序章  業火転生變(一) 新免武蔵 15


   3 詩篇天魔・異界転生 一(鹿賀・武蔵)③


    『武蔵 1』


〝舟島での立ち合いはどうだっただと、なんでそんなことを教えなきゃならねえ。俺と小次郎二人のことだ、ほっといてくれ〟

 あの日からいままでの年月、ことある毎に他人(ひと)は武蔵に訊いてくる。

 その度に同じ答えを返す。


〝俺は自分からあの時のことは、ひと言も喋っちゃいねえ。なんでみんな訊いてくるんだ、ほかにも大勢の人間を殺してきた。あの爺さんもその中のひとりじゃねえか〟

 武蔵はいつもそう考える。


〝なにが特別だってえんだよ、五月蠅えよ〟

 しかし、それは確かに特別な瞬間だった。

 それは武蔵自身が一番分かっている。


〝武芸者として、いいや人としてやっちゃいけねえことをしちまった〟

 この思いは、死ぬまで武蔵を責め苛み続ける。

 そう、今日死ぬその瞬間まで。



 有馬家の家臣たちが一斉に石垣に取り付き、城内への侵入を開始したとの報が届いたのは朝餉が済んだときだった。


〝けっ、やっぱり始めやがったか。俺もこうしちゃいられねえ、一番乗りを譲るわけにはいかねえからな〟

 武蔵が押っ取り刀で駆けつけると、すでに有馬直純の家臣が必死で石垣にへばり付いている。


 ここ原城は国替えの前まで有馬家の居城であった。

 その後廃城となっていたものを、一揆勢が改築し要塞と為したのであった。

 ゆえに此度の城攻めに際して、有馬勢の士気は高かった。


〝それにしたって寄せ手のなんと不甲斐ないことか、これだけの数で囲んでおきながら未だに落とせぬとは〟


 単なる武芸者である武蔵には、戦というものが良く分かっていない。

 しかも攻城戦の難しさなど知りもしなかった。



 すでに原城内には、ほとんど食料が残っていなかった。

 その上、当てにしていたポルトガルからの援軍はとうとう来ず、逆にオランダ船から砲弾を撃ち込まれる有り様となった。


 援軍の来る事なき籠城は、すなわち落城が必至ということである。

 そんな飢餓地獄の中でも、天主に祈りを捧げ人々は屈することはなかった。


 どのみち降伏しても、生きては許してもらえぬ事が分かっていたからだ。

 ならば神の御名を唱えながら死んでゆくことが、その御心に沿う行為だと考えている。

 これは信仰のための戦いなのである。


 総大将・松平伊豆守信綱はすでに食うものさえない城中の惨状を知り、総掛かりの機を窺っていた。

 しかし一揆勢の抵抗も激しく、上から一抱えもある石を落とし登り来る兵たちを次々と叩き落とす。



〝畜生あんな農民や痩せ浪人共など、剣を手に闘えば屠るに造作もなきことだが、城内へ入らんことにはどうにもならねえ。果たし合いと比べ、城攻めとは厄介なものだな〟

 武蔵は年甲斐もなく石垣の下まで来て、上をのぞき見ている。


 その間にも、大小の石が降ってくる。

〝おいおい、こりゃ下手したら死んじまうぞ。止めた止めた、君子危うきに近寄らずだ〟

 武蔵は現実を前にして、あっさりと城への討ち入りを断念してしまった。


 彼独特の〝勘〟が働いたらしい。



 その〝勘〟以上の〝運〟が、その日の武蔵にはなかった。


「おお、これは武蔵殿ではござらんか、貴殿も城内へとおいでになるのか。さすがは天下一の武芸者、心意気が違いまするな。武蔵殿が相手ならば、城内の百姓連中など大根を切るがごとく容易く斃してしまわれるに違いない。われらは数で勝負せねば相手にもなりません。さあ者ども武蔵殿に後れを取るな、こんな石垣がなにほどのものやあらん。武蔵殿、上までの競争を致しましょうぞ」

 先日陣中見舞いを持って来た、有馬家の藤堂某がそう声を掛けてきた。


〝ちっ、余計なヤツが現れやがった。石垣を上る途中で大石にでも当たれば、それこそ命がなくなっちまう。こんなもん剣の腕がいくら立とうが糞の役にもたたん、運がすべてじゃねえか〟

 心の中ではそう罵りながらも、表面的には余裕の笑みを見せる。


「ははは、これしきの事いままでの命を懸けた果たし合いと比ぶれば、赤児の手を捻るよりも簡単なことでござる。軍監などという退屈な役にも厭き厭きしていた頃、ここいらで小笠原公の厚遇にお応えして、手柄のひとつも立てねばと思ったまで」

 苦し紛れに余裕の言葉を吐く。


「聞いたか武蔵殿のお言葉を、まるで物見遊山の如き気軽さではないか。日の本一の剣豪はこのお歳になられても気概が違う、われらも負けてはおれん一斉に取り付けい」

 この隊の指揮官なのであろう藤堂某の号令の元、兵たちがわらわらと石垣を登り始める。


 その間にも、先に取り付いた者が石と共にボロボロと落下して来る。

「ではお先にご免、城内でお逢い致そう」

 そう言って藤堂は自らも石垣に手を掛ける。



 その遣り取りを見ていた他家の兵たちが、あれやこれやとてんでに騒ぎ立てる。

「有馬の者たちも、ここは意地でも武蔵には負けられぬ所だな。なにせかつての居城が一揆勢の砦となっておるのだ、面目に欠けて乗り込むしかあるまい」

「しかし見てみい、片端からあの有り様じゃ。石が雨のように降ってくる、あれに当たりゃ良くて大怪我、下手をすれば命はない」


「そうじゃ、そうじゃ。誰か上まで攻め込み、石を投げている奴らをどうにかしてくれねばとてもじゃないが近寄れん。命を粗末にするのと勇気があるのは別もんじゃて」

「それにしてもさすがは天下一の剣豪武蔵よな、とうに五十を超えておろうに石垣を上るとは見上げた胆力じゃ。そこらの木っ端武芸者とは違うな、大したお方じゃ」

「そりゃそうじゃろう、なにせ彼の舟島では、当時最強と言われた巌流小次郎を一撃で倒したというではないか。京では吉岡一門を壊滅にまで追い込む働きをしておる、並みの人間とは格が違う」


「しかしいかな武蔵殿とて、大石を喰らえばひとたまりもあるまい」

「馬鹿を言え、あれほどの人物だ石の方がよけて落ちるわい。見ておれ、見事上まで登り切り一揆勢を斬りまくってくださる。そうしたらわしらも一斉に乗り込めば良い」

 勝手なことを言い合っている。


「でも一向に上る気配がないではないか、さすがの剣豪も臆したのではないのか」

「ほざけ、頃合いを見計らっておられるのだ。剣の達人は一瞬の刻を知っておられる、そのときはするすると上り詰められるのだ。黙って見ておれ、すぐにでもその刻は来る」


〝くそっ、勘弁してくれよ。勝手なことばかり言いやがって、俺もお前らも石が当たるか当たらぬかは運次第じゃ。石がよけるはずなどなかろう、当たればこの武蔵とて死んでしまうわい。しかしここまで来りゃ、面子に掛けても上るしかあるまい。あの藤堂さえ来なんだら、こんな事にはなっておらんものを。ええいままよ、やってやろうじゃないか〟


 一歩踏み出した武蔵の頭の中で〝行くな、行くな、行くな〟それを止める早鐘のような声が響き渡る。


「おお、武蔵殿が動かれたぞ」

 みなが一斉に囃したてたり、手を打って励ましたりし始めた。


「お頼み致すぞ武蔵殿、城内の輩をどうか石垣から離してくださいませ。そうすればわれらも後に続きます」

「武蔵殿、ご武運を」


〝もう後には引けねえよ、馬鹿野郎〟


 いままで一度として自分の勘に逆らったことのなかった武蔵が、生まれて初めてその禁を破った。

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