序章 業火転生變(一) 新免武蔵 16
3 詩篇天魔・異界転生 一(鹿賀・武蔵)④
『武蔵 2』
その〝勘〟以上の〝運〟が、その日の武蔵にはなかった。
「おお、これは武蔵殿ではござらんか、貴殿も城内へとおいでになるのか。さすがは天下一の武芸者、心意気が違いまするな。武蔵殿が相手ならば、城内の百姓連中など大根を切るがごとく容易く斃してしまわれるに違いない。われらは数で勝負せねば相手にもなりません。さあ者ども武蔵殿に後れを取るな、こんな石垣がなにほどのものやあらん。武蔵殿、上までの競争を致しましょうぞ」
先日陣中見舞いを持って来た、有馬家の藤堂某がそう声を掛けてきた。
〝ちっ、余計なヤツが現れやがった。石垣を上る途中で大石にでも当たれば、それこそ命がなくなっちまう。こんなもん剣の腕がいくら立とうが糞の役にもたたん、運がすべてじゃねえか〟
心の中ではそう罵りながらも、表面的には余裕の笑みを見せる。
「ははは、これしきの事いままでの命を懸けた果たし合いと比ぶれば、赤児の手を捻るよりも簡単なことでござる。軍監などという退屈な役にも厭き厭きしていた頃、ここいらで小笠原公の厚遇にお応えして、手柄のひとつも立てねばと思ったまで」
苦し紛れに余裕の言葉を吐く。
「聞いたか武蔵殿のお言葉を、まるで物見遊山の如き気軽さではないか。日の本一の剣豪はこのお歳になられても気概が違う、われらも負けてはおれん一斉に取り付けい」
この隊の指揮官なのであろう藤堂某の号令の元、兵たちがわらわらと石垣を登り始める。
その間にも、先に取り付いた者が石と共にボロボロと落下して来る。
「ではお先にご免、城内でお逢い致そう」
そう言って藤堂は自らも石垣に手を掛ける。
その遣り取りを見ていた他家の兵たちが、あれやこれやとてんでに騒ぎ立てる。
「有馬の者たちも、ここは意地でも武蔵には負けられぬ所だな。なにせかつての居城が一揆勢の砦となっておるのだ、面目に欠けて乗り込むしかあるまい」
「しかし見てみい、片端からあの有り様じゃ。石が雨のように降ってくる、あれに当たりゃ良くて大怪我、下手をすれば命はない」
「そうじゃ、そうじゃ。誰か上まで攻め込み、石を投げている奴らをどうにかしてくれねばとてもじゃないが近寄れん。命を粗末にするのと勇気があるのは別もんじゃて」
「それにしてもさすがは天下一の剣豪武蔵よな、とうに五十を超えておろうに石垣を上るとは見上げた胆力じゃ。そこらの木っ端武芸者とは違うな、大したお方じゃ」
「そりゃそうじゃろう、なにせ彼の舟島では、当時最強と言われた巌流小次郎を一撃で倒したというではないか。京では吉岡一門を壊滅にまで追い込む働きをしておる、並みの人間とは格が違う」
「しかしいかな武蔵殿とて、大石を喰らえばひとたまりもあるまい」
「馬鹿を言え、あれほどの人物だ石の方がよけて落ちるわい。見ておれ、見事上まで登り切り一揆勢を斬りまくってくださる。そうしたらわしらも一斉に乗り込めば良い」
勝手なことを言い合っている。
「でも一向に上る気配がないではないか、さすがの剣豪も臆したのではないのか」
「ほざけ、頃合いを見計らっておられるのだ。剣の達人は一瞬の刻を知っておられる、そのときはするすると上り詰められるのだ。黙って見ておれ、すぐにでもその刻は来る」
〝くそっ、勘弁してくれよ。勝手なことばかり言いやがって、俺もお前らも石が当たるか当たらぬかは運次第じゃ。石がよけるはずなどなかろう、当たればこの武蔵とて死んでしまうわい。しかしここまで来りゃ、面子に掛けても上るしかあるまい。あの藤堂さえ来なんだら、こんな事にはなっておらんものを。ええいままよ、やってやろうじゃないか〟
一歩踏み出した武蔵の頭の中で〝行くな、行くな、行くな〟それを止める早鐘のような声が響き渡る。
「おお、武蔵殿が動かれたぞ」
みなが一斉に囃したてたり、手を打って励ましたりし始めた。
「お頼み致すぞ武蔵殿、城内の輩をどうか石垣から離してくださいませ。そうすればわれらも後に続きます」
「武蔵殿、ご武運を」
〝もう後には引けねえよ、馬鹿野郎〟
いままで一度として自分の勘に逆らったことのなかった武蔵が、生まれて初めてその禁を破った。
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