第33話(完結)
まだ夜が明けないうちから、ふたりは組合の支部を出発した。ここに住んでいるらしいあの受付の女性が、見送ってくれた。
「どうぞお気をつけて」
「世話になった」
「ありがとうございました」
そう言葉を交わして、暗い道を足早に歩いていく。
兄が待っているのは、ここから少し山のほうにある小さな村らしい。馬車が通れないので、歩いていく必要があった。
「リーディ、休みながら行くけど、無理はしないように」
「ええ、わかったわ」
頷き、油断なく周囲を見渡して歩く彼の背後に付き従った。
昨日とは別人のような鋭い視線、凛とした横顔に、ときどき見惚れてしまう。
自覚したあとの恋は、恐ろしいくらいの速度で想いが深まっていく。
「リーディ? 疲れたのか?」
「ううん、大丈夫。まだ歩けるわ」
油断してはいけない。
ここは安全な王城ではないのだと思い直し、ただ歩いた。こんな様子では兄と再会したときに、からかわれてしまうかもしれない。きっとあの兄なら、リーディが湊斗に恋をしたことを一発で見抜くに違いない。
雑念を捨てて、ひたすら歩く。途中何度か休憩しながらも、昼前には目的地である村に到着することができた。
その村は広い畑と小さな家が数件あるだけの、簡素な村だった。当然、宿のようなものもない。
「ここに、兄様が……」
「誰かいないか探してみよう」
もう昼になるというのに、村内に人影はまったくない。
湊斗はリーディを守りながら、慎重に村の中を進んでいく。
「こっちだ」
ふいに、近くの家の中から兄の声が聞こえてきた。
それを聞いた途端、湊斗の手を離れて走り出していた。
「兄様!」
「リーディ、待て! 確認しないと危険だ」
慌てた湊斗が手を伸ばしてリーディを掴まえようとするが、それよりも早く、声がした家の中に飛び込んでいく。
勢いがついた身体を、しっかりと抱き締めてくれる腕。
顔を見るまでもなく、それが兄だとすぐにわかった。
「兄様……」
その胸に縋ると、最後に会ったときのように優しく頭を撫でられる。そんなことをされると、もう涙を堪えることができなくなってしまう。
兄だと疑いもなく信じていた人が、突然他人だったと言われて。
急に背負わされた重荷。
変わってしまった環境。
学ばなければならない、たくさんのこと。
それらがいっきに押し寄せてきて、涙が溢れ出る。
「兄様の、嘘つき。帰ったら全部説明してくれるって……。王城で会おうって言ったのに……」
そうしなければならない理由があった。
兄が、どれだけ悲痛な思いでそれをやり遂げたのか知っているのに、リーディの口から出たのはわがままを言う子どものような言葉ばかり。
「リーディ」
でも兄は、そんなリーディをしっかりと抱き締め、落ち着かせるように背を撫でてくれる。それは母が亡くなった日、悲しみのあまり一睡もできなかったリーディを慰めてくれたあのときと同じ温もり。
本当の身内でも、いつか離れなければならない日は来る。
それにリーディは、もう祖国には帰らないつもりでセットリア王国に赴いた。もし兄が即位しても、そう簡単には会えない関係になっただろう。
今の自分の立場を考えれば、軽率な行動だということは理解している。協力してくれた湊斗やクレイ、ノースにも迷惑をかけてしまうかもしれない。
それでもあんなふうに別れてしまうのは嫌だった。
もう一度だけでいいから、最後に会いたかった。
「すまない。お前には、ひどいことばかりした」
兄の謝罪に、何度も大きく首を振る。
「兄様が悪いわけじゃないもの。……ちゃんとわかっているわ」
責められるべきは、他人の子どもを王の子と偽った兄の母であり、王妃と通じた兄の父。
だが、どちらもすでに亡くなっている。故人を責めたくはないし、だからといって兄が、その罪を背負う必要などない。
「兄様はいつまでもわたしの兄様よ。それだけは、これからも変わらない」
ただそれだけは伝えたくて、リーディはそう言った。
たとえ血の繋がりがなくても、どれだけ互いの立場が違ってしまったとしても、変わることのない想い。
すると、今まで慈しむような優しい視線を注いでいたアンドリューズの目が、初めて揺らぐ。
「今でも俺を、兄だと言ってくれるのか」
「そんなの当たり前じゃない。わたしの兄様なのに」
抗議するようにそう言うと、泣きじゃくっていたリーディを慰めるように抱いていた兄の腕が離れた。顔を上げる間もなく、今度は縋るようにして抱き締められる。
「兄様?」
「……俺は、もう兄ではないとお前に言われるのが怖かったのかもしれない。だから、ろくに説明もせずにすべてを終わらせて、あの場所から逃げた」
初めて、アンドリューズがその胸のうちを語ってくれた。いつも平然としていて、何事にも動じない兄が初めて怖いと打ち明けてくれたのだ。
「そうだよね。怖いよね。今までの世界が、全部嘘だったなんて。すべて崩れてなくなってしまったなんて……」
リーディは兄の身体を、しっかりと胸に抱き締める。
こうして触れてみると、記憶にある姿よりも、随分と痩せてしまったようだ。兄も、ずっと思い悩んでいたのだろう。
「でもわたしたちの関係は、何があっても絶対に変わらないから。兄様は、ずっとわたしの兄様だから」
抱き合うふたりの背後で、湊斗が声をかけることも、ふたりの中に入ることもできずに戸惑っている気配を感じる。
でも今だけは、兄を優先させたい。
リーディは互いが落ち着くまで、しっかりと抱き締め合っていた。
しばらくそうしていたあと、ようやくリーディは振り向き、背後に立つ湊斗を見上げる。
「ごめんなさい、湊斗。わたしをここまで連れてきてくれて、ありがとう」
「いや、いいんだ。俺はリーディの望みなら、何でも叶えたいと思っている」
「湊斗……」
そんなふたりの様子を見て、アンドリューズは途端にからかうような笑みを浮かべる。
「何だ、もう勝負はついたのか。思っていたよりも早かったな」
「もう、兄様! からかわないでください!」
いつもの兄に戻ったことに安心しながらも、リーディはわざと怒ったように声を張り上げる。
「からかってなどいないさ。ただ、もう少し時間が掛かると思っていたからな」
これで俺も安心だ。
そう呟いた兄の声に、リーディは両手をきつく握り締める。
(ああ、兄様とは本当に、これでお別れなのね……)
家族でも、いつまでも一緒にいられるわけではない。
それがわかっていても、寂しさと心細さが胸の中に広がる。
だが、そんなリーディの心がわかったかのように、湊斗がリーディの肩を抱き寄せた。
「湊斗?」
「リーディと、イリス王国は俺が必ず守ってみせる。だから心配いらない」
そうきっぱりと言い切った湊斗に、アンドリューズも笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、頼む。俺が守れなかったものを、お前に託すよ。湊斗なら安心だ」
真摯に頷く湊斗の姿に、不安だった心が宥められていく。
(そうよ。何があってもふたりで乗り越えていこうって誓ったばかりだもの)
信頼を込めて彼を見上げ、頷き合う。
「アドリュは、これからどうするんだ?」
「俺は……」
湊斗の問いかけに、兄は少しだけ考える素振りをみせる。それから何か思いついたように立ち上がった。
「もう昼過ぎだな。何か用意するか。まだ時間があるなら、ゆっくりと話そう」
これが最後だから。
そんなことを呟きながら、兄の姿が奥の部屋に消える。しばらくすると、パンが焼ける香ばしい匂いがしてきた。その匂いで空腹を思い出す。そういえば早朝に出発したせいで、何も食べていなかった。やがて軽く温めたパンと具沢山の野菜のシチューが目の前に並べられる。
「え、兄様が作ったの?」
「ああ。簡単なものくらいは作れる」
そういえば林檎を剥く手つきも器用だったし、お茶を淹れるのも上手かったと思い出す。
「本当に兄様って、何でもできるのね……」
この兄ならば、どこで暮らしても大丈夫なのかもしれない。
そう考えると、少しだけ心が晴れやかになる。
「もしアドリュがこの国を出ようと思っているなら、頼みたいことがある」
和やかに何気ない話をしながら食事を終えると、ふいに湊斗が真剣な顔をして兄にそう言った。
「頼み?」
「俺も各国を放浪していたときから、この国の噂は聞いていた。実際に暮らしてみて、この国がこれほどまで周囲から狙われる理由がよくわかった」
湊斗はそう言うと、視線を落とす。
「セットリア王国はそんなに雪が多く降るわけじゃないけど、寒さが厳しい。キマリラ王国は、国土の多くが乾燥した不毛の地。そんな中、イリス王国は自然豊かなとても美しい国だ。狙われるのも無理はないと思うし、きっとこれからも仕掛けてくると思う」
その言葉に、アンドリューズも頷く。
「ああ、そうだろうな。漆黒の剣士がイリス王国の騎士になったと広まれば、表立って対立するようなことはないと思うが……」
「それでもまだ、若い女性が後継者になったと聞けば、裏で色々と画策する者がいそうだ。他国の正確な情報がほしい。だが俺はもう、リーディの傍を離れるわけにはいかない。だから……」
「代わりに俺に、他国の状況を探れ、ということか」
湊斗は頷き、リーディの肩を抱く。
兄は少しだけ考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「わかった。俺ができなかったことを湊斗がやってくれる。だから俺は、湊斗ができないことをやろう」
「……兄様」
アンドリューズはリーディの呼びかけに笑みを浮かべる。
「リーディ。俺にもまだ、お前のためにできることがありそうだ」
そうしてキニスの町にある冒険者組合を通して、情報のやりとりをすることになった。これなら兄がこの国を離れても、連絡が途絶えることはない。
湊斗なら、他の国の情報を探る伝手はありそうだ。きっと、自分のために兄に頼んでくれたのだろう。ありがとう、と小さく呟くと、湊斗はすべてわかっているように、優しく微笑んでくれた。
兄と離れるのはつらいが、いつまでも王城を留守にするわけにはいかない。
「さようならは言わないわ、兄様。きっとまた会えるって信じているから」
リーディの言葉に、兄は困ったような顔をしたけれど、否定することなく頷いてくれた。
「ああ、そうだな。いつか、また」
何度も振り返りながら、リーディは町に戻る。
見送ってくれた兄の姿は少しずつ小さくなり、そうして見えなくなった。
様々な想いが胸に溢れ、何も言えない。湊斗に守られながら、無言で歩き続けた。
しばらく歩くと、見晴らしの良い丘に出る。
「ここで少し休もうか」
そう言われて、素直に頷いた。
眼前に広がるのは、自然豊かなイリスの大地。
湊斗の肩に寄り掛かりながら、その景色を眺めた。
「本当に、イリスは綺麗な国ね」
こうして外に出ることがなければ、わからなかったかもしれない。
「そうだね。俺も色々な国を回ったけど、その中でも美しい国だと思うよ」
だからこそ、近隣諸国から狙われている。そんなイリス王国を、これから背負わなければならないのだ。
「今でも不安はあるわ。わたしに、兄様の代わりなんてできるかしら」
「代わりになる必要なんてないさ」
リーディはリーディのやり方で。
そう言われて、頷いた。
たしかに兄と同じことはできない。自分でできることを、精一杯やるしかない。
「大丈夫だ。リーディはひとりじゃない」
理佐と、ノース。クレイ。
そうして湊斗が傍にいてくれる。
リーディの望みならすべて叶えると言ってくれた彼は、優しい顔をして見守ってくれていた。
最初の出逢いから今までのことを思い返しながら手を差し伸べると、しっかりと握られる。
「そうね。みんなと一緒に頑張るわ」
本当は、隣国の王妃になるはずだった。
でも今のリーディは、このイリス王国の後継者。
王太女になるのだ。
「兄様、見ていてね。わたし、頑張るから」
きっと遠くから見守ってくれているだろう。
「さあ、帰ろう」
「ええ。みんな待っているもの」
険しい山でも、こうして手を取り合って一歩ずつ進めば、きっと辿り着ける。
リーディは最後に一度だけ兄のいる方向を振り返り、そうして今度こそ迷いなく歩き出した。
※ここで一応、完結となります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
敵国に嫁ぐ予定でしたが、異世界から来た女性が王妃になると聞いたので、国に帰ろうと思います。 櫻井みこと @sakuraimicoto
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