第10話
「……湊斗、もういい」
アンドリューズは、リーディを守るように抱えたまま、静かな声でそう言う。
兄の言葉に湊斗は深いため息をつくと、目の前で震え上がっている彼女達に冷たい声で告げた。
「……行け」
そのひと言で、彼女達は呪縛が解けたかのように逃げ出す。
逃げていく後ろ姿を見送り、リーディはいまさらながら不安になる。
もし一年後まで彼女達が自分の顔を覚えていたら、大変なことになるかもしれない。
「大丈夫だ」
その不安を表情から汲み取ったのか、アンドリューズは明るい声で言う。
「あいつらの頭では、一年後まで覚えていられないだろう」
あまりにも辛辣な言葉に、思わず苦笑いするしかなかった。見た目以上に、兄は怒っていたらしい。
(兄様って、ああいう女の人嫌いだからなぁ……)
アンドリューズは王太子だ。
彼の他に王家の血を継ぐ者はリーディしかいないが、もうこの国に嫁ぐことが決まっている。
だからリーディが嫁ぐ前に、王太子妃が決められる予定だった。
でもこの兄が、父の決めた相手と大人しく結婚する姿などまったく想像できない。
父と兄の間に立つことを考えたら、問題が多いと思っていたこの国のほうがましだと思ってしまうくらいだ。
「遅いからまた寝坊でもしたのかと思っていたら、まさかあんなのに絡まれているとはな」
不安そうにこちらを伺っているもうひとりの警備兵の存在に気が付き、アンドリューズは理佐の部屋に向かって歩き出した。
湊斗と一緒に、リーディもその後に続く。
「髪も酷い有り様だ。理佐に道具を借りてちょっと直したほうがいいな」
「う、うん……」
本当は遅刻をしてしまって、髪も適当に結んでいただけだと言えるような雰囲気ではない。
リーディはただ曖昧に、頷くしかなかった。
「さて、どうするか」
心配する理佐に大丈夫だと微笑み、髪を整えてからお茶の支度をしようと応接間に戻ると、なぜか警備兵のアンドリューズが、湊斗と向かい合わせにソファーに座っている。
理佐も、どことなく嬉しそうな顔でそんなふたりを見つめている。
「噂、広まっているみたいだな」
アンドリューズがそう言うと、湊斗はなぜか肩を落とす。
「俺のせいだ」
「まぁ、それだけではないだろうよ」
何の話をしているのか、リーディにはさっぱりわからない。首を傾げると、アンドリューズはリーディに視線を移した。
「リィ、しばらくは夜もこの部屋にいろ」
「え? 理佐様の部屋に?」
突然の提案に驚いて尋ねると、兄は頷く。
「数日は危険かもしれないから、この部屋でまとめて警備したほうがいい」
アンドリューズがそう言うと、湊斗もまた頷いた。
「そうだな。そうするべきだ」
「と、言うことだ。リィ」
「え。兄様、何を言って……」
話の内容が見えず、困惑してしまう。
「それがいいわ」
それなのに理佐まで、嬉しそうに頷いた。
「昼はお兄ちゃん達がいてくれるからいいけど、夜になってひとりだと心細いの。お願い、一緒にいて」
困ったように湊斗を見ると、彼もまた頷いている。
「それならふたり一緒に守れる」
「昼は湊斗がいるからいいとして、俺は夜の警備に回ろう。そうすればいつでも安全だ」
「ああ、アドリュがいるなら安心できる」
「ねえねえ、ベッドは窓側と入り口側、どっちがいい?」
ふたりの兄と無邪気な妹に押し切られて、リーディは事情も知らずにそのまま押し切られてしまう。
(ど、どうしてこうなるの……?)
ふたりの強引な行動には切迫した理由があったのだと、そう聞かされたのは夜になってからだった。
深い事情を何ひとつ知らないまま、理佐に請われるまま自分の部屋に戻り、数少ない荷物を纏めて部屋へ戻る。
理佐の部屋は、いつも兄と一緒にいる応接間、その奥にある寝室と隣接している衣装部屋、さらに浴室と化粧部屋まである。衣装部屋の片隅に荷物を置かせて貰ってから応接間に戻ると、もう兄の姿はなかった。
アドリュならまた夜に来るよ、と湊斗に言われて、黙って頷く。
ふたりの様子からして、なにか理由がありそうだ。きっとそれは、夜にならないと話せない類のものなのだろう。
(なんだか兄様に振り回されるのも慣れてきたというか、なんというか……)
早く知りたいような、深い事情を知るのが怖いような、複雑な気持ちを抱えたままその日を過ごした。
夕食の給仕が終わり、ここまで運ぶのを手伝ってくれていた侍女が去ると、もうこの部屋には朝まで誰も来ない。
夜担当の警護兵がひとり、昼のふたりと交代して残るだけだ。
そして夜の警備兵は、兄のアンドリューズだった。
「まず何から話せばいいか……」
兄は手土産に持ってきたものを理佐に渡すと、リーディを見つめて思案するように指先を額に当てた。
土産をもらった理佐は嬉しそうだった。
まるで宝箱を開けるかのように、綺麗な包装紙を剥がしている。
中身はどうやら甘いお菓子らしい。彼女のためにお茶の支度をしながら、リーディは兄の話に耳を傾けていた。
「昨日の夜、この部屋の警備をしている奴にちょっと用事があってね。酒場の帰りにこの部屋の前を通ったんだが、その警備兵が何者かと揉み合っている。ただごとじゃないと思ったから加勢したが、侵入者の目的は、理佐だったようだ」
「え!」
リーディは息を飲んで、理佐と湊斗を交互に見つめた。
今まで世界中から求められ、そして恐れられていた湊斗に弱点らしいものはほとんどなかった。
両親もいない。
親しい友人も恋人もいない。
親戚や仲間さえもひとりもいない。
ただひとりで生きる彼を縛る枷は、この世界のどこにもなかったのだ。
そんな彼の唯一の弱点となってしまった妹の存在は、もう世界中に広まっているのかもしれない。侵入者を差し向けた者は、理佐を人質にして湊斗を自分の勢力に引き込もうとしたのか。
そう考えると、こうして理佐を王城の奥に大事に囲っているだけのセットリア王など、まだましだと思えるほどだ。
「じゃあわたしがここに住むのは、理佐様の警護のためですね」
護身術の心得などまったくないが、それでもいないよりはいいだろう。そう考えてひとり頷くリーディ。
「違う」
「そうじゃない」
だがアンドリューズと湊斗に、ほぼ同時に強い口調で否定されて、手にしていた茶器を落としそうになるくらい驚いた。
「……昨日の侵入者に尋問したら、白状したんだけどな。理佐が駄目なら、リィを攫うつもりだったらしい」
「え、わたし? ど、どうして?」
兄の言葉にかなり動揺しているのが、自分でもはっきりとわかった。
いまのリーディは、理佐の侍女でしかない。
危険を冒してまで攫う価値などないはずだ。
困惑した視線を湊斗に向けると、彼は唇を噛み締める。
「ごめん。今までこんなに親しく会話をした人はいなかった。俺のせいで、リィもアドリュも狙われているかもしれない」
どうやら理佐の侍女リィは、湊斗のお気に入りの女性として知られてしまったらしい。
「本当にごめん」
湊斗は、そう言ってうなだれていた。
でもどう考えても悪いのは、そんなことを企む連中の方に決まっている。恥ずかしさよりも怒りが沸いてきて、リーディは首を振る。
「湊斗様は、何も悪くはありません。どうか謝らないで下さい」
兄がからかうような笑みを浮かべて、リーディと湊斗を交互に見つめているのが、どうも気に入らない。
(ちょっと、兄様。どうして笑っているのよ。噂が広まって困るのは、わたし達なんだから!)
偽の身分がどこまで通用するかわからない。軽く睨んでから、湊斗にお茶を差し出しながら尋ねる。
「その侵入者は、いったいどこの国の者だったのでしょうか?」
他国の王城に侵入して、国賓とも言える客をさらうなど、事が露見したら国際問題だ。
「それを今、探している最中なんだ」
だがその話題を口にした途端、兄の顔から笑みが消えた。
「侵入者に詳しく話を聞く前に、セットリア国の騎士に連れて行かれた。後から聞いたら、たいして自白しないうちに自死したって話だ」
無能だなと呟く兄の目は、あの貴族の令嬢を見つめていた時のように冷たいものだった。
「おかげで余計な手間がかかる。近いうちに真相を調べ上げるつもりだが、その間はこの部屋からは絶対に出ないようにしてくれ。昼は湊斗が、夜は俺が警護をしている」
誰が狙っているかわからないのは恐ろしいが、このふたりに守られるのならば、そう不安になる必要はないだろう。
リーディは黙って頷いた。
それにしても狙われたのは理佐なのに、まったく怖がっている様子がない。
この世界に来たばかりの怯えた様子など、もうどこにもなかった。それだけ兄を深く信頼しているのだろう。
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