再教育(2)
ざ、ざ、ざ。
青い空の下、自分の駆ける足音を聞いている。
リュシュカはラチェスタの屋敷の裏庭をぐるぐると走っていた。
ひとりで走っているといろんな記憶がまとわりついてくる。
爺ちゃんの笑い顔。クラングランの喉元にあてられていたナイフに反射した光。爺ちゃんの抜け穴の薄暗さ。ひとりでした埋葬。目を覚ました時に見たラチェスタの顔。
そのすべてを振り払うように走る。
走る。走る。走る。
視界が揺れる。汗が落ちる。息が切れる。
周回を終えたリュシュカは整えられた芝生に倒れこんだ。空が青い。
ふっと思う。
今日は、セシフィールの空も同じように青いんだろうか。
空から視線を外すと、厩番のカーマインとメリナが隅で話し込んでいた。寝転がったまま、それを見るともなく見ていると、メリナが立ち上がってこちらに来る。
「リュシュカ様、申し訳ありません。すぐにお飲み物をお持ちします」
「いいよ。しばらく休憩だし。戻ってから飲む。一緒に戻ろ」
「では、ご一緒します」
「メリナ、カーマインと仲良いんだね」
「え? そう見えます?」
メリナは自分の両方の頬を包むようにして言う。
何気なく言っただけなのに思わぬ反応をされてしまった。そういえば、二人は歳もそこそこ近いかもしれない。
メリナは貴族のお嬢さんだ。懸想した相手と簡単に結婚できるわけではない。それぞれ立場だの家柄だのある中、結婚となるとさほど自由にできる人間ばかりではない。それでも恋をするのは自由だ。
「もしかして……恋人だったの?」
「そ、そそそんな関係じゃないですけど! 私、素敵だと思うと、すぐぽうっとなってしまうんです」
「そうなんだ」
「お恥ずかしながら気が多くて……リュシュカ様には、そういった方、おられます?」
「恋愛ねえ。環境が特殊だったから……あまり考えたことがないなあ」
「では、好きな方はいたことがないんですか?」
「うーん、だからその辺の区別って、どうしてるの?」
「え?」
「区切りが微妙なんだよね。好きってさぁ。メリナもヨルイドもミュランもスノウも好きといえば好きだし……」
「それとはぜんぜん違いますよう!」
「メリナの基準は? どこで好意を、『恋』と『好き』に振り分けてる?」
メリナは数秒黙って考えたあと、ポッと赤くなった。
「あ、あ、あくまで私の基準でも……よろしいですか?」
「聞きたい!」
「こ、こ、こんなことを言うと……はしたないですけど……わ、わかりやすいと思うので……」
メリナが真っ赤になってぱくぱくといいよどむ。
「言ってみて! 受け止めるから!」
メリナはプルプルしながら、目をぎゅっとつぶって言った。
「キッ……キスしたくなるのが、恋してる相手です!」
「……キ……ッ」
リュシュカは目を見開いて動きを止めた。
酒場で交わされるような下世話な下ネタくらいならたくさん聞いたことがある。聞いたところで下品なだけで、どうも思わない。
しかし、見知らぬおっさんの吐き出すえげつない体験談や下ネタより、自分がよく知るうぶな感じの女の子から発せられる『キスしたい』のほうが、時に、よりエロく感じられることもあるという知見を得た。
だいぶ包んであるが、要は『好き』に性的興奮を含むかどうかだと言ってるのだ。メリナが……あのメリナが。
リュシュカはじんわりと頬が赤くなった。
なぜだか恥ずかしくてたまらない。
「……そんな相手はいらっしゃいますか?」
「い、いない……と、思うけど……」
リュシュカは首を横に振る。
そういえば、想像したことはあるけど。
でもあれは状況が状況だった。貞操の危機を感じれば誰でも想像してしまうものだと……思う。
「で、では、お好きなタイプの……理想の殿方は?」
「それも考えたことないなあ」
「じゃあ考えてみましょうよ!」
「え? みる! 考えてみる」
そっちのほうが断然考えやすい。メリナはきゃぴきゃぴと喜んで聞いてくる。リュシュカもテンションが上がってきた。
二人は屋敷に入って、メリナが冷たいお茶を持ってきてくれた。それを一気に飲み干し、はぁと息を吐いた。
「リュシュカ様、理想の男性、もう考えましたかぁ?」
「あ、まだ。今浮かべてみる」
リュシュカは素直に自分の理想の男性を浮かべようとした。
「あー、えっと……わたし、ずっと爺ちゃんと二人で暮らしてきたから……」
「あ、周りに殿方がいらっしゃらなかったんですものね!」
「ううん。そうじゃなくて、爺ちゃん基準だから……たぶん理想がむちゃくちゃ高いんだ」
「え……ゾマド様並みの……たくましい方でなくては駄目なんですか?」
「ううん。べつにマッチョじゃなくてもいいんだけど……めちゃくちゃ強くて優しくて賢くて、でも適当さもほどほどにあって……」
「ふんふん……」
あれ? 言いながら、なんだか変だなと思う。
「それで……信念、みたいなものもあって……周りのことも考えられて……それで……」
「ふんふん。お顔はこだわらないんですね?」
理想の男性を浮かべていたリュシュカは首を横に振る。
「………………ううん。二人といない、目を見張るような美形がいい……」
「えっ……それはまた……」
「それから……優しいのに素直じゃなくて……好き嫌いもあって、皮肉屋で意地悪だし、自信過剰でデリカシーがなくて……」
メリナが「……ああ、なんだ」と言ってふんわりと笑う。
「リュシュカ様はもう心に決めた方がいらっしゃったんですね」
リュシュカはだいぶほかほかと赤くなった。
「……そんなに対象になる人がいないから、ほかに浮かばなかっただけかもしれない」
「えぇっ!」
「そんなに驚かなくても」
「あの、私が以前違うお屋敷にいたのは前に言ったと思うんですけど……ラチェスタ様のお屋敷はラチェスタ様はもちろんのこと、なんだかイケメン揃いなんですよ!」
「うーん、言われてみれば確かにそうなのかな」
正直ラチェスタのことは怖くてそんな目で見れない。だが、厩番、護衛騎士、料理人、姿を浮かべてみれば、みな素敵な殿方といえるかもしれない。
「リュシュカ様はあっという間に打ち解けて、料理人のマリオスさんとは友達のようになってますよね!」
「うん、あいつ味見させてくれるし、いい奴」
「リュシュカ様の仲良しの騎士様たちも皆さん格好いいじゃないですか!」
「え? あの三馬鹿のこと?」
まぁ、言われてみれば確かに、ヨルイドは眉のキリッとしているガシッとした美男子ではあるし、ミュランは明るく少し気障な顔立ちだ。スノウもやや目つきが悪いが、童顔で可愛らしい顔をしている。
「でも、それだけ仲良しがいるのにほかにまったく誰も浮かばなかったんですよね?」
「……う、うん」
「そういうのを恋というんですよ!」
メリナは拳を振りまわしながら熱弁する。
恋がどうかなんて自分に確認したことはなかったけれど、ほかに浮かばない程度にはリュシュカの頭はクラングランでいっぱいだ。もちろんいつも考えているわけではないが、一日十回くらいは思い出すし、会いたいと思っている。
メリナがほんのり頰を紅潮させ、わずかに息荒く聞いてくる。
「キ、キス……したいですか?」
「え……」
キス? キスってキス?
クラングランと?
リュシュカは頭の中に状況を浮かべ、数秒硬直する。
やがて、爆発したかのように真っ赤になった。
自分が関わらない恋愛話はものすごく離れたところから冷静な顔で見ることができるのというのに。我が身に降りかかるとなるとなぜこうなってしまうのだろう。
リュシュカは俯いてバッと頭を抱えた。
しかし、メリナは追及の声を緩めない。
「リュシュカ様! どうなんですか?! キッス! したいんですか! したくないんですか!?」
メリナは興奮のあまり目を血走らせながら、ぐいぐい身を寄せ聞いてくる。
「……ひ、ひぃ、メリナ……落ち着いて」
「わ、私はキスしたいかしたくないか聞いてるんです! 答えてください! キス!」
「キス……」
まずい。口に出しただけで恥ずかしい。
「したいんですか! どうなんですか!」
「…………し、したいです……」
メリナがふわぁ〜っと赤くなった。
リュシュカはその前からすでに赤い。
くだらぬことで白熱してしまった。
しばらく、リュシュカはメリナと共に涙目ではあはあと荒くなった息を整えた。
ふと気がつくと半分開いた扉の陰から執事のアドニスが覗いていた。
「きゃあぁ!!」
「ひぎゃあ!!」
二人は飛び上がるほど驚いた。
騒ぎすぎで怒られるかと思いきや初老の執事は青ざめた顔で震えながらブツブツ言っている。
「お、お二人は……いつの間にそんなご関係に……私は旦那様になんとご報告すれば……」
「ち、違うよ!」
「すみません! すぐに次の予定の準備を」
そのまま説明するのも気が引けたので、リュシュカは『劇の練習をしていた』とごまかしたが、今度は「どんな破廉恥な演目なんですか……旦那様は変わってしまわれた」といってさめざめしはじめた。
なんとか宥めて帰したときにはぐったりとしていたし、休憩時間も残りわずかだった。
「あーあ……会いたいなぁ」
ぽそりとこぼす。キスはともかく、思い出したらまたクラングランに会いたくなってしまった。
増えた大事な人たち、みんなふいに会えなくなったとしても、きっと遠くで幸せを願える気がする。
クラングランは、そういうのじゃない。
もっと近くで、存在を感じたいし、触れていたい。会えなくなったことでその気持ちは膨れていった。
リュシュカの呟きを聞いていたメリナが微笑んで言う。
「確かに、リュシュカ様のおっしゃるような方が実在しているのなら、私もお会いしてみたいです」
「うん。へへ……二度と……会えないかもしれないけど」
メリナがぽかんとしているところに、テレサが呼びに現れる。
「お嬢様! 何してらっしゃるんです! 淑女教育のお時間ですよ。家庭教師が待ってます! 早く談話室にいらしてください」
二人は顔を見合わせて、慌てて準備を始めた。
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