第七話 少年期(小学5年生) その1
真っ黒な黒板にチョークをぶつける音が、静かな教室に響いている。
中年の男性教師が小数の割り算の説明をする中、生徒たちはノートと黒板を交互に見ながら、黙々と板書を続けている。
「じゃあこの問題、解ける子はいるかぁ?」
挙手を求められるが、当然誰も手をあげない。目立ちたがり屋にとっては格好のタイミングだったが、この中年教師はかなり厳しいから、ふざけようものなら怒号が飛んでくることになる。
立候補が出ないことがわかると、教師はパラパラと出席簿をめくる。
「それじゃあ今日は24日だから、24番目………七海、どうだ?」
呼ばれて、俺は立ち上がる。
黒板の前まで移動すると、黙々と問題式の下にチョークで数字を埋めていく。
書き終えてチョークを置いたとき、中年教師は一度頷いた。
「正解だ。初めてなのによくわかったな」
当然だろう、と俺は思う。
だって、初めてじゃないんだから。
俺は席に戻るために、振り返る。
そして教壇の上からクラスの顔ぶれを見回すと、そこには恋心に悶えて胸をときめかせる女の子たちと、羨望と嫉妬の狭間でやきもきする男子たちの苦しみにも似た表情が教室中に広がって……………
いなかった。
席に戻ると、隣の席の女の子が耳打ちをしてきた。
「案外時間かかったじゃない。もしかして、解き方忘れちゃってた?」
「馬鹿言え。小五の問題だぞ」
夏鈴は悪戯げにクスクスと笑い、ツインテールの髪を撫でた。
昔と比べれば随分背も伸びたが、クラスでも比較的低い。
だが、そんな見た目とは裏腹に、彼女は出会ってからのこの数年で、同年代の女の子では持ちえないほどの大人の魅力を纏うようになっていた。
それは意図的なものじゃなく、ごく自然な立ち振る舞いや所作、会話の節々から滲み出るのだ。
きっと、賢者は隠れていてもその知性から周囲に見出されてしまうように、彼女もまた前世から積み重ねてきたものが隠しきれないのだろう。
6限目を終えるチャイムが鳴る。
起立と礼を終えて、ホームルームが始まる。
周囲が明日の予定やら連絡事項、宿題なんかを書き写す中、俺は連絡帳を書き写す代わりに、計算ドリルを書き写していく。
家での自由時間を確保するためだ。
ほとんど片手間で小数の割り算を解いていく中、俺は過去のことを振り返る。
夏鈴が能力や魅力を隠しきれていないのは、自然なことだった。
別にその必要がないし、彼女自身隠せていないことに気付きもしていないだろう。
だが、俺は違う。
小学一年生のことを思い返すと、今でも頭が痛くなる。
俺の通うことになった一年一組には、同じ保育園の子が数人いた。
彼女たちは当然俺のことが好きだったし(自信過剰に聞こえるかもしれないが、事実だから仕方がない)、保育園でのことがあったから、俺に対するアプローチも周囲を見ながらの、ごく常識的なものだった。
だが、大多数の女の子たちにとっては、俺と出会うのが初めてだった。
彼女たちにとって、初めて見た俺の存在というのは、突如目の前に現れた白馬の王子か、あるいは突然降ってきた100カラットのダイヤのようであったに違いない。
結果、クラスは一種狂乱に近い様相となった。
保育園の時とは違い、ある程度の社会性も身につけ口達者になった彼女たちは、俺を取り合うために、血で血を洗うようなドロドロの争いをすることになる。
嫉妬、歪み合いは当然のこと、無視や暴言、さらにはいじめの問題も起き始める始末。
まさしく、女の怖さを凝縮したような光景だった。
しばらくして彼女たちは、個人で奪い合うことに区切りをつけて、いくつかの集団に分かれて、徒党を組んで争うようになった。
そして最初は蚊帳の外だった男子たちも、その殺伐とした雰囲気に触発されて、特に理由もなくお互いに争い始めることになる。
その結果、クラスは1ヶ月後には完全な学級崩壊状態となった。
担任の30代の女性教師はすっかり病んでしまい、半年で担任が交代することとなったが、こうまでなったのは、彼女の統率力や技量の問題じゃないということは、ここでフォローしてあげたい。
そんななかを、俺は当事者として立ち会いながら、一種の集団心理の実験にも似た様相に、強い危機感を抱いた。
これ、本格的にヤバいんじゃないか?、と。
今はクラス内での取り合いで済んでいるが、これから年齢が上がり、関わる人が増えていけば、自然と取り合う人口も増え、派閥や集団も増える。
そうなれば、最悪俺を取り合って、戦争すら起きかねない。
(冗談じゃなくて本気で言っている。マジで)
これが、転生時の特典ポイントをモテに全振りした結果なのだ。
早期になんとかしなければ、俺は平穏に生きることすら危うくなる。
唯一の救いは、そんな狂った状況の中でただ唯一、結城夏鈴がこの影響の外にいたことだった。
幼なじみであると同時に、俺と同じ転生者である彼女は、俺の状況をわかってくれる唯一の理解者だった。
俺は彼女と相談して、対策を練ることとなった。
そして時間をかけて、俺はついに魅力のオーラを抑える術を会得した。
それでもまだ抑えきれてはいないので、今でも時折告白されるものの、それもまぁ、常識の範囲内だ。
そのようにして、俺は再び平穏な日々を享受できるようになったのだった。
ホームルームが終わり、席を立つ子がちらほら出る中、夏鈴が横から俺の顔を覗き込んだ。
「物思いにふけって、どうしたの?」
「いや。小一の頃にお前がいなかったら、俺は今頃とんでもないことになってただろうなって」
「最悪死んでたわね。熱狂的信者に殺されるカルト教祖みたく」
大袈裟とも言えないところが、この問題の怖いところだった。
「もっと感謝してほしいわ。あの時貴方に付き合ったおかげで、当初組んでいた学習予定を遅らせることになったんだから」
「感謝してるよ」
夏鈴は俺には話そうとはしないが、今回の人生において、綿密な計画を練っているようだった。
賢い彼女なら、そうするのが自然な気もする。どちらかというと、二回目だというのにのんべんだらりと生きている俺のほうが変わっているのかもしれない。
「それで、今日はどうするの?私は図書館に行くけれど、一緒に来る?」
「いや、今日は学校が終わったら家に来いって監督が言ってるから」
「練習の日でもないのに?」
彼女は少しばかり不満そうに眉をしかめたが、やがてなんでもないように表情を戻し立ち上がった。
「別に貴方の人生だから好きにすればいいけれど、せめて小数の割り算くらいすらすらと解ける程度には勉強したほうがいいわよ」
「だから、忘れてないって!」
「どうだか」
立ち去っていく夏鈴の姿を不思議に思いながら眺める。
今日は妙につっけんどんだったな。
もう出会って5年になるから、それなりに人となりはわかったつもりではいるけど、時々まだ読めないところがあるんだよな。
それからは、一度俺は家に帰り、グローブを自転車に積み込んで、再度出かけた。
向かう先は、凪乃のあの豪邸だった。
「あ、七海くーん」
豪邸の一角にある練習場に着くと、マウンドの方で凪乃が遠くから手を振る。
俺も手を振りかえして、マウンドの区画に入る。
凪乃は今、俺と夏鈴の通う公立ではなく、地域でも一番の私立の名門小学校に通っている。
そのせいか、会うたびに夏鈴以上に成長していくのを感じる。
凪乃はもう成長期に入っているのか、身長は145cmほどで、今の俺よりも3cmほど高い。
それに幼さが抜けて目鼻立ちも整い始め、美人の母親の面影を感じるようになった。
「練習日でもないのにどうしたの?」
「監督に呼ばれたんだ。話があるとかで」
「なーんだ。遊びに来てくれたんじゃないんだー」
凪乃はそう言って、後頭部に結んだポニーテールのゴムを引き締める。
その拍子に張ったシャツの胸の膨らみに、俺は目がいってしまう。
いやはや、まったく。
最近の若いもんは、発育が良いというか……………。
………って、いかんいかん。
完全にアブナイおっさんの目になっていた。
相手はまだ小学生じゃないか。
「よぉ坊主、来たか」
そんな邪な感情に振り回されていた時、監督が姿を現した。
遠坂臙士は、40を過ぎて貫禄が見え始めていた。
最近ではラーメン屋の経営を従業員に任せ、俺たちのチームの監督業に精を出しながら、合間にポツポツとキャスターの仕事も受け始めていた。
おそらく、後楽ギガンツの監督になるための布石なのだろう。
「早速だが、俺の部屋に来てくれ」
「私も行っていいー?」
「凪乃はダメだ。男同士の話だからな」
「えー。じゃあ、七海くん、後で一緒に練習しようね」
「ああ」
俺は監督についていき、遠坂邸に足を踏み入れる。
敷地内の練習場は毎週使わせてもらっているが、この遠坂邸に入ることは最近ではほとんどなかった。
2階の監督の自室に入ると、ソファにかけるよう指示された。
「早速だが、お前は今のチームについてどう思う」
「カルムズについてですか………」
俺たちのチーム『高円寺カルムズ』は、俺と凪乃が小学1年生に上がると同時に結成され、今年で5年目を迎える。
「結果は出していると思います。最近じゃ部員も増えたし、もっと上を目指せる環境ができてきた」
「そうだな」
カルムズは、遠坂臙士の知名度も味方して続々と部員が加入し、新興のチームながら激戦区東東京の大会で、去年ベスト4という上位の成績を収めた。
結成から間もないことを考えると、十分に快挙と言えるだろう。
「でも、本来の実力を出していない、という気がします。監督があまり狙っていないようにも思える」
「そう見えるか」
それは、この数年ずっと感じていたことだった。
俺と凪乃を、公式戦で絶対に主軸としては使わないのだ。
練習を積んだ6年生と比べ、実力が不足していた3年生までは、まだそれも納得できた。
だが、4年生になると、明らかに6年生の他ピッチャーたちとでは実力差が出始めた。
試合では、先発と抑えで凪乃と俺のどちらか、あるいは両方が起用される。
だがそれも2イニング程度で降ろされて、他のピッチャーに交代させられるのだ。
その日、どれだけ調子が良くてもだ。
「それは、俺がお前や凪乃を起用しなかったことを言っているんだろう」
「はい」
俺の返答に、監督は少し考え込む。
「お前は、昔から頭の回る変な奴だった」
監督はじっと俺の目を覗き込む。
「どうして俺がそうしたか、わかるか?」
「おそらくは、俺たちの身体の負担を最小限にするためでしょう」
コクリと監督は頷いた。
遠坂臙士という投手は、肘の故障によって選手生命を絶たれることになった。
それがあってか、普段の練習でも、怪我のリスクを非常に気にするところがあった。
練習の際の指導は厳しいものの、全日練習といったハードな内容はこれまで一度もしたことがない。
「俺は凪乃や、凪乃のバーターであるお前に、故障のリスクを負わせることをずっと恐れてきた」
「バーターですか………」
なんともひどい言われようだった。
「だが、俺が日和すぎた結果、凪乃はその実力に見合った注目はされず、世間に埋もれさせてしまうことになった」
確かに、それは俺も思っていたことだった。
俺や凪乃は、学童野球の選手の中で、明らかに突出した実力を持っていた。
それは、今テレビ番組に紹介されているような同年代の野球少年たちと比べても、まったく引けを取らない。
競技人口からして、女の子である凪乃は特に、その実力が認められるに値するだろう。
だが、カルムズが地区大会で敗退してしまい、目立った成績を残していないことに加え、俺たちの出場回数も少ないために、世間の注目が集まらなかったのだ。
「これまでのカルムズの方針を、変えたいと思ってる」
「どうしてまた急に?」
「これだ」
監督は、ホッチキス留めされた資料を俺に渡した。
見ると、企業が出した企画書だったが、俺が読解できることはわかっているため、ルビ打ちもされていない。
この企画書の概要を理解したとき、俺は興奮して叫んだ。
「Uー12の野球世界大会ですか!?」
「ああ」
世界大会。そんな規模のチャンスが、このタイミングで転がっているなんて。
「こいつに、凪乃が選出されるようにしてやりたいと思ってる」
企画書を読み進めていくと、その選抜方法はどうやらスカウトによる選出が第一で、そこから合同練習を通して最終メンバーが決められるようだった。
「こいつに選ばれるためには、大会を勝ち上がっていって、凪乃の実力をスカウトどもに認めさせる必要がある」
「なるほど………」
「そのためにはお前と凪乃の登板が必要になる。だが、それだけじゃ足りない。いくつか秘策も考えているところだ」
確かに、カルムズは強豪チームにはなった。
優勝できるかというと難しい話だし、それは俺や凪乃が全力で登板したところでも危うい。
何せ、野球はチームスポーツなのだ。
監督は拳を握りしめて、こう高らかに宣言した。
「地区予選を勝ち抜いて、全国大会に出場する!それが今年の目標だ!」
全国大会。
それはどこか、これまで目指していたようで、遠いもののようにも思っていた。
「そのために、お前にもより実力をつけてもらう必要がある。これからはチームの練習日と日曜以外、うちの練習場に来て欲しい。できるか?」
「はい!」
二つ返事で俺はそう答える。
全国大会に出れば、俺のピッチングも評価されることになる。
そうなれば、選考の対象となるのは、凪乃だけじゃない。
世界大会の日本代表に、なれるかもしれない。
そんなことになれば、日本中のスカウトたちが俺に注目するだろう。
そうなれば強豪校からの推薦もよりどりみどりだろうし、甲子園だって十分に見えてくる。
面白くなってきたじゃないか……………!!
これまでの人生では考えられなかった可能性に、俺は胸を躍らせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます