序章  業火転生變(一) 新免武蔵 17


   3 詩篇天魔・異界転生 一(鹿賀・武蔵)⑤


    『武蔵 3』



「ちっ、馬鹿共が勝手に騒ぎ立てやがって、ここで俺が死んだら化けて出てやるからな」

 武蔵は舌打ちしながら、ゆっくりと石垣の下まで歩を進める。


 その武蔵の頭上に、ひと抱えはあろうかという石が降ってきた。

〝ぐわあっ〟

 咄嗟のことに武蔵は声を上げることも出来ずに、間一髪それを除けた。


「おおーっ」

 すかさず周りから歓声が上がった。


「見事なり武蔵殿、声ひとつ立てずにあっさりとお躱しなさった」

「ううーむ、さすがは天下一の武芸者だ。無駄な動きなく、紙一重で見切られた」

 武蔵を褒めそやす言葉が飛び交う。

 当の武蔵は全身に冷汗を掻き、心臓が飛び出んばかりに高鳴っていた。


〝ふざけんじゃねえよ、あんなもん余裕なんかどこにあるんだ。紙一重で見切ったんじゃなく、危なくぐしゃぐしゃに潰されるところだっただけだ〟

 恨みがましい気持ちで、武蔵が石のひとつに手を掛けた。


 そのまま手に力を込めると、武蔵は力任せに登り始める。

 どれだけ短い時間で上まで登り切るか、それが勝負の分かれ目である。

 時間が掛かればそれだけ、落石の脅威に晒されることになる。


 子どもの頃から膂力には自信のある武蔵だったが、なんせ今年で五十四歳である。

〝いくら鍛え抜いたこの俺でも、歳にゃ敵わねえ。それに持続力が落ちちまって、腕に力が入らねえ〟

 手加減なしに登ったのがいけなかったのか、指の力が思うように発揮できない。

 すでに幾度か身の直近を大きな岩や石が、掠ってゆく。



 その時なぜか武蔵の脳裏に、巌流小次郎の顔が浮かんだ。


〝あの爺さん、あの時はたしか七十八歳だったんだよな〟

 小倉城内の中庭で見た小次郎の姿は、四十前後のようにしか武蔵の目には映らなかった。


〝その歳であんな凄え技を、見事に使いこなしていやがった。それどころかそれ以上の工夫がもうじき完成するとも言ってたっけ〟

 いまの自分の歳よりも二十四も上である、考えるだに信じられない思いであった。


〝勝てるわけがねえ、あの化物には絶対に勝てねえ。勝てるとしたら、本物の魔物しか居るまい〟

 二十五年近くたった今でも、あの燕返しを思い出すと背筋に汗が流れる。


〝燕返しだけならどうにか相打ちに持ち込めるかも知れねえ。あの物干し竿より長え舟の櫂かなんか使えばな。あの頃の俺の力は最盛期だった、切り返しの逆袈裟より早く振り降ろせりゃ、万が一にでも勝てる可能性はある。しかしその上の工夫が為ってりゃ、それは虎切りだろう。秘剣虎切りは水平方向を左右に薙ぐ型だと聞く。上下の素早い動きについて行くのが精一杯なのに、間髪入れず連続して左右にあの物干し竿が襲い来れば、俺の胴体は真っ二つだ。やってみなくったって結果は知れてる〟

 武蔵はその光景をいままで、なん十度もなん百度も悪夢の中で見ていた。


 武蔵は剣聖だの大剣豪だのと言われた高名な武芸者に、幾人も逢ってきた。

 宝蔵院胤栄、塚原卜伝高幹、上泉伊勢守信綱、いずれも単なる老人であった。

 若き頃はどうであったかは知らぬが、武蔵が見た剣聖たちはもはや彼が命を賭して相手をしたいとは思えぬ、単なる年寄りでしかなかった。


 その中で巌流だけは違った。

 気力、体力そして胆力、どれを取っても現役だったのだ。

 いや技量の面においては、若き頃よりも進化している。


 世の中は広い、武蔵にそう思わせた唯一の人間だった。

 勝負はやってみなけりゃ分からない、やっても駄目そうなら狡(勝つ工夫)をすりゃ良い。


 武蔵は闘う前から負けを思ったことは、生涯一度もなかった。

 ただし巌流小次郎をおいては、である。


〝いまこうして思い返しゃ、やっぱりあの時遣り合っておきゃ良かったな。もう一度人生をやり直せたら、あんな事せずに真っ正面から斬り合ってみてえよ。たとえぶった斬られようと、それでいいじゃねえか。後悔せずに済む〟

 武蔵は長年思い続けていた真の感情を、初めて心の中で呟いていた。


 頂上は目前だった。

「すまなかったな、小次郎の爺さん」


 そう言葉に出した刹那、武蔵は大きな衝撃を受け身体が石垣から離れ宙に舞った。

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