第32話
それから湊斗が迎えに来るまで、旅支度の最終確認をしたり、三人で雑談したりとして過ごしていた。
そうしてとうとう日が暮れると、湊斗が迎えに来てくれた。リーディは理佐とノースに後を頼み、クレイの手引きによって王城をあとにする。裏門にも警備兵がいてどうしようかと思ったが、クレイが話を通してくれたらしく、すんなりと通ることができた。
湊斗とふたりだけなら、こんなにスムーズにはいかなかっただろうし、そもそも王城から出ることすらできなかったかもしれない。でもそのクレイがこんな無謀な行為を許してくれたのも、漆黒の剣士である湊斗の存在があったからだ。
必ず守ると言ってくれた湊斗の言葉通り、旅はとても順調だった。途中で立ち寄った宿も安全が確保されたものであり、リーディの世話をしてくれる女性までつけてくれた。もちろん、部屋は別々だ。
移動は貸し切り馬車。さらに湊斗に雇われたらしい護衛が、先行して道の安全を確保してくれていて、危険な目どころか他人と会うことも稀だった。湊斗は常に油断なく周囲を見渡しているが、リーディのほうはすっかり寛いで、窓の外の景色に魅入っていた。
「あ、ごめんなさい。緊張感がなくて」
ふと我に返って謝罪する。湊斗にばかり警戒させてしまって、申し訳ないような気持ちになったのだ。
だが湊斗は気にすることはないと、明るく言ってくれる。
「いや、リーディの安全を確保するのは俺の役目だから。だから気にせずに、まずは旅を楽しんで」
「ありがとう」
優しい言葉に謝意を伝えて、素直にそうしていた。
セットリア王国に移住する前は、視察などの公務で外に出ることも多かった。でも今後は王太女という立場になるのだから、そう頻繁に外出することもないかもしれない。
なにせ今のリーディには代わりがいない。
イリス王家の直系は、リーディしかいないのだから。
旅は順調で、数日後には湊斗が兄と最後に会ったキニスという町に辿り着くことができた。
湊斗はまず宿を確保した。国境に近いこの町は宿をとるのが大変らしい。
それから兄と会えたという冒険者の組合に向かう。冒険者というものは、やや粗暴な者が多いらしく、湊斗はリーディを守るようにしっかりと寄り添ってくれた。
ようやく兄に会える。
そう思うと喜びよりも緊張のほうが勝ってしまい、リーディも知らずに湊斗の腕をしがみつくようにして握り締めていた。
軋んだ扉を開けて中に入ると、受付にひとりの女性が座っていた。
きっと彼女も元冒険者なのだろうと思わせる、凛々しい顔立ちの美しい女性だ。年齢は兄よりも少し上かもしれない。彼女は入ってきた湊斗とリーディに視線を向けると、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
一度湊斗と会っているという彼女には、ふたりの目的がわかったのかもしれない。それでも別の受付を呼び、ふたりを誰もいない部屋に案内してくれた。
「アドリュ様に会いに来たのかしら。残念だけど、彼はもうこの町にはいないわ」
「……えっ」
彼女の言葉に、リーディは息を呑む。
クレイとノース、そして湊斗と理佐にまで協力してもらって王城を出たのに、それでも兄には会えないのか。
肩を落とすリーディを抱き寄せ、湊斗はその女性に詰め寄る。
「アドリュはいつまでここに? 今はどこにいるのか、知らないか?」
漆黒の剣士と呼ばれた湊斗の鋭い視線に少しも動じず、その女性はちらりと視線をリーディに向ける。
「漆黒の剣士が、ひとりの女性を守りながら旅をしている。そのことは、もう裏社会でかなり噂になっているわ。もちろん、あなたと繋がりのある人達がその女性の素性を暴露するはずもないけれど、それでも彼女が誰なのか、目的地がどこなのか。随分噂になっている」
湊斗はリーディの安全を確保するために、今まで築いてきた人脈も頼ると言っていた。それがどういう人達なのかリーディにはよくわからないが、旅の途中で護衛してくれた人達のことなのだろう。
それはたしかにリーディを守ってくれた。でも、ふたりが旅をしているという噂は兄の耳にまで届いてしまったのだ。
(兄様……)
それほど自分達に会いたくなかったのだろうか。そう思って落ち込むリーディを慰めるように優しく背を撫でて、湊斗はきっぱりと言う。
「リーディを守るためには、必要だった」
「ええ。国境近くはセットリア王国の人間の出入りも多いし、キマリラ王国の人間が忍んでいる可能性もあるわ」
そういう女性は、こちらの事情にもかなり詳しい様子だった。兄が、彼女にすべてを話したのだろうか。
「でも裏世界だけではなく、漆黒の剣士の動きを探っている権力者たちも、あなた達の動向を見守っていた。そんな目的地に彼は居続けることはできなかった」
俯くふたりに、彼女は微笑んだ。
「大丈夫よ。彼は別の場所であなた達を待っているわ」
そう言うと地図を広げて場所を指し示す。湊斗は食い入るように地図を見たあと、無言で頷いた。
それから彼女は、目的地はこの冒険者組合だったと示すためにも、今夜はここに泊まって、明日の早朝に出たほうがいいと言った。そう提案されて、ふたりは揃って頷く。宿はいつも混みあっているので、キャンセルをしても大丈夫だろう。
それに冒険者組合なら宿屋よりも警備がしっかりとしているし、貴重な物が管理されていることもあるので、奥の部屋には怪しい者は侵入することもできない。
「ごめんなさい、部屋はひとつしかないけど、大丈夫かしら?」
そう言われて湊斗は慌てた様子だったが、リーディは大丈夫です、と頷く。これほど自分を大切に守ってくれる湊斗が、怖いはずもない。
宿のキャンセルも食事の手配も彼女がしてくれることになり、リーディは湊斗が外で待っている間に手早く着替えをして、その用意してもらった部屋で休んでいた。
兄に会えると思ってかなり緊張していたので、少し気が抜けたようだ。
「リーディ、大丈夫か?」
「ええ、平気よ。少し気が抜けただけ」
ここまでの道のりはほとんど馬車だったし、湊斗が慎重に進んでくれたので疲れてもいない。そう伝えたのに、湊斗はどこか落ち込んでいるように見える。
「どうしたの?」
「俺は、駄目だな。アドリュのことまで考えられなかった。どんなに強くなっても、ひとつのことしか考えられないようじゃ……」
「……湊斗」
それを聞いてリーディは立ち上がり、彼の傍に座った。そっと、その背に手を添える。
「リーディを守るためには、あまり忍んでもだめだと思った。裏社会の奴らのやり方は陰湿だからね。俺がここまでするほど、大切な人間だと示したほうが安全だと思った。でも、アドリュのことまで考えが及ばなかった……」
「兄様なら、大丈夫よ」
落ち込んでいる彼が、なぜかとても愛しく感じて、リーディはその背をゆっくりと優しく撫でる。
「だってこうして、自分でちゃんと対処しているもの。兄様は自分のことは自分で何とかできる。だから湊斗が兄様のことまで背負うことはないわ」
出逢ったときから、彼は漆黒の剣士だった。
誰よりも強くて、勇ましい剣士だった。
彼のことをとても頼りにしていたし、味方でいてくれる幸運に感謝したこともある。
でも今の湊斗は、失敗に落ち込んでいるどこにでもいる青年のようだ。
リーディはそんな彼を慰めたい。傍で支えたいと強く思っている。
周囲にいる男性、父や兄、そしてクレイはとても強い人間だったから、こんなことを思うのは初めてだった。
(ああ、今ならわかる。わたしも最初から湊斗のことを、漆黒の剣士としてしか見ていなかったのね……)
けっして敵に回すわけにはいかない、最強の剣士。ずっとそう思っていたのかもしれない。でも現実の彼は、落ち込んだり悩んだりする、普通の人間だった。
「リーディの傍にいるには、誰よりも強くなければならないのに」
俯いたままそう言う湊斗に、リーディは首を振る。
「そんなことはないわ。たしかに湊斗はわたしを助けてくれた。湊斗がいなかったら、今頃はどうなっていたかわからない。でも、助けてくれるから傍にいてほしいわけではないわ」
支えたい。
守られるだけではなく、自分も役に立ちたい。
こんな感情は初めてで、リーディは戸惑いながらも、それでも精一杯、想いを口にしていく。
「湊斗がわたしを守ってくれるように、湊斗ができないことがあったら、それをわたしが補いたい。できることなんてほとんどないかもしれないけど、それでもふたり一緒なら、きっと……」
恋をしてみろ。
ふと、兄の顔が浮かんだ。
誰かに愛された記憶は、これから厳しい道を歩むお前の心をきっと支えてくれる。兄はそう言っていた。
リーディは目を閉じて、その言葉を噛み締める。
(兄様の言う通りだわ)
これから何が待ち受けていても、湊斗と一緒ならきっと乗り越えられる。リーディは疑うこともできないくらい、そう強く信じていた。
湊斗はとても優しくて、いつでもリーディを過保護なくらいしっかりと守ってくれた。でも、ただ守られているだけでは、こんな心境にはならなかったかもしれない。
きっとクレイのように、ただ兄として慕うだけだった。
「リーディ?」
ようやく顔を上げた湊斗に、リーディは鮮やかに微笑む。
「ふたり一緒なら、きっと何があっても乗り越えられるわ。だから湊斗。ずっと傍にいてね。誰よりも近くで、あなたに女王となるわたしを支えてほしい」
そう告げると、湊斗は信じられないとでも言うように目を見開いた。そっと差し伸べられた手を、リーディはしっかりと握る。
「リーディ……、本当に?」
その手が、世界でも最強と言われている漆黒の剣士の手が震えているのを感じて、それをさらに包み込むようにして握り締めた。
あれだけ悩んでいたのが嘘のように、心はもう決まっていた。
きっかけは些細なこと。
それでも自覚していなかっただけで、リーディの心に芽生えた恋はずっと少しずつ育っていたのだろう。
湊斗と一緒に。ふたりで支え合って、生きていきたい。
「ありがとう、湊斗。わたしを守ってくれて。わたしを愛してくれて。わたしもあなたを愛しているわ。だから、ひとりで何もかも背負わないで」
「ああ、リーディ。夢みたいだ。この迷い込んだ世界で、こんなしあわせを見つけるなんて……」
ふいに抱き締められ、その腕のあまりの強さに息が止まりそうになる。でも、この湊斗にとっては異世界であるこの地で、孤独に生きてきた彼の時間を思うと切なくなる。
「わたしも理佐も、もうあなたをひとりにしない。ずっと一緒よ。だから大丈夫。もう何も心配しなくていいわ」
苦しさを堪えてそう言いながら、彼の漆黒の髪を撫でる。そうしているうちに、ようやく少し力が抜けてきた。湊斗に気が付かれないようにそっと息を吐き、リーディは湊斗が離れるまで、優しく髪を撫でていた。
弱くて、誰からも守られてきた自分が、こんなふうに誰かを、しかも世界最強と言われた漆黒の剣士を慰めたい、守りたいと思うようになるなんて思わなかった。
「ご、ごめん、リーディ。苦しかった?」
ようやく力を入れ過ぎたことに気付いたらしい湊斗が、慌てて手を離す。
大丈夫だと微笑み、それから受付の女性が食事を持ってきてくれるまで、ふたりで寄り添っていた。
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