第30話
「兄様に会いたい。会って、ちゃんと話がしたい。このまま会えなくなるなんて、そんなの嫌よ」
思わず声に出してそう言うと、隣に座っていた理佐が抱き締めてくれる。
「うん。そうだよね。わたしも、あのままお兄ちゃんに会えなかったら、とてもつらい人生を送っていたと思う。リィにそんな思いをしてほしくない」
「でも、どうしたら……」
王都に立ち入らないと約束したのなら、兄はどんな事情があってもそれを守るだろう。破天荒に見えても、そういうことはきちんとした人だった。
「お兄ちゃんに頼んでみたらどうかな?」
「湊斗に?」
「うん。リィは王女様だから、お城から離れたら駄目なのはわかるよ。アドリュさんのいるところは国境に近いし、まだ隣の国の王様が、リィのこと諦めていなかったら危険だもの。でもお兄ちゃんなら、何があってもリィを守れるよ」
むしろ湊斗にしかできないと、理佐は言う。
「お兄ちゃんはリィを、絶対に危険に晒したりしないから。だから、連れて行ってもらえばいいよ」
きっと湊斗なら、リーディの望みを叶えてくれる。
でもそんなことをしたら、彼に迷惑をかけてしまうことにならないだろうか。そしてようやく体調が落ち着いてきた父に、さらに心労をかけてしまうことにならないだろうか。
兄に会いたい。
でも湊斗や父のことも大切なのだ。
迷うリーディに、理佐はもう口を挟まず、それでもいつまでも寄り添ってくれた。
そんな理佐の態度に、自分で決めることが大切なのだと悟る。
もう二度と兄に会うことができなくても、もし無謀な行動をして父の信頼を失うようなことになっても、自分で悩んで決めたことなら、きっと後悔はしない。
「理佐、ありがとう」
しっかりと握られていた手に力を込める。
「明日まで悩んで、そして自分で決めようと思う」
「うん。わたしは何があってもリィの味方だからね。それを忘れないでね」
そうしてようやく寝台に横になった。
でもまだリーディは眠れない。眠るわけにはいかない。
背を向けている理佐もまた起きている気配を感じながら、リーディは静かに考えを巡らせていた。
翌日。
理佐と一緒に朝食をとり、食後のお茶を飲みながらゆっくりと話をして、気持ちを落ち着かせる。
これから、リーディがどう動こうとしているのか。心を決めたことが、理佐にはわかったに違いない。でも彼女は何も聞かずにお茶に付き合ってくれた。
「理佐、色々と話を聞いてくれてありがとう」
思わずそう言うと、彼女はそれくらい何でもないと首を振る。
「初めて会ったとき、わたしもお兄ちゃんも、リィが王女様だって知らなかったわ。だから今でも、リィのことは王女様じゃなくて、大切な友達だと思う」
だからね、と理佐は屈託なく笑った。
「上手く言えないけど、これから先、リィの立場がどんなに変わったとしても、わたし達の関係は変わらない。女王様になったって、リィはわたしの大切な友達よ」
「理佐……」
これから変わってく立場。変えなければならない意識。
そんな中で、関係が変わらないと言ってくれる理佐の存在がどれだけ心強いか。
「ありがとう。理佐、大好きよ」
「うん、わたしも。ずっと仲良しでいようね」
そう言うと理佐は、大きく手を振って自分の部屋に帰って行った。
(理佐が傍にいてくれて、本当によかった)
その後ろ姿を見送りながら、そう思う。
最初の出逢いこそ特殊なものだったが、今では本当に大切な親友だと思っている。
それからリーディはきちんと身支度を整えると、侍女に湊斗を呼んできてほしいと頼んだ。
彼はすぐにやってきてくれた。いつものように全身黒ずくめの彼は、リーディを見て柔らかく微笑む。
「おはよう、リーディ」
「おはよう。ごめんなさい、朝早くから」
「いや、構わないよ。ちょうど朝練も終わったしね」
「朝練?」
「ああ。毎朝剣を振らないと、どうも落ち着かなくて」
彼はそう言って、腰に差していた剣を示した。
湊斗のような優れた剣士でも、毎朝しっかりと鍛錬しているのだ。
「すごいわ」
思わず感嘆すると、彼は照れたように笑う。
その年相応な表情を見ていると、彼が凄まじいほどの剣の使い手であることが信じられないくらいだ。
それでも湊斗は、あの高名な漆黒の剣士。
彼がこうして傍にいてくれることを、今でも不思議に思う。
リーディは緊張を解すように大きく息を吐いた。それから、静かに話を切り出す。
「湊斗に、お願いがあるの」
「俺に?」
「ええ」
少しだけ躊躇したあと、願いを口にする。
「兄様に会わせてほしいの。最後に、一度だけでいいからきちんと話がしたい。このまま別れてしまったら、きっと一生後悔するわ」
「リーディ……」
一晩中、悩んだ。
あえて厳しい言葉を選んで、心の整理をしようとしている父。
何も語らずに去った兄。
これから国を背負う立場になる、自分自身のこと。
思いとどまらせる理由は、いくつもあった。
それでもあきらめきれなかった。
どうしても、もう一度だけ兄に会いたかったのだ。
「湊斗、お願い。わたしを兄様のところに連れて行って」
わがままを言うのは、これが最後。
これからは何もかも捨てて、この国のために尽くそう。そう決意したリーディに、湊斗は少しの間だけ考え込むような表情を見せる。
「城から王女を……。しかも隣国に狙われている王太女を連れ出すなんて、本来なら許されないことなんだろうな。きっとイリス国王もアドリュも、クレイだって反対する」
「……湊斗」
リーディは俯く。
それでも兄に会いたいと願うリーディの心を、湊斗は救い上げてくれた。
「でも俺は、リーディの味方だから。その願いなら何でも叶えてやりたいし、その力もあると思っている。俺を頼ってくれて嬉しいよ。必ずアドリュに会わせてやる」
力強い言葉に、思わず涙ぐみながらその腕の中に飛び込む。
「ありがとう、湊斗。迷惑をかけてしまうかもしれないのに、わたし……」
「迷惑だなんて。俺自身でも持て余していたこの力を、リーディのために使えて嬉しいんだ。だから、これからも俺の前では、王女でいる必要はないよ。いつものリーディでいてほしい」
優しくそう言われて、胸が熱くなる。
「とにかくリーディには、これからも俺と理佐がついている。だから心配するな」
「……うん。ありがとう」
涙を堪えて、頷いた。
いつのまにか湊斗の存在が、リーディの中でだんだん大きくなっていく。こんなふうに、望みをすべて叶えてくれる人がいるなんて思わなかった。
「それでも、さすがに無断でリーディを連れ出したら騒ぎが大きくなる。イリス国王に許可を取るのが一番だけど」
「お父様は、けっして許さないと思うわ」
「そうだな。アドリュのことはすごく心配していた様子だったけど、イリス国王として、許可するわけにはいかないだろう。だからあのふたりに協力してもらう」
「あのふたり?」
「ああ。リーディがいなくなったら真っ先に気が付くだろう、クレイとノースだ」
「……クレイとノースに」
ふたりとも、大切な幼馴染で友人だ。
それでも兄のことがあってから、その関係が少し変わってしまったように感じていた。リーディの願い通り、これからも傍にいてくれることになったが、それでも完全に元の関係に戻ることは難しいかもしれないと考えていたのだ。
クレイとノースもまた、リーディを騙してしまった罪悪感を抱え続けている。
「リーディがあのふたりを信じて打ち明ければ、きっと元のように信頼し合えるんじゃないかな」
そう言ってくれる湊斗はそれを感じ取り、何とかしようと思ってくれたのかもしれない。
「そうね。ふたりにわたしの気持ちを話してみる。そして、どうしても兄様に会いたいと言ってみるわ」
あのふたりが協力してくれるなら、数日リーディが不在でも、上手く誤魔化してくれる。
「ああ。理佐もいるし、数日なら大丈夫だろう。俺は少し準備をしてくる。ふたりのことは頼んだ」
「ええ、わかったわ」
湊斗は理佐にするように優しくリーディの髪を撫でて、部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送り、ぎゅっと手を握り締めた。
(ふたりを説得して、味方になってもらわなくては)
ノースはともかく、クレイを説得するのはきっと難しい。
もし説得できなかったら、クレイはすぐに父に話を通し、リーディを城から出さないようにするかもしれない。そうならないように、頑張らなくては。
リーディはしばらく考えをまとめたあと、ノースとクレイを部屋に呼び出した。
ふたりはすぐに来てくれた。
目の前に並んで立っているクレイとノースを見つめながら、リーディは慎重に言葉を選ぶ。
「急に呼び出したりして、ごめんなさい。ふたりにお願いがあって来てもらったの」
先ほど湊斗に話したときより、緊張した。
「お願い、ですか?」
「ええ。どうしても、やりたいことがあって。そのためには、ふたりの協力が必要なの」
そう懇願しながら、ふたりを見上げた。
ノースは真剣な表情でリーディを見つめていた。
何を言われるのかわからずに少し緊張している様子だったが、それでもリーディのためになりたいと思ってくれているのがわかる。
きちんと気持ちを話して説得すれば、きっと協力してもらえるだろう。
問題は、クレイだ。
リーディはやや緊張した面持ちでクレイを見上げる。
だが彼は、リーディが想像もしなかったような、穏やかな表情で彼女を見つめていた。
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