敵と味方(3)
気がつくと、しとしとと、やわらかな雨が降ってきていた。
「この街は安全じゃない。すぐ発ったほうがいい」
「怪我してんのに何言ってんの? 今日は宿に入って安静にしてようよ」
「一度捕まっているんだぞ」
「怪我安静」
「…………」
「あんせい、ゆずれない」
「…………」
「今この瞬間この世で一番大切なもの……あんせ」
「わかったよ」
リュシュカは急いで宿を見つけ、クラングランの怪我の手当をした。
クラングランの足首は腫れ上がっていた。彼の態度から予想していたより数倍怪我の程度が酷い。
クラングランは疲れていたのか、手当が終わると珍しく、こてんと落ちるように眠ってしまった。
リュシュカはそっと宿を出た。
外は相変わらずしとしとと雨が降っている。商人街に出て追加の医療品とパンと林檎を買って戻った。
部屋に戻ると薄暗い中、クラングランは半身を起こしていた。
「何をそんな驚いてるの?」
「……戻らないかと思ったんだ」
「クラングランが寝てる間に? なんで?」
リュシュカは自分の意思でクラングランと行動しているつもりだ。
もちろん本当に結婚する気があるのかといわれると、どうしようかなあと思うが。とりあえず今の同行は彼に強制されているわけではないし、見張られている感じもしない。
「そう言われれば、そうなんだが……なんとなくお前は黙ってふらっとどこかに行きそうな雰囲気があるからかな……」
「そんな薄情な雰囲気が……?」
だいぶ心外だ。
「……ひとりで大丈夫だったか?」
「うん。フード被ってたし、急いで行ってきた。これ、お水と夕食」
わりと素直に心配してくれたが、今心配しているのはこちらのほうだ。クラングランの前にパンと林檎を差し出す。
「すまない。ありがとう」
クラングランは素直に礼を言った。いつもより可愛げがある。彼はパンを食べ、水差しの水を飲むとまたすぐに寝てしまった。
しとしと。
しとしと。
外は雨が弱く降り続いている。
リュシュカはしばらくクラングランの隣の寝台で読みづらい遺書を読んでいたが、顔を上げると彼の目がうっすら開いていた。
「クラングランは……なんで私を連れていってるの?」
「……前に言ったはずだ」
「……本当にわたしと結婚する気なの?」
「まぁ……そうできればいいと思ってはいる」
この話になると途端にクラングランは煮え切らなくなる。
「ほんと? 国のためにそれを考えて家に来たんだろうけど……クラングラン、最初もあっけなく帰ろうとしたよね」
「もともと迷いはあった。それに、国を出た時とは事情が変わり、お前はただの落とし子ではなくなってきている。今強引に後ろ盾にしようとするのは余計な火種にもなりかねない」
「じゃあ、なんで……」
「お前が……あまりに能天気で……放っておけなかったからだろ」
「ああ……」
そうだ。クラングランは結婚のことは来たからには一応聞いたという感じで、そのあと本題みたいに爺ちゃんのことを聞いて……それから心配そうな顔をしたのだ。
クラングランはあそこでひとりきりで、次々と来る敵か味方かわからない人間と対峙させられるリュシュカを心配してくれたのだ。そして、こんな状態でひとりきりになるリュシュカを放っておけなかった。
結局、今だって自分の目的ではなくてリュシュカの安全のためにそうしているのだ。
結婚を申し込みに来たのにすぐに引き、あっさりと本心をぶちまけたところからしても、クラングランの根底には若者らしい正義感と潔癖さが多分にある。そこが為政者としての彼とぶつかっているようにも見える。
「お前も言っていたが、あの場でお前が目玉取られたら後味悪いだろ。俺が連れていくよりなかった」
クラングランを知るごとに、リュシュカの中でむくむくと膨らむ想いがあった。それは大きさを増しているわりに、明確にこれという感情ではなく、温かいような、苦しいような、そんなもやもやとした塊だ。
「……ねえ、セシフィールって、どんな国?」
「どうってことのない……小さな国だ」
「ふつう?」
「普通だ」
「……いやいや、いくらわたしが辺境で爺ちゃんと二人で暮らしてた世間知らずといえどもさ、普通の国は王子を単身でぽんと他国に放り出したりしないと思うんだよね」
「それは俺が特殊なだけで、国は普通だ。親兄弟は皆きちんと供をつけて行動する」
「クラングラン、兄弟いるんだ」
「ああ。妹がいる」
「ふうん」
「俺は昔から、誰かと行動するのに向いていなかった。俺に供を付けたことで、供だけが怪我をしたり……」
「ああ……」
クラングランが軽々通る道、そんなものに付き合わされて一緒に行くと常人はたいへんな目に遭うだろう。
「それに少し大きくなると供がいるせいで逆に俺が危険にさらされることもあって……だんだん、単独行動が認められようになっていった」
「あー、足を引っ張られちゃうわけだ」
リュシュカは毛布にぐるぐるとくるまりながら言う。
「クラングラン、人外だもんねえ。国で浮いてたんだろうなあ」
「……まあな」
クラングランは見た目から能力から普通の人と何もかもが違う。そういった人間はあるべき場所にいれば能力を発揮できるが、普通の社会では過ごしにくいことも多い。それは、長年爺ちゃんを見ていて感じたことだった。
「クラングラン……爺ちゃんが生きてるうちに……来ればよかったのに」
ぽつりとこぼす。
きっと、クラングランの抱く、人には理解されにくい大変さも、その力の活かし方も、爺ちゃんならきっと全部わかるし、力になれたのに。
「……ゾマドが死んだから俺はお前のところに来た。それは、ありえない話だ」
「わかってるけどさ……」
どうして爺ちゃんはいないんだろう。今になって胸の端にほのかな喪失感が湧く。それはずっと目を逸らしていたことで、けれどまだ焦点を当てるには早すぎる。慌てて気を逸らした。
「クラングランのこと、もっと聞きたい」
「お前が……俺のことを知りたいのか?」
クラングランはだいぶ意外そうな顔をしていた。
「そんな意外?」
「俺に興味を持つ女はたくさんいたが……お前の態度はそれとはだいぶ違うからな」
「だってさ……国に帰ったら、とりあえず周りはわたしとクラングランの婚姻を進めるわけじゃない?」
「……だろうな」
どこかのタイミングでリュシュカが逃げるかもしれない。何かの事情でなくなるかもしれない。けれど、とりあえずこのまま順当にいくとそうなるだろう。
「そしたら少しは気になるよ。結婚相手なわけだし」
「…………」
「クラングランのことを好きな貴族のお嬢さんとかも、いるんだろうしねえ」
「ああ……わんさかいるだろうな」
クラングランは非常に可愛くない返答をよこす。
「だが、国の王子の婚姻なんて、好きだ嫌いだはまず無関係だからな」
「そういうもん?」
「そういうものだ。王族は自分の人生よりも、家族や多くの家臣や、国民にとって一番いい形の婚姻を考えるべきなんだ」
「クラングランの親もそうしてた?」
「……あれは反面教師だが、周りに教えてくれる人間はたくさんいた。その中から自分が正しいと思ったものが自分の意見になる」
「……クラングランには、たくさん知り合いがいるんだねえ」
たくさん知り合いがいて、家族がいて。クラングランの後ろには広い世界がある。
リュシュカの世界はずっと、爺ちゃんと二人きりだったので、そういった複数の意見が存在する広い世界にはなじみがない。それでも、爺ちゃんがいた頃はそれでいいと思っていた。
「そりゃな。国の王子として生まれれば関わる人間も多い…………どうした?」
「なんだろ。わたしの世界は生まれたてと、さほど変わらないんだけど……」
「…………」
「クラングランには、そうじゃない」
リュシュカにとってクラングランは初めてできた友人だけれど、彼には彼の都合があって動いているだけで、彼にはほかに大切な家族や仲間がたくさんいる。
けれど、爺ちゃんを亡くしたリュシュカは、右から見ても、左から見ても、ひとりぼっちだ。爺ちゃんがいなくなったリュシュカの世界には、誰もいない。
クラングランはリュシュカをじっと見ていたが、どこかぼんやりした顔のままふらりと立ち上がる。
そうして、リュシュカの座る寝台の正面まで来て膝をつき、そっと抱きしめた。
「クラングラン……どうしたの」
そう言いながらも、リュシュカはすぐにその身をぎゅっと抱きしめ返していた。
胸に迫り上がってきた想いに、すぐに気づく。
これはきっと今、自分が一番欲しかったものだ。
自分を抱きしめてくれる、自分が抱きしめていい存在。そんなものに、自分が思う以上に飢えて、乾いていた。
抱きしめた体は確かな人間の感触で、今この瞬間、リュシュカはひとりぼっちじゃない。
じわじわと涙が滲み、必死にすがりついた。クラングランの体は、少し熱いくらいだった。
しばらく抱き合っていたが、クラングランはぱっと身を離す。
「悪い。お前は異性との接触が苦手だったな」
「いや、今のはそういうんじゃないって、はっきりわかったし……でも、なんだったの?」
「今のは……」
「う、うん……」
クラングランは少し考えてから言う。
「雨に濡れた可哀想な獣にそうする感覚とよく似ている。他意はまったくない」
「だから、正直すぎるんだってばよ……」
クラングランは自分の寝台に戻り、リュシュカも枕元の灯りを消して布団に潜り込んだ。
「行ってみたいかも……」
ほんの小さな声は暗闇にかき消えそうなくらいに頼りない。
「クラングランの国、見てみたい」
リュシュカはそう言って闇に目を凝らす。
クラングランは眠ってしまっていた。
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