いってきます。ただいま(1)
リュシュカは相変わらずラチェスタからの連絡を待ちながら、セシフィールでのんびり過ごしていた。
ラチェスタによる厳しい生活の反動で最初の頃は昼近くまで寝ていたが、最近は早く起きて走ったりもしている。健康にはいいが、婚約者の姫の行動としては周りにだいぶ引かれている。
走り込んだあとに朝食を食べ、散歩がてら城の裏手の湖畔を見にいくと、遠くにアンリエッタがいるのが見えた。
隣には彼女よりも少しだけ年長に見える背の高い男性がいる。
アンリエッタはその人にとろけそうな笑みを向けていた。
聞かなくても相手が誰だかわかる。あれは絶対に彼女の婚約者だ。本人が気づいているのかはわからないけれど、あれは彼の前でだけ出る表情なんだろう。
アンリエッタがリュシュカに気づいた。
リュシュカも手を振ってみせる。彼女の顔は微笑んではいたけれど、先ほどまでのものとは全く違っていた。
近くに行って声をかける。
「アンリエッタの婚約者の人だ」
アンリエッタは「まぁ! なぜおわかりになったの?」と目を丸くして言う。
「レイモン様です。レイモン様、こちら兄の婚約者のリュシュカ様ですわ」
「クラングラン様の……?」
「そうですわ! お兄様はリュシュカに夢中ですのよ!」
「……クラングラン様が!?」
「いやあ……照れるなあ」
頭を掻きながらも思う。アンリエッタ、まさか方々でこんなこと言ってるんだろうか。そろそろクラングランに小言をくらわないだろうか。いや、あの人なんだかんだこの妹には甘そうだ。
「今日はデート?」
「うふふ。そうなんですの」
二人は甘やかな視線を交わして笑い合う。
──なんか、特別な感じする。
市街で会った少年の声が甦った。
クラングランも、そういう顔をリュシュカに見せてくれているのだろうか。それで、リュシュカももしかして、彼の前でそんな顔をしているんだろうか。
二人に別れを告げ湖畔を離れると、騎士団倉庫に向かった。
木箱を浮かせる練習をするためだ。
クラングランは忙しい。だから一応イザークに許可を取って監督してもらっていたが、三つほど破裂させてしまった。
「ごめん、ごめんなさい!」
「いや、すごいな……すごい。正確に木箱が狙えているじゃないですか」
「いや、破裂させてるし……」
「いや、使い道のなくなった木箱を役立ててもらえて助かっていますよ。細かくしてもらえると廃棄もしやすい。それにどんどんよくなっています。最初の破裂より次の破裂のほうが景気がよかった!」
「いや浮かせたいから景気いいとダメなんだけど……」
「何言ってるんですか! そんな力があるなんて、それだけでもすごいことです! 自信を持っていいです! しかも努力してるんだから余計に偉い!」
リュシュカは平謝りしていたが、イザークは初めて見る魔術に感心してたくさん褒めてくれた。頑張ろうという気持ちがむくむくと膨らむ。イザークは間違いなく人材を伸ばす人だ。
しばらくやって、イザークに礼を言って練習を終える。
外に出ると青い空に浮かぶ太陽がじりじりと熱を増していた。
「暑くなってきたなあ」
リュシュカは独りごちた。
だいぶ疲れたし、そろそろ城内に戻ったほうがよさそうだ。
喉の渇きを覚えて厨房に入ると料理人のガストンがリュシュカに気づく。
「あ、リュシュカ様、喉渇いてませんか?」
「今すごく渇いてるよ!」
「これどうですかね? ソーダに入れるスパイスの調合を変えてみたんですけど……」
差し出されたコップを受け取り、ごくごくと半分ほど飲んだ。
「うーん、おいしい! これ暑い日もいいけどお肉とか脂っこいものにも合いそう!」
「よかった! じゃあ今日の昼飯にまた出しますよ!」
一部に困惑されてはいたが、一部はすでにリュシュカに慣れ始めている。リュシュカは日々、顔見知りを増やし、すっかりわがもの顔で城を闊歩していた。
昼食を食べてお腹がいっぱいになると王城の一室で昼寝をする。
そこは、今はほとんど使われていない応接室で、誰も人は入ってこない。長椅子もあるし風通しもよく、午睡にうってつけだった。
そよそよと風が窓から入ってくる。
うっすら目を開けた時、そこが辺境の家じゃないことに一瞬だけ混乱する。
ほんの少し寂しくなって、けれど、クラングランのことを思い出したらここにいてよかったと思えた。
浅い微睡の中、扉が開く音がして誰かが部屋に入ってくる気配がした。そちらに視線をやる。
「クラングラン……今何時?」
「また寝てたのか。寝すぎだろ……」
「どこにいても見つけてくるね」
「お前が一番最初にいた辺境に比べたらどこも探しやすいもんだ」
クラングランはそう言ってリュシュカの寝ている長椅子に寄りかかるようにして床に座る。
クラングランの顔は少し疲れている。
旅をしていた頃は、ろくに眠らず質素な食事しかとらずに動きまわる日もあった。その頃のほうが断然元気に見える。
「俺は屋内で会議だ書類だやるのは性に合わないんだ……外で猪みたいな男をのしてるほうがよほど楽しい……」
クラングランは立てた片方の膝に頬杖をついてゲンナリとこぼしている。
「おつかれさま」
リュシュカは長椅子の上からクラングランの首にふわっと巻きついた。クラングランはその手をそっと掴んだ。
クラングランは毎日、あっちに行ってあれをしたあとこっちに行ってこれをして、そのあとそっちでそれをしなければならない日々を送っている。あれとこれとそれは毎度多彩に案件があるので、リュシュカはいちいち覚えていない。
そして、あれとこれとそれの合間に時間ができるとふらっとリュシュカを探しにくる。短い時間近くにいて、すぐにまたどこかへノソノソ出かけていくのだ。
クラングランのその行動は依存というにはあまりにごく自然で、焦って探してるわけでも恋焦がれて会いにきている感じとも違う。動物の雄が狩を終えて巣に戻ってくる、そんなものが近いように感じられた。
「リュシュカ、さっきラチェスタから連絡が届いた」
「え、そうなの? もしかして帰還要請?」
クラングランは頷いた。
「ああ。近日中には迎えが来る。お前はそれで一度エルヴァスカに戻れとのことだ」
「うん」
「あと数週間すれば進めている重い案件が片付く。それが終わり次第、今度は俺がエルヴァスカに迎えにいくことになった」
「エルヴァスカ、来る必要ある?」
「ラチェスタの要請だ」
「そうかあ」
さほどやる気のない声を出したリュシュカはまたクラングランのうなじあたりに顔を埋める。温かな体温と、彼の匂いがほのかにして安心する。
クラングランが首だけで振り向いてリュシュカを見る。目が合って、小さく唇が合わせられた。
***
数日後、予告通りにラチェスタの迎えがきて、リュシュカは出発するため、城門前にいた。
「リュシュカ様、本当にこの妙薬はお持ちしなくてよろしいんですか?!」
「いらない!」
「こちらの健康汁は……」
「いらない!」
「リュシュカ様、戻ってくるまでに例のメニュー改良しときますんで!」
「楽しみにしてる」
「リュシュカ、道中お気をつけて。またすぐにお会いできるのを願ってますわ」
「うん、アンリエッタも元気でね」
城を発つ馬車の前に何人か見送りに出てきてくれて、それぞれ言葉をくれた。クシャドとイザークはちょうど仕事でいなかったが挨拶は事前にすませている。そして、クラングランもそこにいた。
「クラングラン、いってきます」
「ああ。すぐに迎えにいく」
クラングランは、「いってきます」が言える相手になった。
それで、リュシュカはきっと、これから帰る先でも「ただいま」を言うだろう。
どちらもリュシュカにとって大切な、帰る場所だからだ。
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