第17話

 それからは何事もなく、拍子抜けするくらいあっさりと、リーディを乗せた馬車は国境の近くまで辿り着いた。

 もう夕方近くになっているので、人影は少ない。

 イリス王国とセットリア王国は長年国交が途絶えていたが、それはリーディの婚約とともに再開され、今では軍に所属しておらず、犯罪者でなければ両国の行き来が可能になっている。

 それでもまだ、互いの国を警戒し合っているというのが現状だった。

 国境から少し離れた町に、軍の駐屯所を作っているのはイリスも同じだ。兄はそこに、ノースの兄であるクレイが待っていると言っていた。

(クレイに会うのも久しぶりだわ)

 馬車の窓から紅色に染まった木々を見つめながら、リーディはクレイのことを思い出す。

 この木の葉と同じように、鮮やかな紅い髪をした男だ。妹のノースとよく似た顔立ちの美形で、王城内での人気は一番だった。性格は穏やかで優しいが、騎士の家系だけあって剣の腕も相当らしい。

(そういえば兄様だって、顔立ちはなかなかだし剣の腕も立つのに、城ではまったく人気がなかったわね……)

 むしろ何をするかわからないから怖いと、侍女達に恐れられている有様だった。

 イリス王国の王太子の婚約者がなかなか決まらないのは、そんな噂のせいかもしれない。

 兄の妻になるのはどんな女性だろうと、リーディはなんとなく考える。普通の貴族の女性では、きっと無理だ。

 そんなことを考えているうちに、馬車は国境に辿り着いた。 

 イリス王女が父の見舞いのために帰国することは、国境にいる警備兵にも伝わっていたらしく、とくに問題もなく国境を通り抜ける。人のよさそうな警備兵の青年に笑顔で見送られ、リーディはあまりにも順調すぎてかえって戸惑ったくらいだ。

(もっと殺伐としていると思っていたわ……)

 王城では二度も襲撃され命を狙われていたというのに、王都を出てから襲撃もなく、国境さえもなんなく通り抜けてしまった。

 ここはもう、祖国であるイリス王国だ。

 自然豊かな美しい光景。

(帰ってきたのね)

 リーディは窓から懐かしい祖国を眺める。

 煉瓦を敷き詰めた街道に積もった落ち葉が、視界を鮮やかに彩っていた。

 まだこの木が青々とした葉を茂らせていた頃、リーディは祖国に別れを告げてセットリア王国に入った。もう二度と、帰ることはないと思っていたのに。

「リィ! お兄ちゃん!」

 そんな感傷に浸っていたリーディの耳に、元気な声が飛び込んでくる。馬車から顔を出すと、理佐が元気に手を振りながら走り寄ってきた。

 背後には、アンドリューズの姿もある。

 湊斗の言っていたように、本当に彼らのほうが先に着いていたようだ。

 それでも無事な姿を見るまで不安だったリーディは、ほっと息を吐く。

「理佐様と、兄様も。よかった、無事だったのね」

 止まった馬車から降りると、理佐が抱きついてきた。リーディも、しっかりと彼女を抱き締める。

「うん。リィも無事でよかった。あ、お兄ちゃんも」

 理佐は馬車から降りてきた湊斗に、にっこりと微笑みながら近寄る。

 このふたりも無事に再会できてよかったと思ったリーディの目の前で、理佐は思い切り湊斗の足の脛を蹴飛ばした。

「いっ!」

 無防備だった湊斗は痛みに飛び上がる。

「り、理佐様?」

 あまりにも予想外な理佐の行動に、リーディも驚いて声を上げてしまう。

「お前、何を……」

「お兄ちゃんの馬鹿! まだ許していないんだからね!」

 足の痛みに悶絶する湊斗に、理佐は叫ぶようにして言った。

「もうお兄ちゃんと離れ離れになるなんて嫌だよ。この世界で一緒に暮らしたい。わたしの気持ちも聞かないで、勝手に暴走して。しかもリィを襲おうとするなんて!」

 その叫び声は、次第に涙混じりになっていく。

「……ごめん」

 湊斗は小さくそう呟いて、俯いた。

「ごめんな、理佐。勝手にお前の人生を決めようとした」

 それもすべて、理佐を大切に思っていたからだ。リーディはそれだけしか言おうとしない湊斗に代わってそれを伝えようとするが、理佐の表情を見て思いとどまる。

「お兄ちゃん、ふたりで頑張って生きていこう。お兄ちゃんと一緒なら、わたしは異世界だってかまわないよ」

 理佐は全部わかっている。その上で、湊斗がひとりで暴走して、無茶なことをしないようにこうしたのだ。

「リィもごめんね……。あ、王女様なんだっけ。ええと、リーディ様?」

 戸惑う理佐に、湊斗に言ったようにリィでいいと言う。

「じゃあわたしも理佐って呼んでね」

「ええ、わかったわ」

 顔を見合わせ、微笑む。

 出逢いは奇妙なものだったが、彼女との縁がこれからも続くことが嬉しかった。

「そろそろ日が暮れる。早く町に入って、今日は休んだほうがいい」

 そう言ったのは、いままで静かに事の成り行きを見守っていた兄だった。

「そうね。もう暗くなってしまうわ」

 もうイリス王国に戻ったのだから、夜通し走る必要はない。

 リーディは頷き、理佐と一緒に馬車に乗り込む。

 大型の馬車なので、湊斗とアンドリューズも問題なく乗れるだろう。だがふたりは馬車から少し離れたところで、何やら話し合っている。真剣な表情に急かすこともできなくて、話が終わるまで待っていた。

「リーディ」

 ようやく話が終わったのか兄に呼ばれ、リーディは馬車の窓から顔を出す。だがアンドリューズは呼び出したにも関わらず、何も言わずにただリーディを見つめている。

「兄様?」

 その兄の目を見て、不安に襲われる。

 もうこれ以上何も起こらないはずだ。ここはもう祖国であるイリス王国。湊斗と理佐も一緒にいる。

 それなのにどうして、兄の目から悲しみの色が消えていないのだろう。

「俺は一度、セットリア王国に戻ろうと思う」

 やがて兄は静かにそう言った。

「え? どうして?」

 ようやく祖国に帰ってきたというのに、どうしてまた戻る必要があるのか。そう尋ねるリーディに、アンドリューズは迎えにいく、と言う。

「迎え?」

「ああ、離れに置いてきた仲間達を迎えにいく。さすがに理佐まで連れ出してしまったからな。このままでは危険かもしれない」

 また王城に戻ろうというのか。

 不安を隠せないリーディに、アンドリューズは大丈夫だと笑う。

「裏ルートを行くから大丈夫だ。お前のことは湊斗に頼んでおいたし、町に行けばクレイもいる。もう危険はないと思うが、気を付けろよ」

 そう言うとアンドリューズは手を伸ばして、リーディの金の髪に触れた。頭を撫でられるなんて子どものとき以来で、思わず頬が赤く染まってしまう。

「もう、兄様! 子ども扱いしないで」

「そうだな、もう子どもじゃないか。王城で会おう」

 そう言うとアンドリューズは、たちまち馬に乗って走り去っていく。

(兄様、気を付けて)

 兄の後ろ姿を見えなくなるまで見つめた。

 漠然とした不安が胸に宿っている。それを振り払うようにして首を振り、リーディはノースと理佐、そして湊斗を見た。

「行きましょう」

 馬車は町に向かって走り出した。

 もうすっかり日が暮れていて、見上げると紫色の空に星が瞬いているのがみえた。

 辿り着いた小さな町では、兄が言っていたようにクレイがリーディの到着を待っていた。

 今夜はこの町に泊まり、翌日に王都に向けて十発することになっている。

 だが率いてきた軍は国境付近で待機しているらしく、リーディ達を迎えたのはクレイと彼の副官のふたりだけだった。

「御無事で何よりでした」

 恭しくリーディを迎えたあと、クレイは穏やかな声でそう言う。

 肩まで伸びた紅色の髪を背後でひとつに結び、紺色の軍服を来た彼の姿は最後に会ったときよりも凛々しくなったように見える。

 クレイはリーディの背後に控えている妹のノースに頷き、そうして理佐と湊斗に目を移す。

「こちらは?」

「湊斗と、理佐よ」

 湊斗からも名前で呼んでほしいと言われたリーディは、少し照れながらもそう紹介する。

「……まさか」

 さすがに軍人だけあって、クレイは湊斗の正体にすぐ気が付いたようだ。驚いたように目を見開く彼に、リーディは頷く。

「そう、漆黒の剣士様よ」

 どうやって連絡をとったのかわからないが、クレイを迎えに寄越した兄は、湊斗のことまでは伝えていなかったようだ。

「それは……大切なお客様ですね」

 丁重に迎えようとするクレイに、湊斗は首を振る。

「いや、俺はただのリィの護衛だ。アドリュにそう頼まれたから」

 リィがリーディのことであり、アドリュがアンドリューズのことだと、すぐに察したのだろう。クレイはその秀麗な顔をわずかにしかめる。

「そう、でしたか」

 微妙な空気が漂っているような気がして、リーディは取りなすように明るく告げた。

「大丈夫よ。湊斗は、わたしの護衛を命じられたくらいで怒るような人ではないから」

 漆黒の剣士にわざわざリーディの護衛を頼んだことを、クレイは案じているのだと思ったのだ。

 だが部屋に案内され、理佐とふたりきりになると、彼女は大きくため息をついた。

「もう、リィったら鈍すぎ。あの人は別に、お兄ちゃんに気を遣ったんじゃないよ?」

「え?」

 小さな町だが、国境の近くなので大きめの宿があった。その宿の一番大きな部屋に理佐と一緒に泊まることにしたリーディは、彼女の言葉に首を傾げる。

「どういうこと?」

「あの人は、リィの護衛なら自分がいるのにって思ったんだよ」

「兄様がそう命令したからでしょう?」

 クレイは兄の側近だ。

 戸惑いながらそう答えると、理佐は鈍いなぁ、と言いながら苦笑する。

「リィはまだ恋をしたことがないんだね。恋って、ある意味怖いんだよ。わたし達の国は平和だったから、恋って人生を左右するほどのことだったもん」

 たしかに以前のリーディには恋などする暇もなかったし、そんなつもりもなかった。湊斗にほのかな恋心を抱いたときでさえ、王女である自分の立場を忘れたことはなかったのだ。

「恋で人生を棒に振ってしまう人もいる。だからアドリュさんに頼まれたんだよね。もしリィが戸惑ったり困っていたりしたら、アドバイスしてほしいって」

「……兄様が?」

 うん、そう、と理佐は明るく笑う。

 きっと心配してくれたのだろう。

 婚約したものの、おそらく破棄になって国に帰るだろう妹に、せめて恋だけでもしてみろと言ったのは兄だし、リーディを王城から逃し、国に帰れるようにいろいろと手を尽くしてくれたのも兄だった。

 それなのに、どうして逃げ道を少しずつ塞がれているような、不安な気持ちになってしまうのだろう。

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