敵国に嫁ぐ予定でしたが、異世界から来た女性が王妃になると聞いたので、国に帰ろうと思います。

第11話

「恐らく、この国と対立関係にある国の者だろうが……」

　湊斗は頭の中に地図を思い描いているのかのように、目を細めて具体的な国の名前を挙げていく。

「ソリットか、もしくはワーテス、あるいはイリス……」

　祖国の名前を挙げられ、動揺を悟られないように俯いた。そっと兄の様子を盗み見ると、彼は平然と湊斗の言葉に頷いている。

「まぁ、そこらだろうな。侵入者はワーテス国の特徴である褐色の肌をしていなかったが、他国に侵入するときに、わざわざ自分達の国の者を使うはずがない。見ただけでワーテスの国の者だとわかるからな」

「そう思う。……だがイリスは外してもいいかもしれない」

　ふと思い出したかのように湊斗が呟く。

「イリスの王女を王妃にするからか？」

　自分達が関わる話題が出ても、兄が動揺する気配は微塵もない。それに比べてリーディはまた倒れそうになるくらい緊張をしていた。

「いや、それもあるかもしれないが、多分あの国は今、他国の妨害をしている暇はないだろう」

　けれど続く湊斗の言葉に我に返る。

　祖国で何が起きているのだろう。

「ああ、あの話か」

　それに対して兄は興味を失ったように視線を反らす。

「隣国で何があったのですか？」

　思わず尋ねると、湊斗はリーディを安心させるように微笑む。

「大丈夫。天災とか疫病の類ではないから。ただあの国の王太子が、三カ月程前から消息不明らしい」

「……え？」

　その言葉の衝撃に、思わず兄を見つめる。

　三カ月前と言えば、リーディがこの国に移り住んだ直後だ。

　兄は視線を反らしたままで、リーディを見ようともしない。

「またどこかに出かけたままなのではありませんか。そういう話を、よく聞きますから」

　仕方なく、湊斗にその詳細を尋ねる。

「それが、今回はいつも行き先を告げている側近にも何も言わずにいなくなったらしいからね。イリス国王の心痛は相当なものらしいから、他国に関わる暇はないだろう」

　他国の事情にこんなにも精通している、湊斗の情報網も恐ろしい。

　でも今はそれよりも兄の様子が気になって、リーディはアンドリューズを見つめる。

（兄様、どういうつもりなの？）

　折り合いが悪かったとはいえ、行方がわからない息子を心配しない親はいない。

　しかも兄は王太子だ。

　兄に何かあったら、イリスは後継者を失ってしまう。

「じゃあソリット、もしくはワーテスか。まったく関わりのない国かもしれないが、まずはこの国から調べるか」

　それなのにアンドリューズは平然とした顔のまま、そう言って立ち上がる。

「兄様！」

　リーディは思わず大きな声を上げてしまった。

　湊斗が少し驚いたような顔をして振り返る。

　不審に思われただろうか。

　でも、問いかけずにはいられなかったのだ。

　ふたりきりの兄妹だったから、兄とは幼い頃から一緒にいることが多かった。

　だから今までは、兄が何をしでかすか、父よりもリーディのほうがよくわかっていたくらいだ。それなのにこの国に来てから、兄が何を考えているのか、何をしようとしているのかまったくわからなくなってしまった。

　それが不安で、何かよくないことの前兆に思えてしまう。

「大丈夫だ。これでも仕事中だからな。配置に戻るだけだ」

　リーディの必死な声に、さすがにアンドリューズは足を止めた。だがそう言って扉の外を示し、そのまま出て行く。

(もう、絶対に後で問い詰めるから……)

　冷静になってみれば、湊斗達の前で話せるような内容ではない。リーディは溜息をついて、目の前の湊斗に向き直る。

「すみません、お騒がせしました」

「大丈夫。そう危険なことはないと思う。どこの者かはまだわからないけど、きっと表立ったことはしないはずだ」

　王城に押し入るような連中を捜すとなれば、危険も伴う。リーディは、兄を案じているせいだと思ったようだ。安心させるように、そう言ってくれた。

　優しさは、時には弱さと混同されるときもある。

　でも、誰よりも強い湊斗の優しさは本物だ。

　何もかも打ち明けてしまいたい衝動に駆られて、リーディは俯いた。

　それができたらどんなに安心するだろう。

　どんなに落ち着くだろう。

　でも、できない。ただ彼を騙してしまったという罪悪感を抱えたまま、心配させないように微笑むしかなかった。

　そして夜になって、理佐がぐっすりと眠ってしまったのを見計らって、リーディは寝室を抜け出した。起こさないように気を遣いながら、応接間に通じる扉を開ける。

　するとそこには、扉の外で警備をしているはずのアンドリューズの姿があった。思わず声を上げそうになり、慌てて口を塞ぐ。

「納得していない様子だったから、絶対に来ると思って待っていた」

　リーディの気配を感じただろうに、振り向きもせず。窓の外に輝く月を見つめながら、兄はまるでひとり言のようにそう呟いた。

「兄様……」

　夜の静寂と兄の様子が、リーディの心を急き立てる。

　こんな兄の様子はみたことがない。

　三カ月前に離れた祖国で、何か大変なことが起きているのかもしれない。そんな予感がリーディを不安にさせた。

　あの国を離れたときは、もう二度と戻らないはずだった。

　セットリア王国の王妃となり、この国で一生を過ごす覚悟をして祖国を出た。

　だが、セットリア王国の不審な動き。

　そして兄の不可解な態度から、もう一度イリスに戻るかもしれないという予感が、まるで月の光に照らし出されたかのようにリーディの胸に浮かび上がる。

「さっきの話は、この国に流れている噂だ。あまり気にするな」

「噂？」

　これが侍女達の世間話程度だったら、あっさりと兄の言葉を信じただろう。でもあの漆黒の剣士が、湊斗ほどの者がそんな噂程度の話を口にするだろうか。

　納得していない様子を感じ取ったのだろう。

　ようやくアンドリューズは振り向き、真正面から妹を見つめる。

「もしそれが本当なら、お前のところに連絡がないはずがない」

「それは……」

　本当に兄が行方不明ならば、父はリーディを三カ月も他国に滞在させない。イリスでは女性でも王位に就ける。すぐにリーディを連れ戻すはずだ。

「うん、そうね。それにわたしが出した手紙も、兄様に届いたのだから」

　あの手紙を見て、兄はここに来てくれたのだ。

　もし本当に三カ月前から祖国に戻っていなかったとしても、その行方を知っている者がイリスにいるということだ。

「……手紙？」

　でも兄は不思議そうに問い返し、すぐに我に返ったように頷く。

「ああ、そうだ。だから何も心配するな。リーディを襲った奴も、理佐を攫おうとした奴もすぐに見つけるから」

　また寝坊するぞ、促されて寝室に戻り、眠っている理佐を起こさないようにしてそっと寝台に戻る。

　それでも眠れるはずがない。

　兄はリーディからの手紙を受け取っていない。

　出したことさえ知らない。

　それなのにどうして、あのタイミングで会いに来てくれたのか。どうして、リーディが不在の離れが襲われたことを知ったのか。

　兄はまだ扉の向こうにいる。

　問い糾せばいい。

　どういうつもりなのか、詰め寄って本当のことを話すまで何度でも尋ねればいい。

　イリスにいた頃は、父の換言などまるで聞こうとしない兄に、代わりに何度も説教のような話をした。

　あの頃と同じように、そうすればいいのに。

　それなのに、それができずに、リーディは静かな寝室で眠れない夜を過ごしていた。

　もう二度と戻れない場所に足を踏み入れてしまったかのような、漠然とした不安が胸の中に渦巻いている。

　そのまま夜が明けていくのを、静かに眺めていた。

(一睡もできなかった夜なんて、お母様が亡くなったあの日以来かもしれない)

　母が亡くなった日。

　泣くリーディを優しく慰めながら、兄も眠らずに、何かを考え込むような顔をして傍にいたことを思い出す。

　考えてみれば、兄が王城から頻繁に出るようになったのは、それ以降だ。

　やがて静まり返っていた王城に、少しずつ人の気配が交じっていく。

　寝台から抜け出し、リーディは衣装部屋の隅で着替えをした。

　どんなに悩んでいても、何も解決していなくても、朝は容赦なく訪れる。

　いつものように理佐が起きて、身支度を整えると湊斗が来る。

　ふたりのために朝食の用意をしながらも、リーディはつい、ぼんやりとしてしまう。

「大丈夫？　眠れなかった？」

「い、いえ、大丈夫です」

　そう言って笑うリーディを、ふたりは心配そうに見つめている。こんなに優しいふたりに嘘を言っているという罪悪感から、ため息ばかりついてしまう。

「何か心配事があるなら、言って欲しい。力になるよ」

　湊斗は、そんなリーディを見かねてそんなことまで言ってくれた。それが口先だけの言葉ではないのは、目を見ればわかった。

(どうしてこんなに優しい目で、わたしを見るの？)

　彼にすべてを打ち明けたい衝動が沸き起こり、リーディはお茶の支度をしてくると理由を付けて、その傍を離れる。

　あのままだったら、本当にそうしてしまいそうだった。

　部屋を出ると、警備兵はもう他の人間に交代していた。

　物珍しげな視線に戸惑い、急いでその場を離れようとする。でもきっちりと締めたはずの扉が勢いよく開き、驚いて足を止める。

「ひとりになると危ない。一緒に行くよ」

　慌てて追いかけて来たらしい湊斗にそう言われ、断る理由もなくて黙って頷く。

　警備兵達が小声で何やら話しているのが気になったが、背を向けて歩き出した。湊斗はそんなリーディを守るように、傍に寄り添ってくれる。

「……ごめん。俺のせいで、厄介なことに巻き込んでしまって」

　人の気配が途切れた時を見計らって、彼は小声でそう呟く。初めて聞く弱々しい声に、思わず立ち止まり、隣を歩いていた湊斗を見上げた。