第8話
部屋の中は静かで、カーテンも開けていない。
そして理佐は、まだ眠っている様子だった。
ほっとしながら彼女を起こし、着替えを手伝ってから朝食を用意する。
それにしても自分が食べられなかったのに、人の給仕をするのは結構つらいものがある。
王女時代には一度も感じたことがなかった空腹感をどこか不思議に思いながら、食後のお茶を淹れていると、来客があった。
湊斗だろう。
だがいつもと違い、扉の前で親密に言葉を交わしているような気配がする。
(ま、まさか……)
恐ろしいことを想像してしまい、血の気が引く。
もしかして、湊斗は兄と会話をしているのか。
息をひそめて会話を盗み聞きする限り、ここに配置するように進言したのは湊斗なのだとわかった。
彼の思惑は何なのか。
そして兄は、何を知っているのか。
目の前に兄がいるのに何も聞けないというのは、空腹を堪えるよりもつらかった。
だが、悶々とした思いを抱えたまま仕事をしていると、唐突にその機会は訪れた。
その日は、珍しく朝からとても天気が良かった。
これから冬になる季節だ。
もうこんな天気に恵まれる機会も、そう多くはないだろう。
その陽気に誘われて理佐が庭園を見たいと言い、湊斗ともうひとりの警備兵が付き添うことになったのだ。王妃の部屋の近くにある庭園は、兄との報告会で使ったあの中庭と違って綺麗に手入れされている。
留守の間に怪しい人物が侵入するかもしれないので、主がいない間も見張りは必要だし、リーディも今のうちに、簡単に部屋の掃除をする必要があった。
主のいない部屋で、兄妹は顔を合わせる。
リーディは茶器を片付けながら、のんびりと扉の前に立っている兄に視線を向ける。
夜を待たずに、こんな機会が訪れるとは思わなかった。
「どういうこと?」
あまり大きな声を出すと他の人に聞こえてしまうかもしれない。
「どうって?」
用心しながら小声で囁くと、アンドリューズは不思議そうに聞き返す。いつもは嫌になるくらい鋭いくせに、肝心なときばかり鈍い兄に溜息が漏れる。
「だから、どうして兄様がここにいるの?」
「どうしてって、それはもちろん、リィがいるからだろう」
「え?」
言葉の意味がわからず、思わず間抜けな声を上げてしまった。兄は奔放だが、こんな相手に伝わらない話をするような人ではなかったはずだ。
「どうしてわたしがいると、兄様がここに配置されるの?」
「湊斗がそう頼んだからだろう?」
だから、それがどうしてなのか聞いているのに。
「だから、ちゃんと理由を説明……」
埒が明かない会話に声を荒げた瞬間に、くらりと目眩がした。
あまり興奮しすぎたのかもしれない。
「リィ?」
とっさに差し伸べられた兄の手に掴まった。
何か言っているような気がしたが、上手く聞き取れない。仕事中なのに、と思ったが、もう薄れていく意識を留める術はなかった。
そのままどのくらい眠っていたのかわからない。
目が覚めるともう周囲は暗闇に満ちていて、燭台の淡い光が天井を照らしていた。
(あれ? わたし、どうしたのかしら?)
まだ意識が完全に目覚めていないのか、ぼんやりとしている。
それでも無理に意識をはっきりさせる気にはならず、そのまま天井を見つめていると、すぐ傍で誰かの声がした。
「目が覚めたか?」
少し心配そうな声だった。
それが兄のものだと気が付いた途端、急激に目が覚めてくる。
兄は、放っておくと何をしでかすかわからないのだ。
(わたしがしっかりしなきゃ……)
そんな脅迫めいた意識に突き動かされて、身体を起こす。
「無理するな。また倒れるぞ」
だが、それは兄の手によって妨げられた。
たしかにまだ少し目眩がする。横になったまま周囲を見渡すと、リィとしての自分の部屋だった。
同時に、直前まで何をしていたか思い出す。
「戻らないと。掃除も途中だったし……」
「ゆっくり休んで欲しいと、湊斗も理佐も言っていた。だから気にするな。それにもう夜だ。理佐だって寝ている」
アンドリューズは手を伸ばして、リーディの額に触れた。
「兄様?」
その手の優しさに、ふと昔を思い出す。
子どもの頃は、よく熱を出して寝込んでいた。そんなときは、よく兄がこうして付き添ってくれた。
昔は優しい、普通の兄だった。
いつからこんな爆弾のような兄になってしまったのだろう。
「倒れるまで気付かなくて悪かった。王城から出たこともないお前が、他の人の世話をするなんて大変だっただろう。よく頑張ったな」
思いがけずにそんなことを言われて、頬が赤くなる。
たしかにリーディにしては頑張っていたが、相手が理佐だったからこそやれていた。もし貴族の令嬢が相手だったら、手慣れていないのをすぐに見抜かれて、不審に思われたかもしれない。
「でも急に倒れてしまって、変に思われないかしら?」
「寝坊して朝食を抜いて倒れたって言ったから、大丈夫だろう」
「ちょっ……」
事実だ。
でも、もっと言い様があったのではないか。
リーディはがっくりと肩を落とす。
この兄に、気の利いた受け答えを期待するほうが間違っているのかもしれない。
溜息をつきながら部屋の中を見渡すと、兄が持ってきたのか、テーブルの上に果物が入った籠が置いてあった。
「ん? 食べるか?」
そう聞かれてこくりと頷く。
朝食も食べずに倒れ、そのまま夜まで眠ってしまったから、お腹が空いていた。
アンドリューズは籠の中から赤く熟した林檎を取り出すと、器用な手つきで皮を剥き始めた。
「それで、さっきの話。どうしてわたしがいると、兄様がここに配置されるのか、わからなかったわ」
綺麗に切り分けられた林檎を食べながら、回りくどい言い方をしても無駄だと、単刀直入に尋ねる。
「ああ、あの話か。湊斗は他の侍女達のように、自分に媚びたりしないお前を信用しているんだろう。あの力が欲しいのはわかるが、さすがにセットリア国王のやり方は露骨すぎる」
そんなに多くの女性が彼に言い寄っているのだろうか。
リーディは、少しだけ不愉快になった自分に戸惑いながら、食べやすいように小さく切ってくれた林檎に手を伸ばした。
甘酸っぱくて、とてもおいしい。
そんなリーディをみてアンドリューズは微笑み、言葉を続ける。
「王城に来る前はどうしていたとか、出身や家族のことを尋ねられたのも、お前が本当に信頼できるかどうか探っていたと思う。地方出身ってことは王城に出入りしているような貴族との繋がりもないだろうし、両親がいなくてふたりきりの兄妹なのも、自分達と同じだ。なるべく妹の傍に、変な男を近付けたくない。お前の兄なら大丈夫かもしれないって思ったんだろう。それで俺に声がかかったわけだ」
それを省略すると、お前がいるからだろう、のひと言になってしまうのか。
(省略しすぎよ!)
そう考えると、湊斗の行動はすべて納得ができる。
(わたし、信頼されているのかな?)
湊斗の信頼を得られたことは嬉しいが、騙しているのだと思うと心が痛む。
そう思いながら林檎を食べ終わると、目の前にお茶が差し出された。
「まあ、今日はゆっくり休め。セットリア王も相手が漆黒の剣士では、そう強引に事を運べないだろう。しばらくは何の動きもないはずだ」
「……うん」
頷きながら一口、お茶を飲む。ちょうどいい温度で、とても美味しかった。
「これ、兄様が淹れたの?」
「他に誰がいる?」
「そうだけど……」
果物を剥いていた手つきといい、器用で何でもできる兄に感心する。自分で淹れたお茶の味をたしかめたことはないが、これ以上に美味しいとは思えない。
「今度、上手な淹れ方を教えてくれる?」
「ああ、わかった。さて、俺はそろそろ仕事に戻らないとな。あ、そうだ」
立ち上がり、部屋から出ようとしていたアンドリューズは、振り向いてリーディを見る。
「明日の朝、湊斗が見舞いに来るって言っていた。その果物も湊斗からの見舞いだから、礼を言っておくといい」
「え? ちょっ……、待って……」
慌てて引き留めるが、兄の姿は扉の向こうに消えていた。
「お見舞いって、この部屋に来るってことよね?」
部屋の中を見渡す。
持っている物はそう多くないので、散らかってもいないし綺麗だと思う。
(うん、大丈夫よね)
掃除は必要ないかもしれない。
それでも変なところはないか、汚れているところはないかと夜遅くまで部屋の中を見渡してしまっていた。
翌朝、リーディは遠慮がちに扉を叩く音で目を覚ました。
ぼんやりとした目を、入り口に向ける。
「ん……、兄様?」
「あ、リィ? 見舞いに来たんだけど……」
聞こえてきたのは湊斗の声で、リーディは驚いて飛び起きた。
瞬時に、昨日の記憶が蘇る。
(そうだったわ。お見舞いに来てくれるって聞いていたのに!)
早起きをして身支度を整えようと思っていたのに、遅くまでいろいろとしていたせいでまた寝坊をしてしまったようだ。
いくら部屋で倒れて休んでいたとはいえ、寝間着で男性を迎えるわけにはいかない。
「は、はい。あの、少しお待ちください」
慌てて着替えをして、身支度を整え、扉を開ける。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
思っていたよりも落ち着いた声で、そう言うことができた。
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