
「少ないと困るかなと思っていっぱい用意したのだけれど、多すぎるのもかえって困らせてしまうのね」
独り言のように、彼女は呟く。
「『過ぎたるは及ばざるが如し』と言うけれど、やはり先人の教えは偉大ね」
「あはは……………」
別に先人の教えがなくとも、常識の範囲で分かりそうなものだけれどな。
凪乃も抜けたところがあるが、どうやらこれは母親譲りのようだ。
そうして、俺たちはこの豪勢極まりないおやつにありつくことになった。
普段は市販の袋菓子くらいしか口にしていない俺に取っては、やはりこれはうれしい。
隣の夏鈴も同じようで、彼女にしては珍しく、
シュークリームを頬張り、ショートケーキに手を伸ばす間も、凪乃母は俺の挙動全てを微笑みながらトラッキングする。
まるで愛玩動物でも眺めているようだった。
「落ち着かないわね」
隣の椅子に座る夏鈴が、俺に耳打ちしてくる。
「なぁ、保育園の友達のお母さんとの談笑って、どうやってするんだっけ?」
「知らないわよ。私だって、前世の園児の頃の記憶なんてないんだから」
無邪気な園児なら、なにも考えず適当な質問をぶつけていただろうが、なまじ知性を持っているばっかりに、無難な会話にならなさそうなものは、無意識がストップをかけてしまう。
5歳児らしく振る舞うというのは、案外難しいものだ。
「なぁ、適当に会話繋いでくれよ」
「どうして私が」
「俺には無理だ。元々そんな社交的な方じゃなかったから」
それに、話す相手があの綾瀬可奈だからな。美人を目の前にすると、余計に緊張してしまう。
もう、仕方ないわね、と彼女は小さく呟き、やれやれと首を振る。
そして、凪乃母の方へ向き直った。
「お母様」
「どうしたの、夏鈴ちゃん?」
「お母様は、日本経済の行末についてはどうお考えですか?」
コミュニケーション下手か!
俺は心の中で叫ばざるを得なかった。
なに園児がお茶会に経済談義持ち込んでるんだ。
あらゆる意味合いでミスってるだろう。
俺は冷や冷やしながら凪乃母を見ると、彼女は悩ましげに首を傾げていた。
「うーん、植田総裁のインフレ政策は評価するけれど、企業が内部留保を繰り返して、一向にトリクルダウンが起こらないことには懸念してるわね」
ちゃんと答えるのかよ!!
なんだよトリクルなんちゃらって。
「そうですよね。経済活性化のためには、日本の社会構造を鑑みた政策の考慮が必要ですよね」
園児からはまず出ないであろう返答を平気でする夏鈴。
二人は謎に意気投合したようで、話題は経済談義から政治、さらにはくだらないゴシップネタへと変わっていき、結果的には盛り上がっていた。
俺と凪乃はそんな二人をよそに、豪華なおやつを楽しんでいた。
「それにしても」
話が一区切りつき、紅茶を飲んで一息ついた凪乃母は言った。
「夏鈴ちゃんって、園児とは思えないほど博識なのね」
今更かよ。
というか、その程度の認識で済んでいるというのもかえってすごいが。
「こいつ、前世が渋沢栄一なんです」
隣の夏鈴が顔をしかめる。
「私の前世、あんなおじさんだと思ってたの?」
「冗談だよ」
そんな時、ドタドタと奥の方から騒がしい足音が聞こえてきた。
その足音は段々と近づいてきて、ある時この大広間のドアがけたたましく開かれた。
「凪乃が男を連れてきやがったのか!?」
第一声そう言い放った男は、ドタドタとまた騒がしい足音を響かせ俺たちのテーブルに近づいてくる。
「あら、どうしてわかったの?」
「玄関に男児ものの靴があったからな」
盗人を追う警部のような荒々しさで周囲を確認する、筋肉質で高身長の男。
ハイブランドのロゴの入った黒のシャツにジーンズ、腕には金の腕時計をはめている。
この男こそ、俺が会いたかった、遠坂臙士だった。
遠坂臙士は俺の姿を確認すると、俺の目線までかがみ込み、近距離で思い切りガンを飛ばした。
「お前ェ、誰だ?」
ドスのきいた声で、ヤクザさながらの睨みをきかせてくる。まるで猛獣に目をつけられたネズミのように、俺は小さい身体を震え上がらせる。
「この子があの七海くんよ」
「なにぃ〜〜っ!あの七海って奴かっ!!」
まるで眼前で爆竹でも破裂したかのように、遠坂臙士はダイナミックにのけぞる。
そして、その勢いそのままに、振りかぶって俺を指差す。
「家族の楽しい団らんどきに、満面の笑みで凪乃からお前の話を聞かされる俺の気持ちが、お前にはわかるか………?」
「な、なんとなくは……………」
要は、娘の初恋を奪われて、嫉妬に狂っているということだろう。
「俺の可愛い凪乃に恋心を芽生えさせるたぁ、いい度胸してるじゃねぇかぁっ!!」
いやいや。勝手に好きになられてるのに、度胸もなにもないでしょうに。
俺は抗議したかったが、とてもじゃないがそんなことを言える状況ではない。
「せめてお前が現れるのが5年後なら、『将来はパパと結婚する!』って言葉を聞くことができたのに!!」
まぁ、凪乃とは三歳児クラスの時から一緒だからな。
なかなかに騒々しい父だったが、これもいつものことなのか、凪乃も凪乃母も平然としてスイーツを口に運んでいた。
怒りもひと段落ついたのか、やがて遠坂臙士は値踏みをするように、俺をじっくりと眺め出した。
「とはいえ、器量はいいものの、それ以外は普通のただの坊主のようだが………」
「ななみくんも、やきゅーがとってもじょうずなんだよー」
「なにっ!?凪乃をたぶらかすために野球を!?」
「………偶然の一致です」
なんとか、それだけ俺は答えた。
遠坂臙士は、難しそうな顔でうんうんとなにやら独り言を呟いている。
愛娘を持つ父親の気持ちというものは、人生が2度目でもよくわからない。
と、ようやく静けさが戻ったところで俺は我に帰る。
そうだ、俺はこの人に用があってここに来たんじゃないか。
「あの…………」
「ん?なんだ坊主」
「あの、俺、遠坂選手のファンなんです」
「なにっ!?俺のファン!?」
これまたダイナミックに、遠坂臙士はのけぞる。
「俺のピッチングを、見てもらえませんか?」
「むむむ……………」
歯軋りをして俯きながら、拳を顎に当てて考え込む。
「恋敵が俺のファンというのは、なんとも複雑な心境だな………」
それからはまたボソボソと独り言を続けていたが、やがて納得したように頷いた。
「まぁいい。園児にピッチングなんてまだまだ早いが、ちょっとしたアドバイスくらいならしてやろう」
やった!
俺はガッツポーズをとる。
元プロ野球選手、それもトップ選手から直接手解きを受けれるとなれば、成長の速度がかなり違ってくる。
なんとしても、ここで認められて、俺も凪乃と同じように教えてもらえるようにならなければ。
「裏に俺と凪乃の練習場がある。そこへ行こう」
「わたしもいくー」
「わ、私も!」
凪乃に続いて、夏鈴も慌てて立ち上がる。
「あらあら、みんな野球が大好きなのね〜」
凪乃母は相変わらずののんびりした様子で、園児たちに手を振り見送るのだった。
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