第6話
(今日こそは行かないと……)
何度、そう思ったことだろう。
ようやくこの日の夜、与えられた部屋からこっそりと抜け出したリーディは、周囲を警戒しながら、足早に離れに急ぐ。
ノースにまったく連絡できずに、もう三日も過ぎてしまっていた。きっと心配しているに違いない。
月の明るい夜だった。
青白い光は夜道を歩くには心強いが、警備兵に見つかってしまう恐れもある。慎重に足音を忍ばせながら、ようやく目的地に辿り着くと安堵の溜息が漏れた。
リーディは静まり返った離れの前に立つ。
(こっちは誰もいないのね)
もうすぐ王妃になるはずの女性が住んでいるというのに、この国の警備兵は誰もいない。あらためて、この国に自分の味方は誰もいないのだと思い知る。
そのうちに本当に殺されてしまい、祖国を戦争に巻き込む原因になってしまうのではないか。
暗い未来ばかりが浮かんできて、不安だけが積もっていく。
「……ノース、いる?」
どんな時にでも味方になってくれるノースに早く会いたくなって、返事も待たずに扉を開けた。
「ああ、リーディ様。ご無事で、安心しました」
迎えてくれたノースは、リーディのドレスを身に纏い、綺麗に結い上げた髪には美しい宝石が飾ってあった。いつも質素な服装をしていた彼女の姿に、思わず目を細める。
「ノースって本当に美人よね。わたしより似合うんじゃないかしら……」
女性らしい丸みを帯びた彼女の身体から、小柄でまだ少女らしさが抜けない自分の身体に視線を移してそう呟くと、ノースは困ったように俯く。
「姫様、そうからかわないで下さい。それよりも、一刻もはやく、お知らせしたいことがあるのです」
「わたしも重大なことを伝えに来たの。驚かないで聞いて。じつはあの漆黒の剣士が……」
そう言いかけた途端、部屋の中心に置かれていた衝立が動いた。
まさかこの部屋にノース以外の者がいると思わず、驚いて後退りしたリーディの目の前に現れたのは、よく知る顔だった。
「やはり漆黒の剣士が動いたか。するとあの噂は真実だな。セットリア王もなかなか姑息な手段を使うじゃないか」
衝立の奥から姿を現した男は楽しげに笑いながら、驚きに目を見開いて硬直しているリーディを見下ろす。
リーディと同じ豪奢な金色の髪。細身ながらも鍛え上げられた体躯。警備兵のような格好をして、腰には長剣を差している。
その姿を見た途端、リーディはここに来るまでの用心も忘れて声を上げていた。
「お、お、お兄様!」
叫び声が静かな離れの建物に響き、ノースが慌ててその口を塞ぐ。
「姫様、胸中お察し致します。私もできれば同じように叫びたい思いですが、もし王城に聞こえてしまったら一大事です。どうか、どうかお心を静めて下さい」
たしかにその通りだと、リーディは口を閉ざして、こくこくと頷いた。
(お、驚かないでと言ったわたしが、こんなに驚くはめになるなんて)
「それにしても漆黒の剣士と、こんなところで遭遇できるとはな。うん、何とか手合わせできないものか……」
それなのに当の本人はリーディの驚きなど気にも止めない様子で、そんなことを呟いている。
あきれるのを通り越して怒りすら覚えて、声を潜めるのも忘れてしまう。
「兄様ったら! 国の一大事に何でそんな悠長なことを言っているの。もし彼が敵になったらどうなるか……」
「ならない。すくなくとも、今の状態ではな」
声を荒げる妹を宥めるようにして頭を撫で、イリスの王太子は笑う。
「イリスのほうからセットリアに仕掛けたのなら話は別だが、何もしていないイリスに攻め入ればただの侵略だ。そんなことをすれば、セットリアが非難の的になる。いかに巨大な力を有しようと、それを使う者に正義がないのならば、世界はそれを許さない。多少荒れてきたとはいえ、まだそれだけの秩序はある世界だ。だが、いままで仲間すら作らなかった孤高の漆黒の剣士に、妹か。これからいろいろと騒動が起きそうだな」
兄の端正な顔立ちには不釣り合いなほど、好戦的な目。
それはこの状況を楽しんでいるようにも見える。
(それにしても、どうして遠く離れたイリスにいるはずの兄様が、実際に見たわたしと同じくらいの情報を持っているの……)
もう溜息しか出なかった。
「それにどうして兄様がここにいるの? 父様が知ったら、また倒れてしまうわ」
「もちろん、リーディが心配だったからに決まっているだろう」
そんな兄が、ふいに真剣な顔をしてそう告げる。
「漆黒の剣士という手札を手に入れたとしたら、セットリア国王はどんな手段を取ってくるかわからないからな。だから俺は最初から、この婚姻には反対だったんだ」
「……兄様」
婚約が決まったとき、兄は父と言い争いになるくらい、反対していた。それを知っていただけに、兄が本当に自分を心配してくれているのだとわかり、リーディは白い頬をほんのりと染めて俯く。
「あ、ありがとう。でも兄様が側にいてくれるなら、ノースも安心だわ」
本当に危険なのは、王女の身代わりになっている彼女かもしれない。だがそう言うとなぜか、ノースは困った顔をして首を振る。
「姫様。私の護衛は他に用意して頂きました。つまりアンドリューズ様は……」
嫌な予感がして、リーディは目の前に立つ兄の姿を見つめた。
よく見れば、どことなく見覚えのあるその制服はこの王城の警備兵のものではないか。まさか、と呟いた妹に、兄は忌々しいくらいさわやかに笑う。
「うん、そのまさかだ。ついでにお前の身分証も用意した。リィ・セリナとアドリュ・セリナ。兄妹で王城に勤めている。中級貴族だった両親は既に他界。出身はイリスに近いサリティという町だ。きちんと設定を覚えておくように」
正式な身分証を渡されて、口を開き掛ける。
きっと発していたのは怒声か悲鳴かの、どちらか。
でも再びノースに口もとを押さえられる。
「姫様、申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。ですが私にはアンドリューズ様を止めることができませんでした。こうなってしまったらもう、たとえ国王陛下でも止められないでしょう。隠し通すしかないのです」
「……」
そのあまりにも切実な響きの声に、リーディも少しずつ冷静になっていく。
たしかに、イリスの王太子と王女がふたりでセットリア王国の王城に忍び込んでいたなどと知られたら、もう婚姻どころではない。
それにすべての発端は、リーディだ。セットリア国王が連れてきた女性を見てみたいと、軽率に王城に忍び込んでしまった。
心を落ち着かせようと数回深呼吸をしたあと、兄に向き直った。
「セットリアの人達なら、多分騙せると思う。でもあの人なら見抜いてしまうかもしれない。だから手合わせなんて考えないで、なるべく近寄らないようにしてね」
「あの人……って、あれか。漆黒の剣士か?」
リーディが頷くと、アンドリューズは深刻になるどころか、楽しそうな笑みを浮かべる。
「へえ。そんなに強そうだったのか。異世界から来た人間だっていうのは聞いたことはあるが、俺もまだ会ったことはないからな。なんとかして会いたいものだが」
「なっ……」
一気に頬が紅潮したのを感じて兄を睨みつける。ノースが慌てて口を塞いでくれなかったら、今度こそ大声で怒鳴っていただろう。
「リーディ様、申し訳ありません」
彼女のせいではないのに必死に謝るノースとは裏腹に、アンドリューズは笑いながら部屋を出て行く。
「そろそろ交代の時間だな。リーディも気を付けろよ。おっと、リィだったな。また王城で会おう」
来なくていいから、と叫びたくても声が出ない。
ノースの腕の中で暴れるだけ暴れて、ようやく落ち着いたリーディは深く溜息をつく。
「ごめんね、ノース。こんなに苦労を掛けて……」
取りなしてくれた彼女に心底申し訳ない気持ちになってそう言うと、ノースは晴れやかな顔をしてこう言った。
「わたしなら大丈夫です。リーディ様。だってこの離れには、アンドリューズ様がいらっしゃいませんから」
「……」
言葉を返すことができなかった。
そう、顔を合わせるのはリーディのほうが多い。
王城の警備兵と、侍女として。
今度は何をしでかすかわからない兄のことを思い、リーディはそのまま床に崩れ落ちる。
「ああ、もう。イリスに帰りたい……」
だがイリスに帰るわけにも、いつまでもここで脱力しているわけにもいかない。
仕方なく侍女としての部屋に戻り、疲れ果てたリーディは朝までぐっすりと眠ってしまった。
不安も怒りもすべてが臨界点を越えてしまい、今となってはもう何の感情も沸いてこない。
それどころか一晩ゆっくりと眠ったら、妙にすっきりとした気分になってしまい、なるようにしかならないとまで思えてきた。
それに兄ならば、褒められたことではないが普段から色々な場所に侵入している。むしろ自分のほうが、慎重に行動しなければならない。
身支度を済ませ、朝食の用意ができているのを確認してから、理佐の部屋に向かう。
扉を守る警備兵は、夜の間もずっとそこに立っている。
厳重な警備だが、事情を知ると保護しているというよりは、理佐が逃げ出さないように見張っているようにも見える。
漆黒の剣士――湊斗は、この状況をどう思っているのだろう。
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