序章 業火転生變(一) 新免武蔵 10
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そんな武蔵の心とは裏腹に、すぐに立ち合いの時は来た。
〝はははっ、やっぱりあなたが武蔵だったんだね。じゃないかと思ってたんだ〟
顔を合わせたとき、清十郎はそう言って屈託なく笑った。
これから命の遣り取りをするという緊張感は、どこにもなかった。
無邪気な童のような笑顔だった。
澄んだ水のように透明な所作で、清十郎が鞘から刀を引き抜いた。
〝じゃあ始めようか〟
遊びに誘うような、柔らかな声だ。
殺気も恐れも、気負いさえない自然な構えだった。
しかし武蔵には、それがあまりにも哀しく見えた。
〝そこまでの才を持ちながら、なぜ極めようとしなかった〟
彼は目の前の小さな男を見据えながら、不覚にも涙が出そうになる。
〝この名門の男が自分と同等の鍛錬、いや実弟ほどの修行をしていれば天下無双の技量を身につけられただろうに〟
そう思わずにはいられない。
〝闘わずとも、すでに勝負は見えている〟
武蔵は圧倒的な素早さと、豪風の如き太刀筋で相手に襲いかかった。
清十郎の脳天を苦もなく叩き割れたのに、一瞬の躊躇の後わざと木刀を逸らし腕を砕いた。
その躊躇が仇となり、武蔵の眉間を相手の切っ先が軽く薙いだ。
傷は浅かったが、額ということでかなりの出血だった。
〝清十郎がいま少し鍛錬を怠っていなかったら、俺は真っ二つに斬られてた所だ〟
それ以来、彼は相手に情けを掛けることを止めた。
〝自分が死んじまったんじゃ、元も子もねえからな〟
弟の伝七郎は大柄な武蔵よりも、頭半分大きかった。
しかし膂力だけが自慢で、兄ほどにその血を受け継いではいなかった。
一撃で倒され、そのまま昏倒した。
死んだかと思われたが、門弟たちの介抱もあり命は取り留めたようだ。
後年になり、大坂の陣では兄弟門弟揃って城方に駆けつけたと聞く。
『元・足利将軍家剣術指南役』であり鬼一法眼の京八流の裔とも言われる、そんな名門の二人ももうこの世にはいない。
〝この二人は立派なやつらだった、どこの馬の骨とも知れねえ俺と堂々と立ち合ってくれた。あんだけの名門道場だ、知らん顔されたって文句は言えねえ〟
しかし武蔵がどうしても許せないのは、その後の吉岡一門の遣り口であった。
〝一乗寺下り松での一件は、どう考えても相手の方が悪い。あろうことかまだ十一歳の子どもを、名目人にして来やがった。俺でも考えつかねえ小狡い遣り口だ。子どもを護るというのを口実に、七十人近い人数を繰り出しやがって。それにびびって逃げ出せば、武蔵は卑怯にも恐れをなし蓄電したと吹聴するだろうし、挑めば寄ってたかって斬り殺す肚。いくら俺でも子どもを斬るほど腐っちゃいねえ、でもあんときゃ斬るしかなかっただろうがよ〟
武蔵の後悔は幼い子どもを斬った、この一時だけである。
不思議なことに武蔵の数ある果たし合いの中で、吉岡一門同様に高名を馳せた〝巌流〟との舟島にての一戦に関しては、いままでただの一度も口にしたことはなかった。
〝ありゃ立ち合いじゃなかった、単なる人殺しだ。恥なんて言葉を知らねえ俺だが、あれだけは恥ずかしくって語れねえ。でもよあんな化物とどう立ち合うってえんだよ、怖くて怖くて逃げ出したかった。だから、あんなことをしちまった〟
武蔵の顔が、苦痛に歪んだ。
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