第32話 バクシン王女、乱入
控室には今回の事情を知っているレイモンド公爵家の侍女が控えており、染み抜きのためにさっさとドレスを脱がし、ワンピースのようなものを着せた。
「何があったんだ?」
部屋から侍女が出て行き、誰もいないのを確認してからユリウスは口を開く。
「あんな惨事、起こそうと思っても起こせないぞ……?」
「それが、私にも何がなんだか……誰かが近づいてくる気配がしてたので、その場から少し動いただけだったんですけど……」
リィナがそう口で説明すると、彼は大きく肩を落とす。
「あの令嬢はバルロード侯爵令嬢と仲がいい。きっと悪戯のつもりでけしかけたんだろう」
「そんな……私なんかにけしかけてどうするんです?」
「少なくとも、気分がすっきりするんじゃないか? 私にはその気持ちがわからないが」
やけにユリウスの語気が強い気がして、リィナは首を傾げる。
「もしかして殿下、怒ってます?」
「当たり前だ。リィナがあの令嬢の顔を拭いてハンカチを渡していなかったら、彼女はただでは済まないよ」
「えっ⁉」
思いもよらない言葉に、リィナはぎょっとしてしまう。
「いいかい、リィナ。君は客人なんだ。私と、レイモンド公爵の。君に手を出すことは、それはそれは恐ろしいことなんだよ? おまけに記念すべきヒルデガルドの社交界デビューの日にさ」
(ああ、そっか……平民でも、今は偉い人の連れだし、今日は王族にとっても特別な行事なんだ)
もしかしたら、彼女はリィナのドレスをちょっと汚すくらいのつもりだったのかもしれない。いや、あの速度は完全にド突いてやろうと考えていたのか。真意はさておき、もし彼女の行動が成功していたら、とんでもないことになっていただろう。
「でも、なんで悪戯を……?」
「単に気に食わなかったんだろう? 私が断ったから」
「まあ、私も殿下と並び立つには、つり合いが取れてませんし、余計でしょうね」
たった数週間の淑女教育で令嬢を演じきれるとは思っていない。本当に身についているのか自分も不安なところだ。とはいえ、ユリウスだけでなく、レイモンド公爵にも迷惑をかけている。どうにか今夜を乗り越えなければ。
ドアのノックされ、リィナは慌ててヴェールを被る。入室してきた侍女は恭しく礼をした。
「ヒルデガルド王女殿下がお越しです」
「ああ、通してくれ」
一瞬、怪訝な顔をするもユリウスは短く答えると、すぐに騒がしい足音が聞こえてきた。
「わたくしですわ! ユリウス兄様!」
堂々と名乗り声を上げ颯爽と登場したヒルデガルドがアイリーンを連れて入ってくる。夜会で見せた王女らしさは、完全に消えていた。
リィナは思わず立ち上がりドレスの裾を捌いて礼をすると、ヒルデガルドがリィナに向かってまっすぐ歩いてきた。
「あなた!」
「⁉」
ヒルデガルドに手を掴まれ、リィナはぎょっとする。しかし、そんなリィナに気付かず、彼女は興奮冷めやらぬ様子で言った。
「わたくし、遠目からあなたのことを見ましたわ! 相手の体当たりを最小限の動きで躱す、あの身のこなし! わたくし、感激いたしました! おまけにあの女が悔しさで歪む顔ときたら! 胸がスッとしましてよ!」
(どどどど、どういうこと⁉)
助けを求めるためにアイリーンへ視線を送ると、彼女は感心したように頷いていた。
「リリーナ様の血が滲むような努力が実を結んだようで、アイリーンも嬉しいですわ。淑女教育を施した甲斐がありました……」
(アイリーン様~~~~?)
リィナの隣から小さなため息が聞こえ、ユリウスが窘めるようにヒルデガルドの名を呼ぶ。
「リリーナ嬢のことが気になって、控室まできたのかい?」
「ええ! ユリウス兄様はご覧になっていませんでしたの? 特攻してきたあの女の取り巻きがテーブルに激突した様子を!」
「へぇ……」
すっとユリウスの目が細められる。一体、彼がどんな感情を抱いているのか分からないが、気分がいいものではないことは確かだ。
「ところで、ヒルデガルド。何か会場で不審なことはなかったか?」
「ありませんわ。何か不満があるとしたらフィリップ兄様がべったりなくらい」
「そのフィリップ兄上は?」
「ガレオン様に押し付けてきました。あの女と違って、兄の方は使い勝手がよくて助かります」
ガレオンはバルロード侯爵令嬢の兄だ。確か、フィリップは彼を親友だと思っているらしいが、ガレオンはそう思っていないのだとか。
「とはいえ、主役ともいえる君が会場を抜けたらダメじゃないか……」
ユリウスがため息交じりに言うが、ヒルデガルドに反省の色が見えず「だって、人疲れしたんですもの」と頬を膨らませる。
「あのね……」
「それに、彼女ともお友達になりたいですわ!」
目を爛々に輝かせてリィナを見つめる。
「同じ師を仰ぐ同士ですもの! よろしいでしょう、ユリウス兄様!」
師とはアイリーンのことだろうか、それなら確かに兄弟弟子とも言えなくもない。しかし、リィナはレイモンド公爵の遠縁でもなければ、貴族でもない。判断ができかねず、ユリウスに判断を仰ぐと彼は小さなため息をついた。
「ヒルデガルド。悪いけど、彼女はこの国の人間ではないし、お友達は難しいと思うよ? ましてや君は王女だし」
「まあ、ユリウス兄様だけ彼女のお友達だなんてずるいです!」
「私は、レイモンド公爵にエスコートを頼まれたに過ぎないよ」
「でもでも、彼女はレイモンド公爵と所縁のある方なのでしょう! お母様と仲がいいレイモンド公爵なら、派閥争いもありませんし、ご迷惑はかかりませんわ! 一体どこに問題がありますの⁉」
(私はユリウス殿下の部下だからなー……)
ユリウスは眉間に手を当てて少し考えた後、優しい声で言った。
「ヒルデガルド。私達が王族である以上、本心から仲良くなりたい友人であろうと、立場上諦めないとならない時がある。ましてや君は社交界デビューをした身だ。自分の身分をよく考えて発言しなさい。君はこれから国の代表として公務に参加することになる。不用意な発言は混乱を招き、足元をすくわれることになりかねない。分かったかい?」
ユリウスがそう妹を窘めると、ヒルデガルドは大きく目を見開いた。そんな様子にユリウスは怪訝な顔をした。
「どうしたんだ?」
「ユリウス兄様が優しいなんて珍しい……人前だからですか?」
「…………私にだって優しさくらいあるさ」
ユリウスはそう答えると、アイリーンへ視線を送る。
「アイリーン、主役が長い間、外しているのはよくない。それにフィリップ兄上のお守をさせられているガレオンがかわいそうだ。兄上のところまでヒルデガルドを連れて行ってくれ」
「はい」
「そんな! アイリーンなら彼女を紹介してくれますわよね!」
「殿下、お諦めください。さあ、フィリップ殿下のところへ戻りますよ。では、殿下。リリーナ様、御前を失礼いたします」
「いや~!」
アイリーンはヒルデガルドを引きずって退室し、ドアが閉められたと同時にユリウスがため息を漏らした。
「まったく、ヒルデガルドもお転婆で困ったものだよ。さすがベアトリス様の娘だ」
「あの……私は何が気に入られたのでしょうか?」
「私は現場を見ていなかったが、君がたまたま嫌な予感を察してその場を離れた行動が、いたく感銘を受けたらしい。私も実際にこの目で見てみたかったよ」
「本当にたまたまだったんですけど……」
ユリウスが茶化すように言うが、リィナはアイリーンの教えにしたがったに過ぎない。正直、リィナ自身も起きた出来事に驚いているくらいなのだから。
「運も実力のうちさ」
ユリウスはそういうと、ぬるくなった紅茶を口に運ぶ。妙な沈黙が流れ、リィナが少し居心地の悪さを感じていると、ユリウスが口を開いた。
「リィナ。ドレスのシミが抜き終わったら、一緒に会場に戻れそう?」
「え?」
むしろ、ドレスを着替えたらすぐに会場へ戻る気でいたリィナは、その問いかけに驚いてしまう。ぽかんとするリィナにユリウスは続ける。
「バルロード侯爵令嬢が何か仕掛けてくる可能性を視野に入れておいた方がいい」
「あぁ、なるほど? 彼女を迎え撃つ覚悟があるかということですね? ご安心ください。伊達に孤児院でガキ大将とやりあってませんよ」
幼少期はチャーリーの食べ物を奪う年上の大きい男の子と喧嘩する日々を送っていたのだ。一度心の準備ができてしまえば、リィナはそれなりに相手に立ち向かえる。
「でも、ちょっと不安な部分はあるんですよね……」
「不安?」
「ええ。主に所作や礼儀作法ですね。いくらアイリーン様の指導を受けてきたとはいえ、付け焼刃なのには変わりないので、それをバルロード侯爵令嬢に指摘されないか……」
「…………それは──」
ユリウスの言葉を遮るようにドアをノックされた。
「殿下、ドレスを持って参りました」
レイモンド公爵家の侍女がドレスを持って現れ、ユリウスは頷く。
「ああ、ありがとう。彼女の着付けを頼む」
リィナは別室で手伝ってもらいながら着替えを済ませ、ついでに化粧も直された。汚れていたドレスはシミ一つなく新品同様になっており、見た時にはリィナも感心してしまう。
ヴェールもつけ直し、見た目だけ完璧な貴族令嬢が出来上がり、ユリウスの下へ戻る。
「さあ、行こうか」
そう言ってユリウスが自分の腕を差し出し、頷いたリィナはその腕を取る。部屋を出る前にユリウスはぼそりと言った。
「君が何も不安になることはないよ」
唐突に言われた言葉にリィナは彼を見上げる。彼は優しい眼差しでこちらを見つめ、小さく笑った。
「あのアイリーンの淑女教育を受けたんだ。堂々としていればいい」
(あ、まただ……)
いつも見ているユリウスの笑みと、どこが違う。しかし、普段の彼と何が違うのか、リィナは答えが出ないまま会場へ足を向けるのだった。
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