序章 業火転生變(一) 新免武蔵 9
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武蔵はゆっくりと朝飯を食いながら、いままで立ち合ってきた数々の果たし合いや、相手のことを思い出していた。
〝たしか宍戸八重垣流鎖鎌とかいう奇妙な得物を使うやつがいたな、名前はなんとかと言ったっけ。あの頃はまだ俺も若かった〟
この鎖鎌の達人に関しては、名も覚えていないようだ。
〝槍と言えば宝蔵院だな。しかし当時は胤栄の爺いはよぼよぼだし、二代目の胤舜はまだ小僧だった。その時の師範格・奥蔵院道栄とか言うのと立ち合ったが、弱くてまったく相手にもならなかった。もしもあの時の胤舜とか言う小僧が成長していたら、俺の命もそこでなくなってたろう。後年その槍捌きを見たが、あれこそ神業だ。長い槍と刀じゃ勝負にゃならねえ、無茶はするもんじゃねえ。くわばらくわばら〟
この武蔵の感想は妥当なもので、同じ技量を持つ同士であれば槍に二分の利がある。
それが証拠に先日豊前小倉で、小笠原忠真の無理強いで高田又兵衛(宝蔵院流高田派槍術の祖)と手合わせをしたが決着はつかなかった。
〝まったくお殿様ってえのは勝手なもんだ、五十過ぎたこの俺に仕合を強要しやがった。俺が余裕を見せて五厘の勝ちを譲ったようにどうにか見せかけたが、真剣と真槍でとことん遣ったら殺されちまう。世の中命あっての物種だ〟
辟易とした顔で、武蔵は汚らしく伸ばし放題の無精髭を撫でる。
しかしこんな芸当が出来るのも、それなりの実力がある故である。
やはり武蔵という男は、希有な技量を持った剣客であることは間違いがなかった。
〝庶流でこのありさまだ、槍術に関しては史上最強である胤舜であれば、今頃どうなっていることやら〟
胤舜の研ぎ澄まされた眼光を思い浮かべると、武蔵の背中に冷たい汗が流れた。
宝蔵院胤舜というのは、それほどの真の天才だった。
開祖胤栄の表十二箇条に自らの裏十一箇条を加え、宝蔵院流槍術を完成させた人物である。
〝同じ長柄物同士、夢想権之助とやらしたらどっちが強かっただろうな。まあどっちが勝つにしたって真の達人同士だ、紙一重で命の遣り取りにはなるまい〟
〝なんと言っても俺の名を上げたのは、京の吉岡一門との一件からだな。しかしあいつらには悪いことをしちまった、なにせ吉岡ってえのは道場は立派で門弟の数も多かった。でももうすでに剣術の一族じゃなかった、流行ってた染物屋が主流で当主の清十郎は筋はよかったがただそれだけのやつだった。まったく天賦の才を伸ばそうともせず、放蕩三昧で殺すほどのこともなかった〟
武蔵が立ち合いで情けを掛けたのは、生涯の中で先の宍戸某と吉岡清十郎のふたりだけだ。
〝鎖鎌野郎の場合は、女房と赤児が見てる前で父親を殺せやしねえじゃねえかよ。しかもこっちから押し掛けての手合わせだ、俺も青臭かったしな。もうひとりの清十郎は良いところのボンボンの上に、素直で凄く良いやつだった。それに女みてえに小さくて、才はあるのに剣術が嫌いで。剣なんて無関係で出逢ってたら、きっとこんな俺にも友と呼べるやつが出来てたかも知れねえ〟
果たし合いの前に、彼は二人きりで清十郎と話したことがあった。
もちろん素性は隠してだ。
話せば話すほど良いやつだった。
明るく朗らかで、花のように笑うやつだった。
武蔵は一瞬で、清十郎のことが好きになってしまった。
女にさえ惚れないこの男が、ここまで人に心を奪われたのは生涯でたた一度だけだ。
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