ルノイ(2)
バタンと扉が閉じる音で、クラングランが戻ったことに気づく。
「まだ遺書を読んでたのか。ずいぶんと眠そうだったからもう寝てるかと思っていた」
「うん」
宿に入ったリュシュカは猛烈な勢いで遺書を解読していた。
ここに来てやっと本気で向き合い出したのだ。
家にいた頃は爺ちゃんの字が難読なのももちろんあったが、あまり読みたくなかった。読むと本当に爺ちゃんがいなくなる気がして、先延ばしにしていた。
「クラングラン、どこに行ってたの?」
「今日はあまり動かなかったからな。鍛錬をしてきた」
「体力お化け……爺ちゃんかよ」
「それから夕食を買ってきた。少しは何か食べろ」
「いいお化けだった……ありがとう」
クラングランが買ってきてくれたのはクルミとカカオのペーストが練り込まれた甘い菓子パンで、疲れた脳がだいぶ癒された。
かぶがぶとたいらげ、すぐに寝台でまた手紙を読もうとする。クラングランはリュシュカの枕元に立って声をかける。
「もうだいぶ読んだのか?」
「なんと半分くらい読んだ」
「どのくらいあるんだ?」
「ざっと百枚くらいかなぁ」
「……ゾマドは要点をまとめられないのか」
「纏める気がないみたい。今、わたしを育てることになった頃のことが書いてある」
「幼少期から? それは長いぞ」
「気軽に言いたくないけど……ちゃんと言いたいことが、たくさんあったんだと思う。長いのは、嬉しいよ」
生きている時、目の前で言葉では伝えられなかった爺ちゃんの不器用さと、自分が生きてる時はそんなこと気にせず笑っていてほしいという優しさのようなものがじんわり感じられる。
「何が書いてあった?」
「わたしの……お母さんの話」
リュシュカの母はエルヴァスカ北方のカズラ地方から出てきて、城下町の料理店で働いていた。美しく気立がよく評判だったらしい。
ある日お忍びで来たエルヴァスカ王に一目で気に入られ、速攻で孕まされてリュシュカを産むことになった。
王は母に側室として王宮暮らしを許可していたが、母はそれを辞退して、リュシュカは四歳までは市井で母親と暮らしていたらしい。この時点で母がリュシュカを王家とは無関係なところで育てたがっていたことが窺われる。
王は母をそれなりには気に入っていたようで、爺ちゃんはそれとなく様子を見るように言われていた。
王は当時すでに四十を越えている。
なぜいい歳したクソバカ王の女遊びの後始末なんて気にかけなければならないのかと心底面倒に思っていたようだ。
爺ちゃんの恨みは深く、遺書は二枚ほどみっちりひたすら王の悪口と愚痴で消費されている。罵倒の仕方はバカとかアホとかいささか幼稚だったし、筆も荒れていて一等読みにくいわりに、解読して損をしたと思う内容だった。
「まだわたしが四歳の頃、ある晩母が仕事帰りに暴漢に襲われそうになって……その時わたしが突然魔力を暴発させたんだって」
クラングランはこちらを黙って見た。
爺ちゃんが駆けつけた時にはもう、辺り一面が火の海になっていて、真ん中でしゃがみこんでべそをかいているリュシュカ以外は誰もいなかった。
爺ちゃんはリュシュカを抱いてそこから逃げた。
「そしたら、自分の走る道の脇がどんどん爆炎を上げて、建物は壊れていくしで……その始末はかなり大変だったみたいで……もうこの危険物は自分がどこか人里離れた遠方で管理しなくてはと……引き取ることを決めたらしい」
リュシュカは小さい頃のことをまるで覚えていない。最初の記憶ではすでに爺ちゃんと辺境の家にいた。だからこんな話を聞いても、自分のことには思えないはずだった。
それなのに、炎の海となった街の光景だけは、読んでいる最中、頭の端にずっと浮かんでいた。
黙って話を聞いていたクラングランがぽつりとこぼす。
「母親はどうしたんだ?」
「……書いてない」
書けないようなことになったのか、あえて書かないほうがいいと思ったのか、後半に出るのか。そこでは母には触れられていない。
クラングランは息を呑んで、それから唐突に話題を変えた。
「ゾマドは……お前の目から見てどんな人間だった?」
「え? なんで?」
「長く、生きた伝説だったんだぞ。俺も他国なのに幼少期からその武勇伝は聞かされていた。気になるだろう」
「どんなって……クラングラン、ずいぶんと爺ちゃんに夢見てるみたいだけど……そんな格好いいアレじゃないよ」
「それでも、近しい人間から見た姿は興味がある」
うーん……洗濯物は溜め込むし、足は臭いし人が寝ようとしてるのにでかい声で歌うし……でも、そういうの言うと夢壊しちゃうのかな。
「わたしは爺ちゃんと日常を過ごしていたんだよ。日常というものは、退屈でささやかな喜びの繰り返しだ。それは戦場とは違う……クラングランの知りたいような話はきっとないんじゃないかな」
クラングランはしばらく黙っていた。
そして、「いや、今の返答で十分伝わった」と言って、満足そうに笑った。
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