敵と味方(1)
その日もリュシュカはクラングランに怒っていた。
「クラングランの馬鹿! それただの崖登り!」
そう言って怒り。
「人間はそんな川を泳いで越えられないよ!」
また怒鳴り。
「なんで道がないとこ行こうとするの? 信じられない!」
そんな台詞をいくつも飛ばした。そして、怒りまくったせいで余計に疲れていた。
ようやくラクシャの街に入った頃、二人はだいぶ険悪な空気になっていた。
やっぱりこいつは人間というものをわかっていない。
本格的に説教をかまそうとしたところ、クラングランがムッとした顔で言い返してくる。
「文句ばかり言うなよ。関所だってお前の言う通りにしたら捕まりそうになっただろ」
「誰かに捕まったって、べつに危ない奴らかわかんないし! クラングランといるほうがよほど命が危険なんじゃないの?!」
「じゃあ好きにしろ。俺だってモタモタしか動けない奴と行動するのにはうんざりだ」
「好きにするよ! もういい! あんたなんかと行動してると命がいくつあっても足りない! わたしはわたしで勝手にする!」
「あっ、おい!」
リュシュカは怒って勢い飛び出した。
路地をふたつ抜けて、息を切らせて立ち止まる。
猛烈な勢いで逃げたけれど、彼が本気になれば簡単に追い付かれていただろう。
クラングランは追ってはこなかった。
振り返って見た街はのどかで、少しだけ冷静さを取り戻した。リュシュカは運河の上にある橋に近寄って水面を見下ろす。
昔、爺ちゃんと喧嘩して、裏山に家出したときのことをぼんやり思い出していた。
爺ちゃんと旅に出る直前だから、たぶん八歳くらいの頃だ。喧嘩の原因は覚えていない。たぶんきっと、大したことではなかった。
「こんなとこでわけわかんないジジイに育てられるのはもうたくさん! わたしはひとりで生きていく!」
リュシュカはあのときも啖呵を切って家を飛び出した。
爺ちゃんはリュシュカの背中に「勝手にしろぉお!」と大音量の怒号をぶつけてきたが、追ってはこなかった。
そのまま、裏山に入った。裏山はそこまで高くはないが、険しくてろくな足場がない。初めて来た人間はどちらに行っていいかわからないだろう。ただ、リュシュカにとっては何度も来ている庭のようなものだ。ほかに行く場所もないし、どのみちこの山を越えなくてはどこにも行けないのだ。
家を出ていくというのが本気かどうかというと、もうすでにそんな気は失せていた。けれど単純な怒りだけはまだ腹に渦巻いていて、素直に帰って謝る気にはなれない。ただ、心配させて、困らせてやりたかった。
そのうちに、お腹が減ってきた。山には食べられる野草がたくさん生えていたが、どれも生食には向かない。次から家出をする時には食料を持って出ようと固く心に誓う。家出計画があまりに杜撰だった。
もっとも、感情に突き動かされやすいリュシュカが計画的な家出などできるはずもないのだが、その時はそう思った。
登りにくい山道で、倒木が折り重なるようにして前を塞いでいるように見える。しかし、前に爺ちゃんが教えてくれた順番に登ればきちんと上に行ける。
この先に食べられる木の実があったはずなのだ。
黒くて小さな粒がより固まっているその実は調理しなければ酸っぱいし、そう腹に溜まるものでもない。
それでも、それしかないのだから仕方がない。
なんとか手をかけて登るとそこには巨大な猪がいて、先に木の実をむさぼり食っていた。
「わひゃあぁ!」
リュシュカは驚いて声を上げ、向こうも明らかにびっくりした顔をした。
リュシュカはたった今超えてきた倒木をそっと戻った。そうして、さっきまでいた場所を見上げてから走って逃げた。
ドコン、と大きな音がして振り返る。
見ると猪が倒木を薙ぎ倒して追ってきている。
やばい。まずい。リュシュカは速度を上げた。
どこか、アレが入れないような狭い道に入ってしまえばいい。しかし、狭い道はそもそもリュシュカも通れないところばかりで、結局しばらく追われ続けた。
険しい登りを土だらけになって命懸けで這い上がり、振り返ったとき、やっと猪の姿はなくなっていた。
怖かった。じわりと涙が出てきた。それでもリュシュカは意地を張った。
傷だらけになりながらさらに岩場を登り、その上にあった枯れかけの木の根本で丸くなる。
夜の空は広くて黒くて、自分の小ささと、ひとりぼっちを感じさせる。寂しさと心ぼそさで、すんすん泣きながら寝た。
起きると食べられる木の実が足元にいくつか落ちていた。小さな実なので風で飛んできたのかもしれない。昨晩は暗かったので気づかなかったのだろう。それを食べたら少し元気になった。
昂った気分もかなり落ち着いていた。
喧嘩の原因はなんだったっけ。やっぱり思い出せない。リュシュカが寝ようとしたときに爺ちゃんがでかい声で下手くそな歌を歌ったからだっけ。それは一個前の喧嘩だ。
今となってはどうでもいいことに感じられる。
ただ、爺ちゃんに見放されてしまったんじゃないかと、そんな不安が生まれていた。
まだ怒ってるのかな。もう話してくれなかったらどうしよう。
今度は焦った気持ちで山を降りて、家に帰ってきた。
家の扉は開いていた。
出ていく前と何も変わらない、雑然とした玄関に安心する。
爺ちゃんは寝転がって尻を掻きながらお茶を飲んでいた。
「爺ちゃん、ごめん」
爺ちゃんは「おお、帰ったか」と言ってこっちを見ようともせずにくつろいでいる。
突き放されなかったことに安堵しながら、リュシュカは外の水場で汚れを落とした。体は小さな擦り傷がたくさんできていて染みた。
さっぱりしてしょんぼり玄関に戻ると、爺ちゃんが目の前に来た。
「おい、腹ぁ減ったか?」
リュシュカがこくりと頷くと行ってしまう。
リュシュカはなんとなくばつが悪くて、そこにしゃがみ込んでいたが、しばらくするといい匂いがしてきた。匂いにつられるように、すすすと近くに行く。
「爺ちゃん、これなに」
「これか? これはな、昨日採ったきのこと猪の汁だ」
「おいしそう……」
「すぐ持っていってやるから居間に行ってろ」
果物しか口にしていなかったからすごくおいしかったのを覚えている。たくさんおかわりした。
爺ちゃんは「よく食うなあ」と言って笑っていた。
「……爺ちゃん、服汚くない?」
爺ちゃんの服装はリュシュカが出ていく前と変わっていなかった。しかも土だらけだし、ところどころ血のようなシミもついていてとても汚い。
「おう、お前が帰る前に畑にいたからな」
「なんで毎日着替えないんだよ。洗うから脱いで」
……今思い返せば、猪が途中から急に追ってこなかったのも、家の裏に生えてる木の実が起きた時に寝場所の近くにあったのも、全部爺ちゃんの仕業だったのだ。
たぶんずっと、近くで見守っていた。
爺ちゃんは厳しいフリをしながら、リュシュカに激甘だった。
リュシュカはずっと、そんな爺ちゃんとしか関わりを持っていなかった。
クラングランは他人だ。歳もそう変わらない。それなのに彼に甘えてしまっていたかもしれない。
爺ちゃんと近いものがあるせいかクラングランとは会ったばかりなのに馴染みやすく、つい遠慮を忘れてしまう。よくなかった。反省した。
近くからいい匂いがしていたので、串焼きを買い、壁際の隅っこでモソモソ食べた。
よく考えたらこのお金もクラングランのものだ。
反省の心がむくむくと膨らんでいく。
……いやでも、家のお金を持ち出させなかったのはクラングランだ。爺ちゃんのへそくりを持って出れていれば……こんなのいらなかったし。そうだ。出る時から横暴だったんだあいつ。
またふつふつと怒りがこみあげてきた。
「やっぱムカつくう……」
怒りと反省を行ったり来たりしながら、ウロウロと意味もなく細い路地に入った。
「今だ。捕まえろ」
低い声が聞こえて、リュシュカはびくりと揺れる。
路地の奥にいた複数人が出てきて囲まれ、目隠しをされる。
「わ、わあ! なんか出た! 離せ!」
あれよあれよというまにどこかに運ばれてしまった。
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