序章 業火転生變(一) 新免武蔵 25
3 詩篇天魔・異界転生 一(鹿賀・武蔵)11
『鹿賀 9』
時刻は午前九時三十分を少し回っている。
三階にある学科の試験会場では、大勢の人間が交通法規に関する問題に取り組んでいた。
後藤伸二はいつもの様子で、室内を見回している。
試験管の仕事は退屈だが、別段不満はなかった。
違法行為(所謂カンニング)をする者など滅多におらず、仕事は単調で毎日代わり映えはしない。
例え不満があったとしても、四十を過ぎて今の仕事を辞めて転職しようとも思わない。
無事に定年までまっとうすることしか彼の頭にはなかったし、またそうなるはずであった。
今年の春から長男は、私立の高校へ通い始めたし、年子の長女は受験を控えている。
出来のいい小六の次男は有名中学への進学のために塾通いをしており、学費も馬鹿にならなかった。
彼は毎月一万五千円の小遣いで遣り繰りしている。
それもこれも愛する家族のためだと思えば、そう不満でもなかった。
それでも妻はなんだかだと、たらたらと文句を言ってくる。
彼はそれを適当に受け流し、鷹揚に相槌を打つだけで確たる返事は返さない。
それに対し、さらに妻の文句は続く。
月に一度か二度は起こる、いつもの夫婦げんかの形である。
しかしふたりの夫婦仲はよく、毎日きちんと糊のきいたYシャツが用意されているし、今日締めているネクタイも妻から誕生日のプレゼントで贈られたものだった。
こうした平凡な日常が、営々と続くはずだった。
試験中にも拘わらず、会場のドアが開けられた。
後藤ははじめなんらかの連絡事項を伝えるため、同僚職員が入ってきたのだと思った。
滅多にあることではないが、皆無というわけではない。
のっそりとした仕草で、男がゆっくりと入室してくる。
着ている若者風の服装には不似合いな、そこそこの年齢の顔がキャップの下から覗く。
その姿を見た瞬間に、後藤は彼が職員ではないことが分かった。
入ってきたのは、どうみても一般の人間だ。
間違って入室しようとしているのだと勝手に推察した後藤が、その男に声を掛けた。
右手に拳銃が握られている事には、まったく気付いていなかった。
「なんだね君は、いまは試験中だ外に出なさい」
なんの警戒心も持たず、近づいてゆく。
〝ぱん〟
最期の時に彼の目に映ったのは、自分に向けられた銃口だった。
後藤からすべての意識が消え去った。
床に倒れた彼の、額の少し左側に小さな穴が空いている。
即死だ。
退屈だが穏やかな彼の人生は、唐突にここで終わってしまった。
会場にいる者はなにが起きているのか分からず、動く者も声を立てる者もいない。
自分の理解の範疇を超えた場面に遭遇すると、人は脳が麻痺し思考を停止するらしい。
「騒ぐな、声を出したヤツは撃つ。黙って窓際に移り外側を向いて膝を付け、手は頭の後ろで組むんだ」
試験官を撃った男が拳銃を上に向け、冷静にそう言い放った。
人は思考停止の次ぎには、パニックを引き起こす。
これも考えの枠を越えた脳が冷静さを失い、感情だけが暴走する結果だ。
「ひゃーっ」
「キャーッ! たすけてー」
騒ぐなと警告されたにも拘わらず、若い男女が金切り声を出しながら出口のドアへ向かって走り出した。
〝ぱん〟
背中を撃ち抜かれ、女性は前のめりに倒れ動かなくなった。
若い男の方は間一髪、どうにか室外へと逃れ出ていた。
深夜の車の事故を通報して立ち去った人物とともに、鹿賀の凶行から逃れることの出来た運のいい人間のひとりだ。
「脅しじゃねえ、言うことを聞かないヤツは全員殺す。さっさと言われた通りにしろ」
再度脅しをかけられ、今度は思考停止のせいではなく、恐怖によって人々の心は凍り付き言葉は封印された。
ここに来て、やっと人々の頭は動き始めた。
〝この男に逆らえば、確実に殺される〟
ふたりの人間の命がいとも容易く奪われたことで、その場のすべての者にそうインプットされたのだ。
こうなると人を操るのは容易いものだ、恐怖に支配された人間は従順になってしまう。
異変を聞き付けた職員が数人、急いで駆けつけてきた。
「後藤さん、いったいなんの騒ぎで――」
〝ぱん〟
安易に室内へ足を踏み入れようとした中年の女性職員は、声を途切れさせたまま仰向けに倒れた。
いよいよ鹿賀による地獄絵図の、最後の総仕上げが始まった瞬間だった。
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