街道沿い(2)
ゼルツィニとレニク、二つの街をつなぐ街道沿いに、大きな宿がぽつんとあった。そんなものをリュシュカが見逃すはずもなく、声高らかに言ってくる。
「クラングラン、宿だよ!」
「…………宿だな」
「隣に浴場ついてるし、裏に小さい山もある!」
「…………」
「宿」
「わかった。泊まろう」
野営のあとだし、リュシュカの乏しい体力を回復させてやるためにも、宿で寝たほうがいいだろう。
簡単な食事を部屋で取ると、リュシュカは宿の浴場を使いに部屋を出ていった。クラングランは旅で増えた荷物を下ろし、剣の手入れをする。
それを終えて、自分も湯を使った。
部屋に戻ったが、そこにリュシュカはいなかった。
しばらく部屋で待っていたが、戻る気配はない。
浴場は宿のすぐ隣に設えてあるが、内部からも行き来できるようになっている。さほどの危険はないはずだと思っていたが、さすがに遅すぎる。心配になって腰に剣を差して探しに出た。
宿の通路から浴場の近くまで行き、立ち止まる。もしまだ中にいるとしても確認できない。
そう思って引き返そうとしていると、通りかかった宿の人間が声をかけてきた。
「お連れさんならさっき外に出ていったわよ」
クラングランは、その言葉にドキリとした。
旅の終わりは近づいていた。
リュシュカがどこかで逃げるならば、今くらいのタイミングかもしれない。そんな想いもうっすらあったからだ。
ただ、クラングランから逃げたとして、彼女はひとりきりでどこに行くつもりなのか。結局のところ、よくわからない連中に追われている現状は何も変わっていない。
けれど、クラングランとて、彼女の弱みにつけこみ利用しようとしてる輩のひとりでしかない。だったら、行く当てがなかったとしても、逃げるよりないかもしれない。それにきっと、リュシュカならひとりでもなんとかできる逞しさもある。
それでも、万が一誰かに連れ去られていたらと、外に出た。あたりを見まわす。
ふと、宿に入る前のリュシュカのはしゃいだ声が思い出される。
──裏に小さい山もある!
クラングランは、山道に足を踏み入れた。そこまで高い場所にはいないだろう。リュシュカが通れる程度の山道を行く。
ほどなくして、山際に膝を抱えて座っているリュシュカを発見した。ほっとして息を吐く。
黙って見ていたが、まったく微動だにせず、固まっているようだった。静かにそこに近づいていく。
「あ、クラングラン」
「何してるんだ」
「山がそこにあったから……」
怒るのも馬鹿らしくなって、クラングランはリュシュカの隣に腰を下ろす。
クシャドのことがあったあとだとはいえ、それからもいつも通りで、笑うこともあった。けれど、やっぱりショックだったのかもしれない。彼女は今になって少し様子がおかしい。
「大丈夫か?」
「うーん、ちょっと、疲れが一気に来たかも……急に色々思い出しちゃって……ちょっとだけ落ち込んで……」
「色々?」
「うん…………その…………あの……」
リュシュカは言葉を一度呑み込んだ。
「──大丈夫。ぜんぜん気にしなくていい」
その声は内容に反していつもより数段力なく弱々しかった。
そもそもがリュシュカは割合平気なときは疲れた疲れたもう駄目だと大袈裟なまでに主張する。伏し目がちに大丈夫だといわれると、逆に心配になる。
「宿に戻ろう」
「もう少しここにいたいから、先に帰ってて」
「こんなとこにひとりで置いていけるか」
「大丈夫だから!」
「……戻るぞ」
クラングランはリュシュカの腕を引いて起こそうとした。
「やだ!」
リュシュカは勢いよく撥ね退ける。警戒心の強い動物に不用意に触れてしまった時のような反応だった。
リュシュカは自分でやっておいて、驚いた顔をした。それからどこか傷ついたような顔で下唇を噛む。
「……リュシュカ」
もう一度、優しく呼びかけて腕を取り引き起こす。彼女は今度は特に抵抗をすることなく起き上がる。手を引くと素直に歩き出す。
「もうちょっと山にいたかっただけなのに……」
リュシュカはブツブツ言っていたが、結局部屋に戻ってきた。
そこにはリュシュカの少ない荷物も置いてある。冷静に考えれば、彼女が先ほど自分から逃げようとしていたわけではないのがわかる。なぜだかそんなことにも頭がまわらなかった。
心のどこかに、彼女がどこかで自分から解放されるために逃げるはずだという思い込みがずっとあったせいだ。
それはもしかしたら願望だったかもしれない。彼女は自分からも逃げて、誰にも利用されることなく自由に生きてほしい。そんな想いが湧いている。
だからクラングランは、どこかでリュシュカがそうしたいならば止めることはしないと思っていた。
けれど、実際に逃げられたと思ったら結局必死になって探してしまった。矛盾してる。
リュシュカは寝台に寝転がり、静かに天井を見つめている。
色々思い出して少し落ち込んでいたと、彼女はそう言っていた。
それがクシャドのことに対してなのか、あるいは、ゾマドを失ったことに対してなのか、どちらにせよリュシュカはたったひとりの親代わりのゾマドを失くしてから、呆れるほどいろんな目に遭ってきている。
それなのに普段の飄々とした言動から、クラングランは彼女がそれをさして気にしていないと思ってしまっていた。
傷つけられた記憶、失ってしまったことの記憶。
それらをまるで気にしない人間などいないのに。
その時、唐突に気づいた。
リュシュカは強いわけではない。そう思っていたのは、自分が彼女にとって弱みを見せていいほどの人間ではないからだ。
──大丈夫。ぜんぜん気にしなくていい。
そんな言葉がその証だった。信頼して全て心を預けられるような相手ではないから、見せていなかった。
その事実は思ったよりも強い衝撃で、胸が凍りつくような気持ちに苛まれた。
取ろうとした手を撥ね退けた時のリュシュカの金色の瞳が浮かぶ。
それでも、元気のないリュシュカを見るのは辛かった。
なんとかしてやりたい。けれど、考えてみても自分が彼女にできることなんて何もない気がした。
ゾマドがいたらどうしていたのだろうか。
リュシュカと会ってからクラングランは会ったこともないゾマドと自分を比較してその差に愕然とすることがある。
なぜそんな意味のない比較をしてしまうのかはわからない。ただ、その度に自分の弱さや未熟さに苛まれる。
クラングランは、リュシュカと会ってちらほらと話を聞くごとに、いつの間にか無意識にゾマドを心の指針にしてしまっていた。
急に湧いてきた劣等感を振り払うように、クラングランは口を開ける。
「リュシュカ、何か……俺にできることはあるか?」
「え?」
「話なら聞くし、食いたいものがあれば調達してくる……なんでもしてやる」
リュシュカはむくりと起き上がり、寝台に腰掛けて言う。
「じ、じゃあ、あのさ、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「…………っ、う……あの…………」
「言ってみるといい」
リュシュカは俯き、わずかに頬を赤らめた。そして、叱られたあとのようにしゅんとしながら、消えそうな声でこぼす。
「前、ぎゅってしてくれたやつ……またしてほしいんだ」
密室で男に対してする頼みごととしてはだいぶ配慮に欠ける。しかし、どこか切羽詰まったような金色の瞳は懸命で、断ることはできなかった。
「……べつに、それくらい構わない」
クラングランは寝台の隣に座るとリュシュカを抱きしめた。それ以上の強い力で、リュシュカがぎゅっとしがみついてくる。
柔らかで頼りない体を抱いた時にふわりと湧き上がる小さな劣情は、すぐに消え失せた。
ひ、と小さな嗚咽が聞こえたからだ。
リュシュカはクラングランにしがみつき、震えながら泣いていた。じわじわと涙が胸のあたりに染みていくのを感じる。クラングランは言葉が見つからず、リュシュカの髪を撫でた。
リュシュカは固く腕を巻き付けて、ずっと、小さく震えながら泣き続けた。
「……くるしい」
合間に溢れたそれは、ほんの小さな掠れ声だったけれど、静かな部屋にぽつんと響く。
そうして、胸が痛くなる。
どんなに可哀想に思ったとしても自分の今いる場所からはリュシュカの苦しさを埋めてやることはできない。自分は確実に、彼女を追い詰める側の人間なのだ。
彼女の何もかもを引き受け、醜い全てのものから守っていたゾマドはもうどこにもいない。
クラングランは唐突に実感していた。
リュシュカは心細く、誰かにしがみつきたい時にそれを頼む相手が、自分を利用しようとしている他国の人間しかいないのだ。
それが、途方もない孤独だということを。
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