第12話

「湊斗様?」

「親しくすれば危険に晒してしまうとわかっていたのに、倒れたと聞いて心配で。会いに行くべきではなかったのに」

 孤高と呼ばれていた漆黒の剣士。

 それでも彼が自ら望んで人との関わりを断っていたのではないと、リーディはその言葉で気が付いた。

 今では誰もが知る高名な剣士である彼も、最初から強かったわけではない。ここに到るまでには仲間や協力者、恋人だっていたかもしれない。

 でも湊斗は強くなりすぎた。

 敵にした相手があまりにも強すぎる場合、周囲の人間に目を向けるのは、卑怯だけれどよくある話でもある。

 だからこそ湊斗は関わりのある人達と決別し、こうして孤独に生きてきたのだ。

(……でも)

 リーディは少し前を歩く、湊斗の後ろ姿を見つめる。

 今までその背に追い付こうとした者はいなかったのだろうか。彼の孤独を癒そうとした者は現れなかったのだろうか。

 きっと、いたのだろう。

 湊斗には、力のある者にありがちな傲慢さがまったくない。その人柄に魅せられて、寄り添おうと努力した者がきっといただろう。

 でも人にはそれぞれ限界がある。

 どんなに願っても努力をしても、それ以上は進めない。彼を危険に晒してしまうくらいなら、と離れていった人もいただろう。

 それでも孤独はまるで岩を打つ水滴のように、長い時間を掛けてゆっくりと心を蝕んでいく。どんなに身体を鍛えても、魂は重ねた年月分しか強くなれないのだ。

 そんな日々を過ごしていた湊斗に、ふいに与えられた身内の温もり。

 理佐の存在は湊斗を強くしたかもしれないけれど、同時に忘れ去っていた温もりを思い出させたに違いない。

 だからつい、リーディの部屋を訪れてしまったのだ。

 自らの存在が世界に与える影響を深く理解している湊斗が、初めて自分の気持ちのまま行動してしまったことを、否定してはいけない。リーディはそう強く思う。

(……どうして私を、そんなに気に入ってくれたのかわからないけど)

 ずば抜けた素質があるわけもない。褒められることがある容貌だって、唯一無二のものではない。世界にはもっと美しい人がいくらでもいる。

「わたしなら大丈夫ですよ」

 自分にだって眠れないくらいの悩みがあったのに、それでも湊斗を励ましたいと思う自分の感情に驚きながらも、リーディは微笑んだ。

「兄様もいますし。兄様はああ見えて、結構強いんです」

 アンドリューズのことを口にすると、今まで険しい顔をしていた湊斗の表情がようやく和らぐ。

「そうだな。アドリュは強い。彼がいるから、夜も安心することができる」

 たしかに兄の名前を出したのはリーディだったけれど、そこまで漆黒の剣士に信頼されているとは知らず、僅かに目を見開く。

 強いとは聞いている。

 でも実際に剣を振るっているところを見たことは一度もなかった。だから心のどこかで、兄の道楽だと気軽に考えていたのかもしれない。 

「今度、手合わせをする約束もしている。ひさしぶりに、楽しみだ」

「て、てあわせ?」

 思わず声が裏返る。

 彼と手合わせをするとなれば、見学したい者も多いに違いない。どうしてわざわざ目立つようなことを、と頭を抱えたくなった。 

(もう、兄様ったら何でこんなに次から次へと……)

 少し恨みがましい気持ちになっていたリーディは、ふと視線を感じて顔を上げる。

 湊斗がまっすぐにリーディを見つめていた。

 その目に宿る光は、今までのものとは違って優しいだけのものではなかった。

 理佐に対して向けられているような、親愛のものではない。

 けっして手の届かない夜空に輝く星を見つめているかのような切なさを感じる。その光は夜道を照らす月光のように、リーディの心を照らし、何かを浮かび上がらせようとしている。

 胸の鼓動が速くなったような気がして、思わず胸に手を当てていた。

 先に視線を反らしたのは、リーディのほうだった。

「早く戻らないと。理佐様が待っていますから」

 お茶の用意のために出てきたのだとようやく思い出し、リーディは目的地に向けて歩き出す。背後に付き添ってくれる湊斗の気配を感じたけれど、もう顔を上げることができなかった。

 恋もしたことがなかったのか、と兄に言われたことを思い出し、慌てて首を振る。

 この感情が何なのか、今は考えたくなかった。

「すみません、ちょっと用意をしてきます」

 調理場は人が多くて狭い。

 ここに湊斗が入っていったら、大変な騒ぎになってしまうだろう。

 入り口で彼に待っていてもらうと、沸かした湯を用意し、茶器をそろえてから調理場を後にする。

「お待たせして申し訳ありません」

 そう謝罪すると、湊斗が手を伸ばす。リーディが持っていた茶器をその手から奪った。

「あ、だめです。湊斗様に持たせるわけには……」

 客人に持たせるわけにはいかないと何度も取り返そうとしたが結局聞き入れられず、仕方なく手ぶらのまま理佐の部屋に戻る。

 入り口に立つ警備兵が見えてきたところで、湊斗は急に立ち止まった。

 リーディを黙って見つめる。

「どうしました?」

 首を傾げて尋ねる。

「……いや、なんでもない」

 そう言って彼はそのまま歩き出した。

(どうしたのかな? 何か言いたそうだった)

 彼が何かを迷っているような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。リーディは湊斗の後ろ姿を見つめる。

「おかえりなさい」

 部屋に戻ると理佐の笑顔に迎えられた。笑みを返しながら、湯が冷めないうちに手早くお茶の支度をする。

(わたしも結構、手慣れてきた気がする)

 ふと湊斗の姿を探すと、彼は理佐と楽しそうに会話をしている。そんなふたりを見つめながら、リーディは自分の心の在処をたしかめるように、胸の上に手を当てた。

 湊斗の言葉によって、今までにない何かが心に宿っているのを感じていた。

 それが何かは、まだわからない。

 まだ、知りたくはない。

 ただ水辺に何かが浮き上がってくるときの前兆のように、小さな泡が少しずつ水面を騒がせているのがわかる。それは恐ろしい怪物などではないけれど、もう浮き上がってしまったら以前の自分には戻れないだろう。

 知らない方がよかったのかもしれない。

 でも、もうそれを押し留めることはできない。

 期待と、不安を同じくらい抱きながら、リーディはただ静かにそのときを待つしかないのだ。


 兄が尋ねて来たのは、もう日が傾きかけた頃だった。

 窓から入り込む緋色の帯が、真剣な顔をして話し合いをしている兄と湊斗の姿を照らしている。

「ソリット国の者が、この国に入り込んでいるという情報があった。おそらくそいつらだろう」

 窓辺に立ち、そこから景色を見下ろしたままアンドリューズはそう告げた。

 ソリット国。

 リーディは、周辺の地図を頭に思い描いてみる。

 このセットリア王国の東側に位置している国だ。兄と同い年の双子の王女がいる。長い黒髪を背中まで伸ばした、美しい姉妹だった。

「あの国では女性は王になれないから、多分どちらかの夫が即位する。それで、双方の婚約者が継承者争いをしているようだ」

 相手よりも強い力を欲し、漆黒の剣士の力に目を付けたのか。

 それはどちらの婚約者だったのか。

 姉妹はとても仲がよいと聞いていた。

 婚約者達の暴走に、さぞかし心を痛めているのだろうと、リーディは思う。たとえ王女であっても所詮、女は政略のための駒でしかない。

 さきほどまでの穏やかな気持ちはたちまち消え失せ、リーディは俯いた。

 同情ばかりもしていられない。

 このまま何もなければ、来年には正式にこの国の王妃になる。どんなに湊斗との交流に心を弾ませても、そこですべてが終わるのだから。

 それを知ったら湊斗はどうするだろう。

(あんなに優しい彼を、わたし達は騙しているのね)

 罪悪感で胸が痛い。

 そんなリーディの目の前で、兄は話を続けている。

「どっちの婚約者だったか知らないが、浅慮だったな。たしかにソリットとセットリアの関係はあまり良好ではないが、セットリア王国側から正式に抗議があったら、計画を実行した者はたちまち失脚する」

「……ソリット、か」

 湊斗は兄の言葉に頷き、ぽつりとその国の名を口にした。

 何気ない声だったが、彼がどんなに気安いのかよく知っているリーディでさえ、ぞくりとするような響きがある。

 味方にすると心強いが、敵にすると恐ろしい。

 湊斗はまさにその言葉通りの人間だ。

「犯人がソリットの人間だったとしたら、多分二度目はないだろう。今頃は責任の擦り付け合いになっているだろうな。だが、他の国が同じことを考えないとは思えない。この国に居座るつもりがないなら、早々に出たほうがいいと思うぞ」

 兄の言葉に、湊斗はあきらかに困惑した様子だった。

「……そう、だな」

 歯切れの悪い言葉に、彼にも何か事情があるのだと悟る。

 そういえば湊斗は何度か、セットリア国王に呼ばれて彼のもとに向かったことがあった。

 自分の立場、そして漆黒の剣士湊斗と、セットリア王国の関係。

 いままであまり深く考えないようにしてきたことだ。だが、それをふいに目の前に突きつけられて、リーディは目を伏せる。

 湊斗と出逢い、漆黒の剣士ではない普通の青年のような彼に触れて、少し惹かれていたのかもしれない。

 でも自分がイリス王国の王女である事実は変わらない。

 いずれセットリア国王に嫁ぐか、もしくは婚約を解消して祖国に帰る。

 それ以外の未来は自分にないのだ。

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