第二十四話 少年期(小学5年生) その17


地区大会の準決勝は、思いもよらない窮地に立たされていた。


4回裏にして、カルムズはファイターズ相手に、0対2の劣勢だった。


カルムズの攻撃は、1アウトでランナーは1塁。


打席に立つ3番打者の6年の男の子は、うちのチームの中でも堅実に打てる。


ここでヒットを打って4番の俺に繋いでくれたら、逆転も見えた。


だが、3番の子が打った打球は、ショートの正面へのゴロだった。


ショートが捕球すると、セカンドに下投げで渡し、セカンドがファーストに送球する。


「アウト!」


ゲッツーだ。


スリーアウト、チェンジ。


「ダメかッ!」


監督が、拳を膝に打ちつける。


これまで監督の下で野球をしている中でも、見たことがないような焦りようだった。


その分、ベンチは緊張に包まれる。


打てそうなのに打てない。


莉里の奇妙なピッチングに翻弄されている。


この回も、ノーヒットに抑えられてしまった。


五回表の交代の時、すれ違いざまに、莉里はまた俺に視線を送る。


「なぁ」


目が合った時、俺は声をかける。


すると、莉里は目を大きくして、立ち止まった。


「お前、保育園一緒だったろ」


「……………」


時が止まったかのような静止。


そこから、ゆったりと口元が動き、頬が赤らむ。


莉里の顔に浮かんだのは、ある種ぞっとするような、恍惚とした笑みだった。


「思い出してくれたんだぁ〜♡」


分厚い好意のオーラが、まるで威圧のように俺に飛んでくる。


俺は思わずのけぞる。


「リリ、信じてたんだ。野球を上手くなったら、こうやって七海くんがリリのこと見てくれるって」


「えっ………?」


こいつまさか、俺に近づきたいがために野球を始めたのか?


「保育園のとき、あの凪乃って子とばっかり野球してたでしょ?リリも近くでキャッチボールしてたのに」


確かに、保育園の時、俺は凪乃と毎日キャッチボールをしていた。


当時はモテのオーラをコントロールできていなかったために、保育園中の女の子が俺の気を惹くために、俺と凪乃を囲うように球拾いをしたり、俺と遊ぶためにキャッチボールの練習を始めたりと、騒ぎになっていた。


そうか。


あの輪の中に、莉里もいたということか。


「あの頃はあいつの方が上手かったから、それも仕方ないかなって思ってた。でも、今はもう違うよ。リリ、キャッチボールもバッティングも、すっごく上手になったから」


審判が俺たちの元にやってきて、早く立ち位置に着くように注意をする。


周囲を見ると、もうカルムズの全員が守備の位置についていた。


「おい、早く戻ってこい!」


ファイターズの監督も莉里に向けて声を上げる。


だが、それらのことを、まるで認識すらしていないかのように、莉里は振り向きすらせず俺から目をそらさない。


「なぁ、そろそろ戻らないと………」


「今日の試合で教えてあげるね。七海くんと一緒に練習するのは、あいつよりもリリの方がいいって」


ようやく、莉里は俺から目を離し、ベンチの方へ戻っていった。


身構えるような変な緊張感から、ようやく解放される。


………嫌に疲れてしまったな。


バッターボックスには、もう打者が立っていた。


俺はマウンドに立って、深呼吸をする。


振りかぶって、一球を投じる。


バッターは振り遅れて、ストライク。


そのまま、三球三振で打ち取る。


球はしっかりと走っている。


大いに心を乱されたが、投球には支障が出なくてよかった。


そうして、俺は三者立て続けに三振を取って、無事守り切った。


これでファイターズのいい流れは、一旦止めることはできただろう。


続く5回裏は、4番の俺からのスタートだった。


「……………」


俺はマウンド上の莉里を見つめる。


さっきの会話で、莉里の印象は大きく変わってしまっていた。


そして、ようやく莉里の野球のスタイルにも合点がいった。


一球目、案の定球はぶれて緩やかに変化する。


外角のストライクゾーンに吸い込まれていく初球を、まずは見送る。


ストライク。


「……………」


遠くの莉里の口元が動く。俺の名前を囁いているのだろう。


莉里のこの投球について、濱北さんはワザとではなく単なる癖だと言った。


中学に上がれば普通に変化球が投げられるようになるのに、無駄なことをする道理はないと。


だが、俺はこの癖の強い投球は意図的なものだと確信している。


何故なら、莉里の目的は野球を通して俺に注目してもらうこと、その一点のみだからだ。


二球目も同じく変化がかかるが、外角に外れすぎてボール球となる。


1ボール1ストライク。


この変化も、彼女の小さな身体でできる最大限の工夫だったのだろう。


球速は体格に大きく依存するため、努力だけではどうにもならない部分もある。


だが変化球であれば、周囲は試合で投げることができず、大きくアドバンテージを取れる。


だからこその、癖が強いだけのように見せかけた投球。


あの洗練されたバッティングも、注目を集めるために飛距離を鍛えたのだろう。


普通に安打を出すだけでは目立つことができないから。


驚くほどの、合理性。


そして、恐ろしいまでの執念。


三球目はもう一球外しにくる高めの球、のように見えた。


だがそれは半ばで急に変化が始まり、内角寄りに斜めに落ちていく。


「ストライク!」


気づけば、ストライクゾーンギリギリに収まっていた。


思わず俺は審判の方を見る。


今の、絶対意図的にかけてたぞ。


だが審判にその意思は伝わらず、プレイは続行される。


さっきの一球は、投球フォームでは判断できないほど、自然な形のシンカーだった。


そんな球まで投げられるとは。


だが、この5回にきて、ようやく俺は平常心を取り戻しつつあった。


莉里は微笑のまま振りかぶって、全身で投げる。


外角寄りの変化。


狙っていた、ナチュラルスライダー。


俺は上げた足を前方向に突き落とし、重心を移動させる。


確かに、最初は見慣れない変化に驚きはした。


だが、一度高校野球を経験している俺にとって、その程度のスライダーは、ただの打ち頃の球でしかないんだ………!!


思い切りスイングした金属バットが、緩やかなスライダーを真芯でとらえる。


つんざくような金属音。


白球はレフト方向上空へ弾き飛ばされる。


遥か遠くを飛ぶそれを、もはや相手の守備も追いかけない。


打球は軽々と、レフトの先のネットを超えた。


ホームラン。


「やりましたね、七海さん!」


カルムズのベンチから歓声が上がる中、葵が一際大きく手を振る。


ホームランのため、俺はゆったりと小走りで一塁から二塁へ走る。


そして三塁を過ぎた時、莉里の方を向く。


保育園の頃あれだけ気の強かった莉里がどんな表情で悔しがるのか、気になったのだ。


だが、莉里が見せたのは、思っていたものとは大きく違っていた。


それは、まるで打たれたことを喜ぶかのような、うっとりした恍惚の笑みだった。


俺がホームベースを踏んだ時、莉里は唐突にこちらへ歩み寄ってくる。


そして、俺の耳元でこう囁いたのだった。


「さすがだよ、七海くん…………♡」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る