第13話

 でもそんなリーディの心中も知らず、理佐が無邪気に言う。

「お兄ちゃん、今はまだこの国を出るつもりはないでしょう?」

 自分が狙われていると改めて聞かされても少しも動じた様子が見えないのは、やはり兄への信頼からだろう。

 年よりも幼く見える顔に笑みを浮かべながら、理佐は言う。

「だって、リィと離れたくないもんね?」

 その言葉を聞いた途端、今まで飄々としていた兄の顔が険しくなった。

「湊斗、本気か?」

 アンドリューズの声は真剣だった。

 急に張り詰めた空気に、言い出した理佐が戸惑っている。

「……兄様ったら、そんなに本気で聞くようなことじゃないわ」

 縋るような視線を理佐に向けられて、リーディは兄に注意を促した。

 理佐にしてみたら、ただ湊斗をからかうような気持ちだったに違いない。だから予想外の事態に一番戸惑っているのはきっと彼女だ。

 アンドリューズもすぐにその様子を察したようで、緊迫した空気は瞬時に消え失せた。それでも深く考え込んでいるような兄の様子は、理佐ではなくても気にかかる。

 気まずい雰囲気が続いた。

 視線を落としてみれば、窓から差し込む光は少しずつ傾き、足下の影が伸びていた。

 すっかり侍女の生活に慣れてしまったのか、夕食の支度をしなければと少しだけ考えたが、今はそんな状況ではないだろう。

 ずっと続くように思えた沈黙を破ったのは湊斗だった。

「もし、本気なら」

 まっすぐにアンドリューズを見据えているその目は、どんなに言葉を尽くしても考えを変えることは難しいかと思うくらい、決意に満ちている。

「王城の侍女なのだから、リーディも貴族の女性だろう? もし俺が本気だったら、それは叶えられるのか?」

 静かに問うその声は感情を抑えている。

 それでも、そこに宿る情熱までは隠し通せない。

 さすがのアンドリューズも、すぐに返答できないくらい真剣な声だった。

 地方出身とはいえ貴族の娘で、しかも両親がもういないと告げたのだから、その保護者は兄になる。

 だからこそ、湊斗は真剣に尋ねているのだ。

 好意ならば、感じていた。

 それでもあの漆黒の剣士が、最強と呼ばれる剣士がそれだけの想いを向けていてくれる。

 それに深い感動を覚え、同時にいくら事情があるとはいえ、これほどまでに真摯な想いを向けてくれる相手を偽り続けるのは、卑怯な行為だと心が痛む。

 彼の言うように婚約者はいる。

 しかも、このセットリアの国王なのだ。

 それでも、もうあの時のように、恋をするだけ無駄だなんて言えない。

 この想いの先に、辿り着いてみたいと初めて思う。

 それでも未来のない恋に、彼を縛り付けることはできない。すべてを話し、謝罪してここを去ろう。

「私は……」

 そう決意して口を開いたリーディを制止したのは、兄のアンドリューズだった。手を伸ばして妹の身体を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。

「……兄様?」

 突然の抱擁に驚いて顔を上げると、湊斗にも劣らないくらいに真剣な顔をした兄の姿があった。

 兄にも、何か考えがあるのだろう。

 それを察して言葉を留める。

 真実をそのまま伝えるのが、相手のためとは限らない。

 リーディとは比べものにならないくらいに場数を踏んでいる兄ならば、最も良い方法でこの場を上手く収めてくれるだろう。

 そう思い、卑怯なことだと自覚はしているが、彼に自分から決別を告げなくてもいいと、少しだけ安堵した。

「今のままでは、無理だな」

 けれどアンドリューズは、湊斗の想いの可能性を否定しなかった。

「に、兄様?」

 湊斗とリーディの視線を受けて、にやりと笑うその姿はすっかりいつもの兄のものだ。

「今のまま、とは?」

「リィを愛するには、相当な覚悟が必要だってことだ」

 諦めさせるのではなく、逆に煽るような物言いに、この場を兄に託したことを大いに後悔したが、もう遅い。

「ちょっと、そんなこと……」

 リーディは兄の腕の中で抗議の声を上げようとしたが、それは途中で途切れる。

(兄様?)

 からかうような笑みはもう消え失せ、アンドリューズは腕の中のリーディを、さらに強く抱き締める。

「一生に一度のことだ。もう二度とないだろう。愛された記憶は、これから厳しい道を歩むお前の心をきっと支えてくれる。だから今は深く考えるな」

(……厳しい、道?)

 なぜか、それはこの国の王妃になる将来を指している言葉ではない、と思った。

 迷わずに未来を指し示していた針が、ずれたような違和感。

 でも、兄はもうそれ以上語らない。

 きっとこれからも語ることはないだろう。


 それからリーディは、理佐の部屋で三日ほど過ごしていた。

 あれ以来湊斗は何も言わず、ときどき何か考え込んでいるように見える。理佐も、そんな兄をからかうことなく、静かに過ごしていた。

 いままでの関係が変わってしまった寂しさを抱えながら、リーディは今日も忙しく働いていた。

 それは、その 夜のことだった。

 夜の警備をしていた兄のアンドリューズが、理佐が眠ったあとに応接間に入ってきた。

「……兄様」

 眠れず、応接間にあるソファーに座っていたリーディは、複雑な心境で兄を迎えた。

 湊斗と理佐がいたときは普通を装っていたが、こうして唐突に兄とふたりきりになると、どうしたらいいのかわからなくなる。

 イリスにいたときのように、何を企んでいるのかと問い詰めたいのにそれができなくて、そんな自分に戸惑っていた。

 アンドリューズも、しばらく何も言わずにリーディを見つめていた。

 イリスにいた頃、細身だがしっかりと鍛えられている身体に、いつも自信に満ちた笑みを浮かべている兄は、とても王太子には見えなかった。

 でもこの国に来てから、ふとした瞬間に、兄の表情に憂いの影を見るときがある。それを見ると、何も言えなくなってしまうのだ。

「お前が住んでいた離れを、襲撃した犯人がわかった」

 やがて静かに、アンドリューズはリーディにそう告げた。

「え?」

「宰相のディスタ公爵の差し金だった。お前を脅して国に帰らせ、漆黒の剣士の妹である理佐を王妃にする計画だったようだ。理佐の部屋をこの部屋にしたのも、離れの警備が手薄だったのもすべて、その男の仕業だな」

 昼夜問わず、常に警備兵に守られている理佐と違って、リーディにはイリスから連れてきた護衛が数人いるだけだ。だが理佐は守られているというよりも、見張られているというべきか。

「宰相には、そこまで権力があるの?」

「前王のときから仕えていたらしいからな。ただ、セットリア国王が彼をどう思っているかは不明だが」

「……そう」

 一連の騒ぎが、宰相の独断だとは思わなかった。しかし、それにセットリア国王は、本当に気が付いていないのだろうか。

「その件も解決したのなら、もうあの部屋に寝泊まりしなくてもいいのよね。じゃあ、荷物を向こうに移動しないと」

 実際には荷物などほとんどないが、明日の朝になったら、理佐が起きる前に部屋に戻ろう。リーディはそう考えていた。

 だがアンドリューズは首を振る。

「いや、もう終わりにしよう」

「え?」

「リーディ、お前は理佐の顔を見るために、王城に来たんだろう? 思わぬ事態で少し長引いてしまったが、襲撃者の正体もわかった。もういいだろう。イリスの王女に戻れ」

 何日か前には、恋をしてみろとけしかけていた兄の急激な態度の変化に、リーディは戸惑う。

「兄様……」

 たしかに、こんな生活がいつまでも続くはずがないとわかっていた。

 イリスの王女という自分の立場も忘れてはいない。

 だがここを離れたら、もう湊斗や理佐とあんなふうに会話を交わすことはなくなる。

 イリスの王女ではなく、ただのリィに想いを寄せてくれた湊斗と、もう会えなくなるのだ。

「……でも」

 そう思うと、心が痛む。

 どうしようもないとわかっているのに、懸命に理由を探してしまう。

「でも、そんなに急には……」

「ふたりには、体調を崩して生まれ故郷に帰ったと伝えておく」

 いますぐにここを離れたほうがいいと言われ、リーディは兄に問いかける。

「どうしてそんなに急ぐの?」

 イリスの王女であるリーディが、ずっと侍女の真似事をするわけにはいかないとわかっている。

 でもせめて、別れの言葉くらい伝えたい。

 だが兄は難しい顔をして首を横に振る。

「ディスタ公爵の動きが少し気になる。まだ何か仕掛けてくるかもしれない。ここにいると、いざというときに逃げられない」

 そう言われてはもう言葉を返せず、リーディは兄に促されるまま、理佐の部屋を出た。

 夜の警備兵はアンドリューズだけなので、誰にも咎められることはない。

「兄様はどうするの?」

「ふたりが同時にいなくなったら、不自然だからな。もう何日か残る」

「うん、わかった。……ひとりで戻れるわ」

 侍女の姿ならば、夜中に歩いても咎められることはない。

 襲撃の危険はなくなったとはいえ、理佐の警護をしている兄が持ち場を離れるわけにはいかないだろう。

「気を付けろ」

 そう言う兄に頷いて、リーディは一度だけ、理佐が眠っている寝室を見る。

(ごめんなさい。黙っていなくなって。……さようなら)

 どんな女性なのか見てみようと、王城に乗り込んだときのことを思い出し、少しだけ笑う。

 もう理佐と笑い合うことも、湊斗が妹とじゃれ合っている姿を見ることもない。 

 ただ最初は、国王が夢中になっていると噂になっていた、その女性に会うだけのつもりだった。

 それなのに、事情はセリアの予想とまったく違っていた。

 セットリア国王が執着しているのは理佐ではなく、その兄である湊斗の――漆黒の剣士の力だ。

(この国は……、セットリア王国は、わたしの祖国になるのかしら。それとも……)

 イリスに帰ることになるかもしれない。

 その思いは、数日前よりもずっと強くなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る