第16話

 まだ国境までは遠いし、この周辺には何もないはずだ。止まった馬車に不審を覚えて前方を見たリーディは、目の前の光景に小さく声を上げた。

「あっ……」

 馬車の前に立ち塞がる、ひとりの男の姿。

 髪も服装も、持っている剣の刀身もすべて黒いその姿は、間違いなく漆黒の剣士。リィとして知り合い、ほのかな恋心を抱きつつあった湊斗だった。

「そんな……、湊斗様?」

 王都から遠く離れたこんな場所で、彼と遭遇するとは思わなかった。

 しかも彼は剣を手にしていた。

 また襲撃なのかと、馬車の中に緊張が走る。

 父の見舞いのために祖国に帰るはずのリーディには、数人の護衛しかいない。

 あまり仰々しいと、セットリア国王に怪しまれるかもしれないからだ。国境近くの町で、先に王城を出ていた警備兵と侍女、そして兄と合流する予定だった。

(どうしよう……) 

 隣に座っていたノースが、リーディを庇うようにして身を乗り出した。同乗していた他の侍女達も、覚悟を決めたような顔をしていた。

 だが彼女達のそんな悲壮な決意も、漆黒の剣士を止めることはできないだろう。

 湊斗は桁違いに強い。

 このままでは、犠牲が大きくなるだけだ。

 リーディは組み合わせた両手が白くなるくらい、ぎゅっと握り締める。

(兄様は、湊斗様がディスタ公爵に利用されていると言っていた。でも理佐が彼らの手の中にある以上、こちらが何を言っても駄目でしょうね。でも……)

 せめて、湊斗を騙していたことを詫びたい。

 無謀かもしれない。

 だが漆黒の剣士に狙われてしまったら逃げようがないのだから、馬車に隠れていても同じことだ。ここに兄がいない今、他の誰にも漆黒の剣士を止めることができない。

「姫様!」

 止めるノースを振り切って、リーディは馬車の窓から顔を出す。

「リィ」

 リーディの姿を見た湊斗は、弱々しい声でそう呟いた。

 その声に胸が痛む。

 彼にしてみれば、恋をした相手のすべてが嘘だったのだ。困惑するのは当然だろうし、恨まれても仕方がない。

(ちゃんと謝らないと。湊斗様は、あんなにまっすぐに好意を伝えてくれたのに)

 彼と話をしようと、リーディは馬車を降りる。

 湊斗が呼んだリィという名前がリーディの偽りの名前だと知っているノースも、その背後に付き従ってくれた。

 最後に会ったときも着ていた侍女の服装のまま、リーディは湊斗の前に立った。

 湊斗も、静かな目でリーディを見つめていた。

 殺気は感じられない。

「ごめんなさい、わたしは……」

 名前も身分も偽りだったことを謝罪しよう。そう思って口を開きかけたリーディに、湊斗は少し微笑んだ。

「うん、わかっている。君はリィじゃなくて……。イリス王国の王女、リーディだったんだね」

「え?」

 どうして彼がそれを知っているのか。

 驚くリーディの目の前で、湊斗は持っていた剣を鞘に納めたまま地面に突き刺す。

 敵意はないというのだろう。

「アドリュにすべてを聞いた。俺も君に謝らないといけない。理佐のためとはいえ、君に剣を向けようとした。……本当に、すまない」

 思ってもみなかった言葉に、リーディは呆然とする。

「湊斗様……」

 理佐がいる以上、湊斗がこちら側につくことはないと思っていた。

 相当な覚悟をもって彼の前に立ったリーディは、安堵から足の力が抜けそうになるのを必死に堪える。

「兄様は、何を……」

「リーディのこと、セットリア王国とイリス王国の関係、すべてを話してくれた。そして警備の隙を見て、理佐を連れ出してくれるはずだ。国境近くで合流する手はずになっている」

 湊斗はそう言った。

 警備兵に扮している兄ならば、たしかに理佐を連れて王城から抜け出すこともできるだろう。

「リィ……、いや、リーディかな」

「リィでいいわ。子どもの頃、そう呼ばれていたの。わたしのほうこそ、あなたに嘘をついてごめんなさい」

 名前も身分も、すべて偽っていたことを謝罪する。そして、どうして理佐の部屋に忍び込んでいたのかも。

「そうか。やっぱりアドリュの言っていることはすべて正しかったんだな。それなのに俺は……。俺のほうこそ、許されないことをした。よりによって君に剣を向けるなんて」

「理佐様のためなら、仕方ないわ」

 彼の大切な、唯一の身内。

 守りたいと思うのは当然だ。

「その理佐も、俺のしたことを知って怒っている。俺の足枷になるくらいなら、ひとりで生きていくと言われてしまって」

 肩を落とす湊斗を慰めるように、リーディは彼の背に触れた。

 きっと理佐が思っている以上に、湊斗の中で妹の存在は大きい。

 妹を守るためなら、今まではけっして請け負うことのなかった、奇襲のような仕事も引き受けてしまったくらいだ。

「リィに嫌われて、理佐にも見捨てられたら、俺はもうどうしたら……」

「わたしは別に、湊斗様のことを嫌ったりしません」

 ひとりごとのようなその言葉に思わず反応してそう言うと、彼は驚いた顔をしてリーディを見る。

「だって俺は、リィを襲おうとしたのに」

「理佐様のためだとわかっていますから」

 微笑んでそう言うと、湊斗はふいに頬を染めて視線を反らした。女神か、と呟く声が聞こえた。

 そんな反応をされてしまうと、リーディもつい意識してしまう。

「と、とにかくアドリュにリィの護衛を頼まれたんだ。はやくイリス王国に入ってしまおう」

「兄様に?」

「ああ。リィは俺が必ず守る」

 力強い言葉に、不安がすべて消えていく。

 国境まではあと少し。

 しかも湊斗が守ってくれるというなら、怖いものなど何もない。

 これで兄と理佐、そして先に逃げていた者達と合流すれば、全員揃ってイリス王国に帰ることができる。

(でも兄様、大丈夫かしら)

 ふと、不安になる。

 向こうにとっても切り札となる理佐を、そう簡単に連れ出すことなどできるのだろうか。

「アドリュなら大丈夫だ」

 そんなリーディの心を見透かしたように、一緒に馬車に乗り込んだ湊斗が笑ってそう言う。大切な妹を託しているというのに、彼には不安そうな様子がまったくなかった。

「きっとあっさり王城を抜けて、俺達より先に到着しているかもしれない」

「そうですね。兄様は悪巧みが得意だから」

 湊斗の、兄に対する信頼が心地良い。思わずリーディも笑顔になった。

「ああ、そうだな。俺が騙されていたことも、これからに対する迷いも、全部吹き飛ばしてくれた」

「兄様が?」

 湊斗はそんなリーディに微笑みかけて、言葉を続ける。

「俺と理佐が異世界から迷い込んだ人間だっていうのは、リィも知っているだろう?」

「はい。日本という国から来たのだと」

 湊斗は、もう戻れない故郷を思っているのか、遠い目をしていた。

「セットリア国王の補佐をしているディスタ公爵という男が、その日本に戻る方法を知っていると俺に言ったんだ。理佐もそうだったけど、俺が初めてこの世界に来たのも、あの国の森だった。俺のときは、追ってくる警備兵を振り切って逃げたんだけどね」

 故郷を語っていた湊斗の切なそうな目を思い出す。帰る方法があるのならば、生まれた国に帰りたいと思うのは当然だ。

 しかも妹の理佐も、同じ森に辿り着いた。

 だから湊斗は信じてしまったのだ。

 もしかしたら、自分達を召喚したのはセットリア王国の者ではないのか。もしそうだとしたら、本当に帰す方法も知っているのではないかと。

「せめて理佐だけでも、日本に帰せたらと思って」

「理佐様だけ、ですか?」

「ああ。帰すのは理佐だけって言う条件だったから」

 ディスタ公爵は湊斗の名声とその剣の腕を、とことん利用するつもりだったのだろう。

「殺さなくていい。脅かすだけでいいと言われて。さらにイリス王国の王女は王城に住んでいる理佐のことを、国王の愛人だと誤解している。理佐を狙っていた他国の人間も、その王女の手引きだった。このままでは命も狙われる――なんて聞かされて。俺は、ただ理佐を守りたくて、何とか日本に帰したくて……」

 たったひとりの身内を思う湊斗の心を、ディスタ公爵は狡猾に利用した。

「……帰る方法は、あったのですか?」

 せめてそれだけは真実であってほしい。

 そう思いながら尋ねたリーディに、湊斗は首を振る。

「なかった。そんなものは、最初からなかったんだ。アドリュが調べてくれた。あの森は昔から、異世界に通じてしまうことがあったらしい。でもそれは偶然に起きるもので、原因はまったく不明だった」

 理佐がこの世界に来たのも、ただ湊斗が呑み込まれた次元の歪みに落ちてしまっただけなのかもしれない。

「馬鹿だな、俺は。剣の腕だけ磨いても、こんなことじゃ……」

 簡単に騙されて利用されたと彼は俯く。

 でも湊斗の妹に対する愛と、故郷に対する想いを知っていたリーディにはそうは思えない。

 帰れる方法があると聞けば、ますます郷愁にかられるだろう。

 そしてもう二度と会えないと思っていた妹を、守りたいと思うのも当然のことだ。

 ディスタはそんな気持ちを巧みに利用し、湊斗さえ手駒にしようとした。

「でも大丈夫です。誤解はすべて解けたし、悪い人の企みも露見しました。わたしも兄様も無事だし、理佐様と湊斗様も無事です。だからもう何も心配することはありません」

 沈んでいる湊斗を慰めたくて、リーディは明るい声でそう言った。

 いろいろとあったが、最悪の事態は避けられた。それに湊斗と理佐とあのまま別れることになってしまったら、ずっと後悔しただろう。

「……そうだな。俺は、俺にできることをやるしかないか」

 そう言った湊斗の目には、強い意志が戻っていた。

 リーディはほっとして、馬車の座席に深く座りなおす。

 このまま順調に走り続ければ、夕方にはイリス王国の国境に着くはずだ。国境を越えてから兄と理佐のふたりと合流する。

 みんなで、イリスの王城に帰るのだ。

(そうしたら、すべて終わるわ。兄様も全部説明してくれると言っていたもの。もう、驚くことも迷うこともなく、普通の日常を取り戻せる)

 だがその前にまず、父にすべてを話して叱られなければならない。

 王城に忍び込み、さらに侍女の真似事までやったのだ。

 でも兄のほうが、もっと叱られるだろう。そうしたら、自分のことは棚に上げて、いつものようにふたりを仲裁しよう。

 兄がこんなことをしたのも妹を心配してのことだろうし、父が兄を叱るのも、やはり心配してのことなのだ。

 家族なのだから、ちゃんと話し合いをすれば大丈夫だと、リーディは信じていた。

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