第25話
木造りの部屋は使い込まれていて黒ずんでいるが、よく手入れをしているようで清潔だった。
簡素な机と椅子が置かれているだけのシンプルな部屋だ。
湊斗は椅子に腰を下ろす。
イリスの王城を出てから休まずに歩き回っていたが、ほとんど疲労は感じない。
疲れを知らないこの身体は、馴染むまでは我ながら恐ろしいものだったが、今では便利だなと思う程度になってしまっている。慣れてはいけない――とは思うのだが、これが日常になってしまうとそれも難しい。
自分が未熟者だということを忘れないようにする。アンドリューズと出逢ってから、湊斗はそう心がけている。
彼はそれを思い知らせてくれた。
アンドリューズは一見、自分と同じく感覚で生きているような人間に見えた。
だが話してみれば、その思考は想像よりもずっと深いのだと知ることができる。交渉や策略は苦手な分野だ。そんな彼を、どう説得すればいいのだろう。
(だがリーディの願いだ。必ず叶えてみせる)
そう決意すると、ふいに背後の扉が開かれた。勢いよく振り返った湊斗は、そこに探していた男の姿を見つける。
「……アドリュ」
長い金色の髪をひとつにまとめ、普通の剣士のような服装をしていたアンドリューズは、湊斗を見ると唇の端を釣り上げて笑みを見せる。
「どうした、湊斗。俺に何か用か?」
細身だが、鍛えられた体躯。堂々とした雰囲気。
驚くほど変わりのない、いつものアンドリューズだった。
「お前がここにいるってことは、リーディは無事に王城に辿り着いたか」
「……ああ。敵襲もなく無事だ」
アンドリューズは湊斗の向かい側にある椅子に座ると、机の上に肘をついた。
ここに湊斗が訪ねてくることなど想定外だったろうに、何事もなかったような穏やかな表情だ。
簡単に本心を見せるような男ではないことはわかっていたが、リーディの望みを叶えるのは予想以上に困難かもしれない。
「とりあえず、理佐を助けてくれてありがとう。もし理佐があの男に捕えられていたら、俺は動きようがなかった」
妹を助けてもらった礼を言うと、アンドリューズはわずかに笑みを浮かべる。
「礼を言われるようなことではない。俺はお前達も利用したんだからな」
「え?」
思ってもみない言葉に、驚いて彼を見上げる。
「利用したって……」
「ディスタが派手動き回っていたお陰で、セットリア国王からリーディを守れた。そうしなかったら、あいつはリーディを帰国させたりしなかっただろう」
「……セットリア国王?」
あの国で警戒すべきなのは、宰相のディスタ公爵だけだと思っていた。
理佐を連れ帰ったのはたしかにセットリア国王らしいが、理佐をあの国の王妃の部屋に軟禁し、湊斗を利用しようとしたのはその男だからだ。
「それは……、どういう……」
「セットリア国王は、ディスタ公爵なんかよりもずっと野心家だということだ。そしてお前のような、状況によっては敵になるかもしれない相手には手を出さない狡猾さも持っている。お前や理佐と接触したのは、いつもディスタ公爵だっただろう?」
「……ああ」
湊斗は混乱した頭を整理したくて、軽く振る。
「つまり、セットリア国王は俺達よりもリーディに執着していて、俺達をつけ狙っていたのはディスタ公爵。その動きが派手すぎて、セットリア国王はリーディを逃がしてしまった、ってことか?」
「ああ、そうだ。ディスタ公爵を放って置くと、本気で漆黒の剣士を敵に回してしまうと危惧したのだろう。本当の悪人は臆病なものだ」
それを聞いて、安堵して息を吐く。
理佐を狙ったディスタ公爵も許せないが、セットリア国王がリーディを狙っていたとは気が付かなかった。
「離れに放置して一度も会いにきていないって言っていたから、まさかセットリア国王がリーディにそんなに執着していたなんて、気が付かなかった」
二度も襲撃されていたのに、放置していたくらいだ。
「あれが執着しているのは、リーディ本人ではないからな。イリス王国にとって唯一の王女を手に入れようとしていただけだ」
「利用したって言っていたが、そんな奴からリーディを助けられたんなら、俺にとっても本望だよ」
湊斗は思わずそう呟く。
それに本当に利用しただけなら、最後に理佐を助け出してくれる必要はなかった。
アンドリューズは遠い王城を思い出すように、視線を窓の外に向けた。
「クレイと会ったか?」
「会った。彼はイリス国王に、王配になるように命じられたそうだ」
「クレイが? まあ、あいつなら上手く立ち回れるだろう。ずっとリーディを愛していたのも知っている。だが漆黒の剣士の名は、お前が思っているよりも力がある。リーディがお前を選んだら、叶えられるかもしれないぞ」
「もちろん諦める気はない。最大限の努力はするつもりだ」
そう宣言すると、アンドリューズは笑みを浮かべた。
「お前とクレイがいるなら、リーディも心強いだろう」
「でも、リーディは泣いていた」
ぽつりとそう言うと、今まで平然としていたアンドリューズの顔が曇る。それを見て、やはり彼を動かすのはリーディだと確信した。
「泣いていた?」
「ああ、そうだ。ずっと我慢してきたようだが、もう耐えられなかったようだ。いきなり兄が行方不明になって、しかも国を背負えと言われて、不安にならないはずがないだろう? どうして何も説明しないで、放り出したんだ。俺には、理佐のことを考えろとあんなに言っていたのに」
リーディの涙を思い出すとつい感情的になってしまい、湊斗は強い口調でそう言ってしまっていた。
アンドリューズは何も答えない。
ただ、視線を反らしただけだ。
彼の事情を顧みずに責め立ててしまったことに気が付いて、湊斗はごめん、と小さく呟いた。
「でも、リーディはアドリュが思っているよりもずっと強い。都合の良い嘘よりも、痛みを伴っても前に進むために、真実を求めている」
「……そうか」
ようやくそう答えた彼に、湊斗は言葉を続ける。
「俺はリーディに頼まれて、アドリュを探していた。連れてきてほしいと、そう言われたよ」
そう言っても、アンドリューズは承諾しなかった。
だが、それも予想していたことだ。湊斗に言われて戻るくらいなら、最初から失踪したりしない。
「俺はリーディに会うつもりはない。話はそれだけか?」
そう言って部屋を出ようとするアンドリューズの前に、湊斗は立ち塞がる。
ここを通すつもりはない。
強い意志を込めて、彼を見つめた。
漆黒の剣士と呼ばれた湊斗の視線に、さすがのアンドリューズも足を止めた。
「お前を倒していくのは、さすがに無理だな。そこまでするのは、依頼だからか? それともリーディのためか?」
そう問いかけられ、湊斗は少しも迷うことなく頷いた。
「もちろん、リーディのためだ。依頼じゃなくても、俺はその望みを叶えたい。ただそれだけだ」
そう言い切ると、アンドリューズは穏やかな笑みを浮かべた。
湊斗がリーディのことが好きで、彼女の望みなら何でも叶えたいと思っていることを、喜んでいるようにも見えた。
「アドリュ。お前が王位を継ぐのが嫌で、王城を出たわけではないことは、俺にだってわかる。隣国に嫁ぐことが決まっていたリーディを、どうしてここまでして連れ戻した?」
「……お前なら、俺から聞かなくても調べられるだろうに」
「たしかに、裏社会の情報屋にはツテがある。でも俺は、アドリュから聞きたかった。何があったんだ?」
問い詰めると、アンドリューズはしばらく考え込んでいる様子だった。
「お前がリーディの傍で生きると決めたのなら、すべて話そう。これからリーディを守るために必要だろうし、クレイが知っていてお前が知らないのも不公平だからな」
「もしかして、俺と出逢わなかったらあいつにリーディを託していたのか?」
「ああ、そうだな」
やはりクレイはすべてを知っていたのだと、その言葉で確信する。
そして彼は国王だけではなく、アンドリューズの中でもリーディの夫として候補に挙がっていることも。
思っていたよりもクレイは強敵だったと、湊斗は思わず舌打ちをする。
「イリス国王に、士官の申し入れをしてある。俺には妹と一緒に生きる場所が必要だ。もしリーディが俺を選ばなくても、あの国に留まろうと思っている」
向けられた目をまっすぐに見返してそう言うと、アンドリューズは満足そうに頷いた。
「そう焦らなくても、今はお前の方が優位だ。一番大切なのはリーディの気持ちだし、クレイは俺のせいで警戒されているだろうからな」
言われてみると、たしかにクレイよりはリーディに信頼されている。
「……やっぱりアドリュが裏で色々と命令していたのか。そう考えると、さすがにちょっと気の毒だな」
クレイとノースの姿を思い出す。
主に忠実で、真面目そうなふたりのことだ。きっと主を騙してしまった自分達に、もう傍に仕える資格はないとか思っていそうだ。それがますますリーディを追い詰めてしまうというのに。
「でもまあ、あいつには長年培ってきた信頼がある。誤解さえ解けたら、すぐに話がまとまるかもしれない」
「アドリュはどっちの味方なんだよ」
思わずそう言うと、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「リーディがしあわせになれるなら、どっちでもいい。むしろお前達以外でもいいくらいだ」
「いや、いくら何でもそれは……」
いまさら、クレイでも自分でもない男を選ばれたらたまらない。そう思って文句を言おうとした湊斗は、アンドリューズの顔を見た途端、口を噤む。
その表情を見た途端、湊斗は悟ったのだ。
彼は、いつもとまったく変わりがないと思っていた。突然現れた湊斗を見ても平然としているくらいだ。何にも動じず、不敵なほど堂々としている男だと。
だが、今のアンドリューズは穏やか過ぎる。
これはすべてを諦め、大切にしてきたものを手放してきた者の顔だ。
この世界に来てから色々な経験をしてきた湊斗には、そんな表情を浮かべている人と接したことが何度もあった。
だから湊斗がどう説得しても、彼がもう二度と王城に戻るつもりがないということが、わかってしまった。
今までの言動からわかるように、アンドリューズは妹であるリーディをとても大切にしているし、国を思う気持ちもある。それなのにどうして、このような形で消息を絶ったのか。
そこまでしなければならないほどのことが、あったのだ。
「アドリュ……」
思わず気遣うように声をかけると、それだけで湊斗が何を思っているのか察したのか。アンドリューズは苦笑すると、部屋の中央に戻り、先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろす。
「まさか気付かれるとは」
「これでも、今まで色んな人と会ってきたからな」
「それがお前の財産だな。剣の腕よりも頑丈な身体よりも、それを大切にするといい。必ず、リーディの役に立つ」
剣の腕ばかり求められてきた湊斗にとって、それは新鮮な言葉だった。
たしかに色々な人達と接してきた経験は、これから国を背負うことになるリーディの役に立つに違いない。
同時に、彼が本当にリーディのことしか考えていないことに、思わず笑みがこぼれる。
「本当にリーディのことが大事なんだな」
まあ、妹だから当然か。
そう言うと、アンドリューズは急に視線を反らした。
「アドリュ?」
その横顔に憂いが宿っているような気がして、胸騒ぎがする。
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