第7話
「理佐様、おはようございます」
そう言いながら部屋に入ると、眠っていた彼女はまだ夢の中から抜け出せないような、ぼんやりとした視線をリーディに向けた。
「夕べ遅くまで起きていたのですか? もう朝食の用意が整っていますよ」
「うん……。お兄ちゃんがうるさくて眠れなかったの。床に転がしておいたわ」
「湊斗様?」
慌てて床に視線を走らせると、ソファーの後ろに転がって眠っている漆黒の剣士を見つける。
「ああ、見つけました。そんなところで眠ったら風邪を引いてしまいますよ」
「ありがと……」
さすがに兄妹だけあって、まったく遠慮のないふたりの様子が微笑ましい。
こうしていると普通の青年のようで忘れてしまいそうになるが、湊斗はあの漆黒の剣士だ。
(でも理佐様の立場だったら、とても頼りがいがあるお兄様ね。ちょっと羨ましいかな……)
アンドリューズもたしかに強いが、頼りがいがあるかと言われると素直に頷くことは難しい。安心どころか、常に爆弾を抱えているような気持ちにさせてくれる兄なのだ。
そんな後継者を持ってしまった父の心労は、察して余りある。真面目な父が口うるさくなってしまうのも、仕方がないのかもしれない。
「お兄ちゃん、そんなことで寝たら風邪を引くよ」
「転がしたのはお前だろ。それより、腹が減ったな」
「ではすぐに朝食をふたり分、ご用意致しますね」
リーディは笑ってそう言うと、さっそく準備に取りかかった。仲の良い兄妹の姿に、自然に頬が緩む。
「だめだよ、三人分だよ。リィも一緒に食べよ?」
「わたし、朝はもう食べてしまいました。これ以上食べたら太ってしまいます」
「えー、リィは細くて華奢だから、もう少し太ってもいいと思うよ? ね、お兄ちゃん」
「お前はもう少し……、いや、なんでもない」
すっかり仲良くなった理佐からリィと呼ばれるたびに、少しだけ心が痛む。
素性を隠し、こんなに親しくしてくれる彼女を騙している。
ようやく少しは慣れて来た手つきでふたりに給仕しながら、リーディはそんなことを思っていた。けれど考えごとをしていたせいか、食後に淹れていたお茶のカップを落としてしまう。
「も、申し訳ありません」
甲高い音が周囲に響き、慌ててカップを片付けようと破片に手を伸ばした。
「ああ、駄目だ。手が傷付いてしまうよ」
それより先に、湊斗の手が手早く破片を拾い集める。
「そんな、湊斗様にそのようなことを……」
侍女長に知れたら、どれだけ叱咤されるか。困惑する彼女の目の前で、湊斗はそれを手際良く片付けている。
「わたしもよくお皿を割っちゃって。だからお兄ちゃん、後片付けは慣れているのよ」
理佐が少し恥ずかしそうに言った。
甲斐甲斐しく世話を焼く、湊斗の姿が浮かぶようだ。
「そうだったのですか。すみません、湊斗様。ありがとうございます」
丁寧にお礼を言って、割れてしまったカップを下げ、新しくお茶を淹れ直す。
「リィは、あまりこういう仕事に慣れていないようだね」
けれどふいにそう言われ、どきりとした。
王女として暮らしていたので不慣れなのは当然だが、ノースの手際を真似して上手くやっていたつもりだった。実際、他の侍女達や侍女長に文句を言われたことは一度もない。
それでもやはり、漆黒の剣士はすべてを見抜いてしまうのか。
「そうでしょうか。もし不手際がありましたら申し訳ありません」
平静を装ってそう言うと、こちらをまっすぐに見ている湊斗と目が合う。その鋭い目つきは、理佐とじゃれあっていたときとは、まるで別人のようだ。
深い色をした彼の目から、目を反らすことができない。
リーディは肉食獣に見据えられた小動物のように、ただ息を潜めて彼の言葉を待っていた。
「最近、この王城に来たと言っていたね。その前は何を?」
リーディの淹れたお茶を飲みながら、湊斗は何気ない話題のように尋ねる。
「サリティという町に住んでいました。両親が亡くなってしまい、知り合いの紹介で兄と一緒に王城に勤めることになったのです」
兄から覚え込まされていた設定を、必死に思い出しながら答えた。
「サリティか。俺も行ったことがある。今の季節だともう雪が降っているのかな?」
「ええ。まだ積もってはいないと思いますが、きっともう降り始めているでしょうね……」
俯いたのは両親や故郷を懐かしむ様子を演じたのではなく、それ以上詳しく聞かれてしまうとばれてしまうかもと恐れたからだ。
でも湊斗は聞いてはいけないと思ったらしく、話題を変えてくれる。
「兄と一緒に、っていうことは君のお兄さんも王城にいるのかい?」
それがよりによって、兄の話題とは。
リーディは無理矢理笑顔を作って頷く。
「はい。警備兵をしています。多少剣が使えるようなので」
「剣を?」
むしろこっちのほうが触れて欲しくない話題なのに、湊斗は重ねて尋ねる。
「王城の警備兵をするくらいだから、きっと腕が立つんだろうね」
「い、いえ。そんなにたいしたものでは」
「そうだ、もし……」
「お兄ちゃん」
このままだと望まない方向に進んでいってしまいそうな話を遮ったのは、両手でカップを持ってお茶を飲んでいた理佐だった。
「昔も剣道の話ばっかりして、カノジョに振られたの、覚えてないの? 女の人にはそういう話、退屈なんだからね?」
たったひとりで世界を変える力さえ持つ湊斗を、話が退屈だというだけで振る女性なんていないと思う。でも話題を変えてくれたのは本当に有り難くて、リーディは胸を撫で下ろした。
それを見た理佐が得意そうに微笑む。
湊斗に悪いような気がする。
でもできれば、兄の話題は避けたかった。リーディにとって兄は何がきっかけになって爆発するかわからない、恐ろしい爆弾なのだ。
理佐の忠告が効いたのか、それから湊斗が兄のことを話題にすることはなかった。
その日の夜。
リーディはそっと部屋を抜け出し、兄に指定された場所に向かう。
王城の中庭のひとつだが、手入れもされずに荒れ果て、忘れられたかのような寂しい場所だった。いくら警備兵に扮しているとはいえ、そう自由に動き回ることはできないだろうに、よくこんな場所を見つけてくるものだと感心してしまう。
そしてこれから定例となるだろう兄との報告会で、リーディは昼の湊斗の会話を伝える。
「だから気を付けてね、本当に。わたしも結構大変だけど、兄様の正体がばれたらもっと大変だから」
慎重に言葉を選んで、注意を促す。
いままでイリスでも、剣に優れた人間を見てきたことがある。
でも、湊斗はその中でも別格だ。リーディにもわかる。
妹に甘く、理佐の部屋では自然体だが、その気になればこんな茶番などすぐに見抜いてしまうだろう。
「ねぇ、兄様。聞いているの?」
それなのに兄のアンドリューズは、返事どころか聞いてもいないように見える。焦れて声を荒げると、彼はようやく妹を見つめる。
「聞いている。だが話を聞く限り、湊斗が興味を持っているのは俺じゃない」
「え?」
じゃあ誰に興味を持っているというのか。
首を傾げて真剣に考えている妹の姿に、アンドリューズはあきれたように笑う。
「鈍いな。恋をしたこともないのか?」
「あるはずないでしょう。わたしは王女なのよ?」
王女として生まれたからには、結婚は国のためにするもの。
恋などしても無駄だし、興味もなかった。
そう告げると、アンドリューズは驚いたような顔をしてリーディを見つめ、それから寂しげな笑みを浮かべる。
(……兄様?)
いつも周囲の迷惑など省みず、好きなように生きている兄の、そんな顔を初めて見た。
どうしてそんなに寂しそうに、切なげな目をするのか。
「兄様?」
だがそれも、ほんの一瞬のことだった。
「まあそれが本当なら、近いうちに配置換えがあるな。手合わせできる機会もあるかもしれないし、楽しみにしておくか」
「しなくていいから! それにどうして兄様の話をしただけでそんな話になるの?」
「明日になればわかる。さて、これから同僚達と飲みに行く約束なんだ。また明日な」
そんなことを言ってあっさりと背を向ける兄は、いつもと変わらない様子だった。
「もう! ばれないように気を付けてって言っているのに!」
そう声を荒げながらも、何となく気になってその後ろ姿を見送る。
自分の思うままに行動する兄はいつだって楽しそうで、あんな顔をするなんて想像したこともなかった。
その後ろ姿が見えなくなると、ようやくリーディは歩き出す。
初冬の夜は冷えて、指先が冷たい。
そっと息を吹きかけると、白く濁った吐息が空へ昇っていく。つられて見上げた夜空はとても澄んでいて、星が綺麗だった。
「ん? 同僚と飲みに行くって……。こ、この国の人達と?」
ばれないように大人しくしているつもりは、やはり兄にはまったくないらしい。
「心配して、損したのかも……」
溜息を付いて足早に部屋に戻る。
だが翌朝、リーディは配置換えがあると言っていた兄の予想が、正しかったことを思い知る。
昨日の兄の様子が気になって、つい眠るのが遅くなってしまった。
起きてみれば太陽はありえない高さまで昇っていて、何度も空を見上げて、さらに時間を無駄にしてしまう。
ようやく寝坊をしてしまったのだという現実を受け入れ、慌てて起き上がり髪を結い上げる。それも慣れていないせいで、なかなか上手くいかない。
(ああもう、急いでいるのに!)
何とか身支度を整えて、大急ぎで理佐の部屋に向かった。
彼女はあまり早起きではないが、主が起きるよりも遅くなる侍女など聞いたことがない。
(ばれないように気をつけるのは、やっぱり兄様じゃなくてわたしかも……)
髪の具合を気にしながら部屋の前まで早足で歩く。
いつも理佐の部屋の前に立っている警備兵が見えた。いつも理佐の部屋の前には、警備兵がふたりいる。
遅くなったことを報告されるかもしれないと怯えながら挨拶をしようとして、その場に立ち尽くす。
本当にこうなるとは思わなかった。
「おはようリィ。随分遅いな」
そんなことを言って笑っているのは、間違いなく兄のアンドリューズ。
「!」
何かを言おうとして口を開き、結局何も言えずに口を閉ざした。
兄はそんな反応を面白がっている。
「まるで雛鳥みたいだな。ほら、早く行け」
「ひ、雛鳥?」
悔しいが、早く行かなければならないのは事実だ。
腹いせに、もうひとりの警備兵に見えないように足を蹴飛ばしてみた。
むしろ蹴った足のほうが痛い。まるで固い岩を思い切り蹴飛ばしたような感覚だった。
(お兄様って、いったい……)
痛む足を引きずりながら、リーディは理佐の部屋に入る。
それにしても、あの頑丈さ。
本当に、一国の王太子だろうか。
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